創部50周年記念演奏会の開催まで
- まずは「創部 50 周年記念特別演奏会」のことについて、お聞かせください -
たまたま私達の年代が創部 50 周年に当たるということは 3 年生の時から把握をしておりました。具体的には 2 年生から 3 年生になる頃、学年合宿を開催している頃に「そういうものがあるよね」という話をしておりました。
- 現在は「学年合宿」というものを開催していないので、詳しくお聞かせいただけますでしょうか -
学年合宿というものは、2 月~3 月頃・冬のオフの時期に学年ごとで集まって、曲を 2~3 曲選んでトレーニング合奏をしましょうという催しでした。たしか、都内の青年の家のような所に集まっていたと思います。
具体的にどういう順序であったかは覚えていないのですが、当時の松本雄一郎監督(昭和 56 年/1981 年卒)に相談したりしながら、オフィシャルなイベントにした方がよいのではないかという判断のもと、OB幹事会にご協力をお願いするなど、当時部長の中島正樹と一緒に行動したと思います。 ただ、OB 幹事会の場では「どうやって人を集めるのか」「どの年代から集めるのか」「選曲は誰が主体的に行うのか」「指揮者は誰にするのか」といった多くの厳しい指摘があり、私達もその場では回答できなかったのですが、検討の末に自分達でやろうということで企画を進めていったのだと記憶しております。
OB会共催のオフィシャルなイベントとさせてくださいとお願いをしながら、生意気な学生が指揮を振ることも許してくださいとも申し上げながら、参加者を募集していったのだと思います。 その途上で、そうは言ってもOBの方にも指揮を振っていただきたいという話になりまして、様々な歴代の指揮者の先輩のお名前も挙がりながら、私達としては年代の比較的若い方にお願いしたいよねという話がありまして、高草木典喜先輩(昭和61年/1986年卒)に指揮をお願いしたというふうに記憶しております。根岸貴博先輩(昭和61年/1986年卒)など、その年代近辺の方々の支援が大きかったということも、一つにはあったと思います。
その過程で練習など様々なことがあったと思うのですが、あまり覚えてないですね(笑)。合同練習が大変だったことなども何となく覚えていますし、高草木先輩が練習参加する前に指揮の下振りをしなければいけなかったので、当時の高草木先輩の真似をして振ったりしながら進めた覚えがありますね。
そして、この企画は折角だから東京だけではなく地方公演も行おうという話になりました。その数年前に開催した「中央大学100周年記念演奏会」では、広島・福山・大阪で開催されたということなので、今回は大阪・名古屋でも開催しよう、と。大阪・名古屋はもちろんのこと、各地にもOB・OGの皆様が多くいらっしゃるので、お聴きいただく機会があるのも良いよね、というOB会とのお話がきっかけであったかと思います。
地方公演にOBの方々を引き連れていくわけにはいかないので、自分達だけで開催できるプログラムも用意しました。プログラムに重複する楽曲・しない楽曲があったわけですが、結局通常の演奏会の1.5倍くらいの曲を練習しなくてはならなくて、そういう意味ではヘビーでしたね。
創部50周年記念演奏会 プログラム (左:名古屋・大阪公演 右:東京公演)
- 重複していない曲が多くありますので、並行して練習されていたのですね -
そうですね、関西方面に行くので「『マネンテ』『ボッタキアリ』あたりを持っていこう!」という意識があったのと、「フランス作曲家クラシック作品の編曲などは、取り上げられていないだろう!」と。あとは「定番の鈴木静一は外せない」という流れであったのではないでしょうか。
- 地方公演プログラムについては、そのような意図・狙いがあったのですね -
はい、そういうことです。
- それでは地方公演は、基本的に学生だけで演奏されたということですね -
ただ、松本監督やエキストラの方には帯同していただきました。当時ずっとCUMCのエキストラを担当していただいていた、オーボエの岩上祐子さんやクラリネットの戸祭佳子さん、ファゴットには合田香さんもいらっしゃいましたね。パーカッションは清水奈津子さん達のチームに来ていただいて、その方達は大阪・名古屋もずっとご一緒していただきましたね。
倍管、編曲…「前野に睨まれた!」
東京はプラスして編成が大きかったので、100人を超えるメンバーだったはずですね。東京公演は、管楽器を「倍管」にしているのです。
- 東京公演を「倍管」にされた理由は? -
あまり明確に覚えていないのですが、その頃は私が大編成のオーケストラ作品に結構かぶれていた時期でもありました。また、鈴木静一作品などを演奏すると、この頃は管楽器と弦楽器が分離しやすい演奏になりがちであったので、どうしたらうまく混ざるかと考えておりました。 よく「管楽器の音量が大きい」と私自身も言いがちですが、この頃は管楽器にも「フルパワーで吹いてください」と言って、そのバランスに弦楽器を合わせるようなトレーニングをしておりましたので、Tuttiの部分は複数人で吹いていただくことで厚みが出るのではないかと考えて倍の人数に集まっていただきました。
- 具体的にご苦労だった点や、工夫をされた点はございますか -
OB の皆様をお呼びして練習するというのは、やはり人数が多かったですから、なかなかに大変なことではありましたね。どうやって進めていたのか、思い出せないのですが… 恐らくその時のシーンなのだと思いますが、京王線沿線の施設を借りて練習を開催していたのですよ。当時は打楽器合わせなどを大学の学外で実施することがあり、音研第三練習場にあるオーケストラや吹奏楽の楽器を借り出して、レンタカーのトラックに積み込んで、ということをよくやっておりましたね。 八王子キャンパスの 9 号館クレセントホールで実施するときも、リヤカーに打楽器を全部積んでトンネルをくぐっていたことを覚えております。なぜか、そんなことばかりが記憶に残っていますね(笑)。
また、地方公演では「牧神の午後への前奏曲」を、アンコールに「威風堂々 第1番」を演奏したのですが、既存のアレンジ楽譜が無かったのです。それをフルートの中島などと相談しながら、一生懸命に自分達で編曲しておりましたね。今考えれば酷いアレンジでしたけれど(笑)、委嘱するお金も伝手も無かったので「自分達でやるしかないか」と考えて、全パートの楽譜を書き起こしておりました。 「アルジェリア組曲」も高草木先輩が原譜をお持ちであったので、それをお借りして編曲し直しておりました。今考えれば「何をやっとるんだ」と思いますけれど、当時はやんちゃな学生だったので、そういうことを結構やっておりましたね。
今でも地方公演のことで覚えているのは、「彷徨える霊」の最後に重音の pizz.があるのですが、エキストラで出演していただいた松本監督が「ボンッ」と一人飛び出しまして(笑)。そういう事件が本番であって、たぶん私がすごい顔で睨んだみたいなんですね(笑)。今でも松本先輩には「前野に睨まれたんだよ」って愚痴を言われます(笑)。
合田香先生との交流、そして招聘
実は合田香さんとの話というのは、その地方公演が起点なのです。大阪公演が終演した日に、現地で打ち上げを開催して、帯同いただいたエキストラの方々にもご参加をいただいているのです。そこで合田さんに私が最初におうかがいしたのは「『牧神の午後』をマンドリンで演奏するのは、どうでしたか?」ということでした。 そして合田さんとは「マンドリンという楽器は音が減衰してしまうし、維持するにはトレモロをしないといけないですし」「フランス物・ドビュッシーの色合いというものであるとか、ボヤッとして混濁したような色が出しにくいから、正直とっても難しいですよね」というようなお話をしたのです。 合田さんから「(ドビュッシーなどの作品をマンドリンで)どうしてやりたいの?」と聞かれて、「いつも同じような楽曲ではつまらないから、やりたいんです」というようなお話をして、他のエキストラの方々も交えてワイワイと意見交換しておりました。
実は私が中大附属高校 3 年生の舞台で指揮をした時も、合田さんや戸祭さんにはエキストラとして出演していただいておりました。その頃はエキストラの皆さんも、学生か研究生くらいの頃だと思うのですが。そんなことなので、「君とは昔から一緒に出演しているよね」というような雰囲気でお話をさせていただいたのでした。 「前野君は、なぜマンドリンの指揮をしているの?」と聞かれ、「音楽が好きで、やめられないんです」というようなお話もさせていただきまして。その時に「指揮については少し習ったこともあるのですが、ほぼ独学です」と申し上げた流れで、「それなら、一度誰かに見てもらうのもアリですよね」「一度、練習を見に来ていただくのはどうでしょう?」というお話をして、その場では一度終わっているのです。
そして東京公演も終演した頃だと思うのですが、松本監督・中島部長・私との 3 人で相談をして、「桐朋学園大学で勉強して一流の音楽を間近にしている合田さんに、音楽を見ていただくのもアリなのではないか」という話になりました。 そして正式にお願いするに当たり、八王子の「うかい鳥山」という料亭に合田さんをご招待して相談したというのが、はじまりです。
「おっとっと、飲んじゃいましたねぇ…」が、招聘の決めセリフだったとか?(笑)
- 合田先生を招聘するということを倶楽部として決定したのは、どのような形でしたでしょうか -
あまり覚えていないのですが、総会で議題として決定していると思います。 その当時、音楽をちゃんとやるなら、そういった方をお呼びした方が良いという意見に、そんなに否定的だった人はいたかな… コントラバスの近藤義弘などはネガティブだった気がしますが、あまりいなかったのではないかと思いますね。正式に来ていただく前に何度かスポットでは来ていただいていたので、雰囲気の醸成はされやすかったはずです。
そこから始まって、秋の演奏会に向けて準備をしていくわけですね。当時の新入生が多数入部してくれた時期だったので、「学生だけで鈴木静一の『シルクロード』を演奏しよう!」という話になりまして、そこで合田さんにも様々なご教示をいただこうという方針になりました。
最初の頃は私達も、指導していただくためのふるまい方など、全くわからないんですよね。合田さんは今でもそうですが、初めて音楽のやり取りをする方と「音楽の『色・味・匂い』」であるとか「どう思うか・どう感じるか」という話を必ず最初にされますけれど、最初は部員全員、口を開いてポカーンといった感じで。「この人は、何を言っているんだろう…」という捉え方をした部員がほとんどだったでしょう。 マンドリンに限らず音楽をかじっていたという者が私の世代にも何人かいまして、当時コンマスだった土方卓はヴァイオリンを弾いておりましたし、マンドラの呉松敏はピアノをずっと経験しており、中島はずっとフルートのレッスンを続けておりましたし、私もピアノをしておりましたので、そういう人達は「匂い」「熱い」「寒い」「美味い」とか、「恋愛が」とかというものを音楽に乗せるという行為には抵抗感が全く無かったので、そのあたりを核にしながら続けていたのだと思いますね。
秋強化合宿にも、最初から来ていただいたのです。秋の演奏会は藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」を取り上げましたが、合宿中にギターパートだけを集めて、合唱パートを口で歌いながら伴奏部分のアルペジオを弾け、と。今考えてもなかなかハードですよね(笑)。そんな練習を合田さんにつけてもらっていたのは覚えています。
当時の強化合宿では 2 日に一度しかお風呂に入れないのを、「そんな環境では気分が悪くて音楽ができないよね」と言って毎日お風呂に入れるように変わったりとか(笑)。それでも、夜中の合奏に付き合ってもらったりもしていましたね。合奏だけでなくパート練習も見ていただいたり、サブコンダクターの宗村要君(平成 3 年/1991 年卒)の指導を私と合田さんでしたりとか。そういうことをやりながら、浸透していった感じですかね。
訪れる「危機」、招聘の「定義」
ただ、私が卒業した翌年、第一次危機がすぐにやってきました。 私が CUMC を卒業して、一旦 CUMC と私の関係は途切れているのですよ。そして合田さんは続投で、という話になっておりました。そうしたら、合田さんと私が連絡を取り合うことがあって、「申し訳ないのだけれど、1 回練習に来てくれないか?」と。「いやいやいや、私はもう卒業していますし…」と言ったのですけれど、いいから来て、と。
パルテノン多摩で練習をしている時でしたから、本番近くの時期だったと思うのです。 なかなかバラバラな状態で、合田さんも苦労されていたんですね。そこで思うところをいろいろと言ったり、指揮を振ったりもしたと思うんですね。 合田さんには「だから、君も見に来なければダメだよ」と、つまり OB として関り続けなさいというような内容を言われて、練習や合宿に何度か行ったと思います。だけど、特に 1 学年上と下というのは人間関係もデリケートなところがあるじゃないですか。気持ちとして、非常に難しいところでした。
そこで、そもそも合田さんをお呼びしている理由は何でしたっけ? という話を整理し直したのです。このままお呼びし続けているうちに「何故でしたっけ?」となる前に一度、ちゃんと定義しましょう、と。
「『音楽を楽しむ』とは何なのか?」ということを皆、探求したいよね、と。そのために合田さんに来ていただいている、と。その上で、テクニックやクオリティも良ければさらに良いでしょう。 そういった「良い音楽」をすることで、演奏している人と聴きにいらしている人が一体化するというような、そういったことを定義したと記憶しております。それを目指すには、こういった方に来ていただくのが良いのではないですか、というような話を。
もっとも、桐朋学園大学ご出身の音楽家の方々というのは齋藤秀雄さんや小澤征爾さんを筆頭に、概ねそういう方が多いんですよね。ですので、そういった音楽的志向で、マンドリンという楽器を使ってそこにチャレンジしていくために来ていただこう、という再確認をして。 そして合田さんに継続して CUMC に来ていただく定義付けをした末に、合田さんより「そういうわけで、前野さんは必要なのですよ」と。そのように合田さんから CUMC に直接お話しをされて、指揮や合奏をトレーニングする「アシスタントコーチ」という役割を私がいただくことになったのです。
恐らく、その1シーズンか2シーズン後かもしれないですけれど、そうすると改めてテクニカルな面が追い付かないので、青山忠先輩(昭和57年/1982年卒)に「技術コーチ」としてCUMCに関わっていただこうと。「青山さんだったら、どう弾きます?」というようなことを実践の中でトレーニングしていただこうというような形にしていきました。一時期は合宿に行くと、合田さんも青山さんも松本さんもいて、私もいるみたいな感じであったと思います。 最終的には柄本卓也さん(平成8年/1996年卒)や酒折文武さん(平成10年/1998年卒)も、合田さんにとって「必要な存在」として、トレーナーとして巻き込んでいきましたよね。
CUMCを卒業して今でも音楽を続けている方というと、そのあたりの深い時代に一緒に活動していた方が多いかもしれないですね。今でもアンサンブルをされたり、独奏や合奏など様々にされたりしていますけれど。
その後、青山さんに呼ばれて10年くらいクリスタルマンドリンアンサンブルの指揮をさせていただきました。CUMCの面倒を見ながらクリスタルも出演してと、結構ハードでしたけれど…。クリスタルの参加は、第11回から第20回までですね。 今考えるとすごいと思うのは、青山さんをコンマスに据えている合奏団の指揮をしていたということですね。もっと丁寧にやれたのにな…と、今では思いますけれど、若気の至りですね(苦笑)。
その後、学生の人数が少なくなったり、CUMCの環境が変化していく中で、一旦コーチとしての活動は引き下がらせていただきました。 その少し前ですかね、ポルタビアンカマンドリーノの立ち上げがあったのは。こちらは当初から合田さんに音楽監督として関わっていただいて、私も指揮者として携わらせていただきました。
社会人として、続けることの理想
- 理想論になってしまうかもしれませんが、前野先輩のお考えとして、マンドリンの社会人団体というものがどういった形で回数・年齢を重ねていくのが理想的だとお考えでしょうか -
中央大学というような同門に必ずしもこだわるものではないですけれど、同門のところをもう少し大事にしてやり続けられるようにした方が良いのではないかと思いますけれどね。 今年(2023年)、CUMCにて記念演奏会を開催するのは良いのですが、いつもワンショットで完結してしまうんですね。本当はそういったイベントを機に、これを母体にして、卒業しても合奏を続けられる環境を維持することができれば良いと思うのですが。ただ、その団体としてやりたいことと、実際に参加する方がやりたいことについては折り合いがつかないこともあったりするので、難しいですよね。
あとは、私も含めた年配者が頑張らないといけないですよね(苦笑)。50代・60代の世代から率先して「やろうぜ!」と言わないと、動きづらいのではないでしょうか。経験と知識があり、そろそろ時間の余裕が出てくる人々が、練習場所や楽譜を確保したり…「それは、若い者の仕事だろう」なんて言ってはいけないと思うのですね。若い方からも、遠慮なくお願いすればいいと思いますよ。
その点は、合田さんもずっとおっしゃっておりましたよ。どんな形でも、楽器を変えてでも良いから、音楽を長く続けて欲しいと。音楽が続けられる受け皿となる環境があるのは、理想ですよね。 個人の音楽的志向や好き嫌いはあるので、一つの団体に固定化することが面白くないと思うことはもちろん理解できます。そういうものをどこかに一つ持った上で、それでも戻れる場所が持てれば良いのではないかと思いますね。
- 多くの団体を見てきまして、うまく運営されているところもあれば、いつの間にかうまくいかなかなくなるところもありますね。前野先輩のおっしゃったような「何のために」という定義付けがクリアでないと、年月とともに団体のカラーが変わっていってしまうということは感じます -
それでも、「みんなが集まって合奏しているだけというのが楽しい!」ということも、否定するわけではないのですよ。そういう団体のカラーをキープしていければ、ちゃんと継続していけると思うのです。 「楽しくやる」とか「ガッツリやる」とか、それは志向ですからね。ただ、はぐくみ育てられたCUMCという環境は大事にしていきたいし、大事にして欲しいとは思います。
私の音楽的志向というのは、一人で練習したり演奏したりというよりも、ライブで同じ空気を吸っているところで音が飛び交う。それを聴く人もキャッチするし、演奏する人もそれを発信する、みたいな。それが私にとっての本質なのではないかと。 それをやれる素地をCUMCで・CUMCが作ることができたのは、大きいと思っております。
入部理由は、超ネガティブ(笑)
- そんな前野先輩が音楽に触れるスタートというのは、どのようなものだったのでしょうか -
最初は、ヤマハ音楽教室です。その後、幼稚園年長か小学校1年生くらいから、ピアノの先生についてレッスンを受けておりました。小学校の頃は特に疑問も感じることなく続けており、中学校1年生くらいから「男のくせにピアノを弾いている」などと言われたりしましたが、めげずに続けておりました。 中学校3年生の時に合唱コンクールのピアノ伴奏を担当することになりましたが、自分の世界を貫いてガンガン弾いて、音楽の先生を困らせたことがありました(笑)。
- こう言ってはなんですが、前野先輩らしさが目に浮かびます(笑) -
そうでしょう?(笑)。その流れで、音楽の先生と「音楽がやりたいの?」「別に…好きでやっています」といった話をしたと思いますが、普通に受験をして高校生になって、その時もまだピアノは続けていました。 そして高校に入学して、何か音楽をやりたいと思って音楽系の部活を探したときに、選択肢が「吹奏楽部」と「マンドリン部」の2つだったわけですね。吹奏楽部を見学したら、これはどうも違うな… と思いまして。そこで仕方なく、マンドリン部の門を叩いたわけですが…
- 今まで様々な方をインタビューさせていただきましたが、ここまでネガティブな入部のきっかけは初めてです(笑) -
ええ、超ネガティブ(笑)。それしか選択肢が無かったわけですからね。でも、とにかく音楽はやりたいという希望がありましたので。
- 逆に、音楽系の部活に入らないという選択肢は無かったのですか? -
そうしたら、私は自宅が近かったので、学校と自宅の行き帰りだけで何もしなくなっちゃう感じですよね。ピアノを続けるだけで… ああ、ピアノに対するフラストレーションというものもありました。ピアノという楽器は、音が減衰してしまうので、一つの音ではクレッシェンドすることができないというフラストレーションがありまして。一音の中でクレッシェンドできる音楽がやりたかったのです。それなのにマンドリンを選んでしまいまして、さらに減衰するじゃないか(笑)、と。 ただ、ピアノだけでは満足できなかった、ということはありました。
- それで、仕方なくマンドリンを始められた、と… -
それでも入部したからには、真面目に練習しておりました。音楽を真面目に練習するのはピアノで慣れていたので、オデル教則本などを見ても特に何も違和感がないわけです。練習してある程度弾けるようになると面白くなってきますし、鈴木静一の世界も新鮮な衝撃でした(笑)。
- クラシックピアノの畑で育った方にとっては、新鮮で衝撃的ですよね(笑) -
指揮者になりたくはなかったが…
そして高校2年の時に、自分達の代の指揮者を決めなければいけなくなりましたが、その頃の私は指揮者をやりたくなかったのです。
- それは、意外です! -
その頃はむしろプレーヤーとして、マンドリンを弾いていたかったのですね。 私は中島を指揮者に推したのですが、彼も「フルートを吹きたい」と、私以上に強く主張されてしまいました。 また、パート人数の都合もありまして、当時マンドリンパートは5人くらいいたのに対して、マンドラは2人・マンドロンチェロは1人・ギターは2人しかおらず、「マンドリンが多いのだから、マンドリンから出せばいいじゃないか」という空気になりますよね。
ただ、私自身もその頃にはクラシック音楽に十分かぶれておりまして、リヒャルト・シュトラウスやマーラーに興味を持っていた時期でした。一方、フルートの中島は歌劇の方に興味が進み、お互いに「あれを聴け」「これが良い」と勧め合っていたほどでした。ですから、自然と「指揮者」というものへの憧れもあったわけです。
そのような流れで指揮者を引き受けることになったのですが、独学で勉強するには限界があると思い、ピアノの先生にどうすれば良いか相談をしたところ、「合唱の先生が良いと思う」と勧めていただけました。ちょうど母親がコーラスに参加していたのですが、そのコーラスの先生は、オーケストラ付きの合唱曲も指揮をされる方でしたので、まずはその方のところに行ってみよう、と。
その指揮者の方の門戸を叩いて、2、3回ご指導を受けていたら「合唱にも参加をしなさい」と言われまして、結局は指揮を習っているような、合唱を習っているような… そのような形で、指揮の基礎的な部分は教わることになりました。 本番にも何度か、バスパートとして出演しているんですよ(笑)。でも、それはそれで良かったと思いますね。ブレスの取り方など、具体的に勉強する場になりましたしね。
「音楽で食っていく」べきか? の苦悩
そして高校を卒業して大学に入学すると、転機が来るわけじゃないですか。今度は「管弦楽部」が選択肢にありますから。オーケストラに行こうかなとも考えましたが、先輩達の圧に抗えず… マンドリンを続けることになりました。
その頃もまだピアノを続けておりましたが、次の選択肢として「音楽を職にする」ということも思い浮かんでくるわけです。3年生か4年生の頃、合田さんに相談したのでしょうか、何人かに相談したのだと思います。 そこで「何の分野で?」という選択があるわけですね。プレーヤーなのか、先生なのか。プレーヤーであるとすれば、楽器奏者なのか、指揮者なのか。頑張ればできるのでしょうけれど、厳しい道なのは明らかですよね。その頃は、本当に悩んでいましたね。
音楽が好きで続けているのだから、音楽を仕事にすると音楽が嫌いになってしまうかもしれない。音楽を職業にしていくことと、やりたい音楽を続けることは、別物なのではないかと思ったわけです。それならば、趣味としておいた方が良いのではないかと。そんなことに気づいたときには、卒業できない単位になってしまいまして、もう1年大学に行っていたのですけれど。 そのようなわけで大学を卒業することにして、安定した会社員生活を選びながら、やりたい趣味を楽しむことにしました。それはそれで、決断に後悔はありません。
私が常日頃申していることですが、練習やリハーサルに行くこと自体が楽しくなければ、行っている意味がないわけです。 ですから毎回汗だくになりながら指揮を振っていたりしたわけですけれど、それは「やりたいことは、こういうことだから」というだけでしたから。ただ、それも継続していくと義務化されていきますので、辛いと思うこともあります。
- そうですね。アマチュアといえども練習の先には本番が決まっておりますし、自分だけの団体・集まりではないわけですから -
そうですね、皆さんもそれぞれ都合がありますし。練習を繰り返しても、プロとは違ってある程度は練習前の状態に戻ってしまうのがアマチュアですし。それは、仕方がないですよね。 そういうフラストレーションをゼロにすることはできませんが、それでも一生懸命取り組まないと楽しくないですし、そこで良い演奏ができれば本当に楽しいですしね。そこは私のポリシーですから、どうやっても曲げることができない部分ですね。音楽をするのならば、「そうありたい」というのが優先してしまいますので。
合田先生コーチング前後の変化
- 合田先生の指導を受ける前と、指導を開始された以降で、前野先輩から見てこれが変化したと感じることはありますでしょうか -
「マンドリン合奏」から「マンドリンオーケストラ」に変化したように感じます。
私の申し上げる「マンドリン合奏」というのは、「シンフォニックに響いていない」ということでしょうか。各パートが同じタイミングで、それぞれあまり関係を持たずに鳴っている状態ということ。それが秋の演奏会には、まだ完全ではないのですが、音同士が重なったり、フレーズが全体で動きを持ったり、オーケストラ的なサウンドに色付いていく途上にあったと感じています。
トレーニングの方法が、全く変わりましたから。タイミングと音量を合わせて… という練習方法からその先へ、フレージングやダイナミクスをどのように色付けていくか? というようなことを取り入れる世界になりましたので。
私自身もそういったことを春の演奏会でやりたいと思って、例えば「牧神の午後」などにチャレンジしてみたのです。しかしながら結局は私自身も、これまでCUMCが紡いできたことの延長線上の範囲でしか取り組める材料を持ち合わせておりませんでしたから、限界がありました。そういった変化をもたらしたのが、秋の演奏会であったと思います。
- これは以前、前野先輩からお聞きしたのですが、「牧神の午後」を演奏するにあたって、各パートのアーティキュレーションなどを自分のイメージに徹底するために、全パートの楽譜にクレッシェンド・デクレッシェンドの指定を記載したと仰っていたと思いますが -
ああ、書き込んでおりましたね。「涙型クレッシェンド」や「下に向かうクレッシェンド」など、変な記号を作って書き込んでいました。ただ、それは結局「形」でなんとかしようとしていたわけですね。
昔の恥ずかしいパート譜を見返すと、「クレッシェンド!!!!」「大!!!!」とか書かれているんですよね。それが合田さん以降はそういった書き込みが無くなっていって、例えばフレーズの流れを株価チャートみたいな曲線グラフで描いて、「うね~~~っていって、ここがピーク!」みたいな。表現についても例えば「柔らかく」だけでなく、「フワフワ」「モヤモヤ」というようなものが加わったりという変化がありました。
特に指揮者の指導については「フレーズを口で歌ってみなさい」というシーンが増えたと思います。「アクセントを付けて」というところから、「『パン』なのか『バンッ』『ペンッ』なのか、歌ってみて表現してください」というように変化したことが大きいです。
楽譜に書かれていたものを即物的に音にするところから、より「人間の感覚」を表現して「本質を問う」方向に向かったというのでしょうか。 「すごく重い」と表現するか、「手にしたらあまりの重さに、床に手がついてしまうくらいの重量がある」と表現するか。「でっかい音」と表現するか、「地響きがして大地が鳴動するかのように」と表現するか、というような違いでしょうか。
鈴木静一作品には、曲想・曲目解説がついているじゃないですか。昔の演奏会では、それを演奏前にナレーションで読み上げるということがあったと思います。あれは大事なんだな、と今では思うのです。そういった「大地が鳴動する」といったニュアンスをテキストとして表現されているので、楽譜上には記されていませんが… マーラーの楽譜ではそれがテキストとして書かれているのですが、鈴木先生も楽譜に書いておいてくれれば良かったのにね(笑)と思います。
- 私がビデオを拝見した印象では、まず顔を上げている人が多くなりましたね -
これは少々笑い話になりますが、私が下級生の時にはマンドリン奏者として、1stの最後列などで演奏しているのです。この時の映像を早回しにすると、私の首だけブンブン動いているように見えるのです(笑)。周りの方々は微動だにせず、指だけが動いていまして。
合田さんの指導以降は、全体のフレーズを体で感じたり、目線が上がったり、息が入ったりという指導が入っておりますから、確かにビジュアルが変わっていると感じるかもしれませんね。
- 他大学出身の方からは「何故あんなに動くんだろう」と聞かれることはあります -
それは言われるでしょう。「気持ち悪い」とか(笑)。でも、それは表現を突き詰めていくと、自然とそういう方向になっていきますし。そもそもオーケストラの演奏会を見に行くと、演奏者は動いていますよね。
演奏者が必要以上に体を動かさなければいけない理由として私が考えるのは、コンサートマスターがその仕事を十分にこなせていない状況がある場合です。オーケストラの演奏会では、コンサートマスターをはじめ首席奏者がものすごいアインザッツを出していますよね。それを自主的にやっていただければ、指揮者が頑張らなくても済むわけで(笑)。 何をもって上手いオーケストラと言うか難しいですけれど、それこそサイトウキネンなどは気持ち悪いくらい動きますよね。
私はあまりビジュアルについては見てこなかったのですが、指導を通じてそういった変化はあったかもしれませんね。
指揮:合田香 コンサートマスター:前野一隆 (ポルタビアンカマンドリーノ第2回演奏会リハーサル)
「形」から「感性」へ、それはCUMCを超えて
本番当日の、聴いていただく側の空気感も変化していると思いますよ。楽曲の始まりの空気感など、変わっているかもしれません。私が関わる練習の時も、演奏冒頭の空気についてはこだわっていたじゃないですか。そこは昔と比べて全く変わってしまったかもしれません。
- そこが前野先輩のおっしゃる「発表会」と「演奏会」の違いの一つということなのでしょうか -
でも「発表会」も、違う緊張感があるじゃないですか。「うまくやらなきゃ」「失敗しないように」みたいな。「演奏会」はもちろん「うまくやらなきゃ」もありますけれど、「最初から表現しなきゃ」みたいな。そういう違いはあるかもしれませんね。
- 演奏会開幕の「校歌」と、終演前の「惜別の歌」を演奏されなくなったのも、前野先輩の代からだと思いますが -
ああ、それも私からかもしれません。 プログラムを決める上で「始まりの音をどうするか」というものがあると思います。選曲の上で「これは、オープニングの曲だよね」と決めているはずなのに、オープニングの前に質感の異なるものが入ってくることをどう考えるか。アンコールが終わって素晴らしい拍手をいただいた後に、異なった空気のものが入ることをどう感じるか。そういった発想で、判断したと思います。
ただある時期から、司会進行はあっても良いか、とは思いました。それは、特に演奏会を訪れることが不慣れな方のために「これから演奏されるのはこのような意図でこのような感じで作られた曲で、こういう雰囲気の曲ですからお聴きください」ということは提供しても良いのではないかと。 特に鈴木静一先生の曲想は、演奏前に良い声で朗読していただきたいと今でも思っております。「邪馬台」や「失われた都」の前に朗読があると、間違いなく良いものになると思います。
そういったものも含めて、見栄えや形を優先するのか、感性を重視するのか、ということだと思います。そういった音楽が続けられると良いですよね。
- そういったDNAは現在のCUMCにも少なからず伝わっていると感じています -
でも、ポルタビアンカで活動していた時には、出身校に関わらず様々な血統の方がいらしていただいて、理解して取り組んでいただいておりましたよね。 「音楽を楽しむ上で、こういった幸せがあると思います」ということをご理解いただくことに関して、そこはCUMCだから、ということはあまり関係ないように思います。
(2023.10.17取材)