濱春菜(はま はるな)・木村(旧姓:神山)智美(きむら ともみ) 平成24(2012)年卒

先輩方の(ある意味)おかげです。

- お二人とも附属高校からマンドリン倶楽部での活動をスタートしたということですが、それ以前の音楽経験はおありなのでしょうか -

木村智美(以下・木): 5歳から小学5年生までピアノを経験していました。

濱春菜(以下・濱): 私も3歳くらいからピアノを始めて、中学1~2年生でやめました。中学生の時に、吹奏楽部でクラリネットを担当していました。

- なぜ高校でマンドリンを始めたのでしょうか -

木: 私は三國(旧姓:小関)美紀と同じクラスでした。よく覚えていませんがなんとなく一緒にマンドリン倶楽部に行ったら、安武先輩というかわいい3年生がいて、「あ、めっちゃかわいいじゃん(笑)」と。

濱: (笑)

木: すごくフレンドリーな先輩でしたが、入部1ヶ月で辞めちゃって。

濱: えー(驚泣)

木: 私は安武先輩と仲良くなりたかったから入部したのに… ショックでした。ただ、入部したからには辞める理由は無いですし、そのまま続けておりまして。

濱: えらい! そうだったんだ、知らなかった…

濱: 私は実は、5月頃に遅れて入部したんです。実はマンドリン倶楽部自体は、高校入学前の白門祭で知っていたのです。

 実は母がマンドリンを弾いていまして、マンドリン自体も昔から知っていました。母は短大のマンドリンクラブに所属していて、社会人になっても横須賀のマンドリンサークルで演奏活動をしておりました。そこに私も幼稚園児くらいからついていっていたので、マンドリン自体は馴染みがあったのです。
 中大附属の白門祭に行った時に、「マンドリン倶楽部があるみたいだから、ちょっと行ってみようか?」と、母親と一緒に演奏を見に行って、「この人達、プロなんじゃない?」というくらいにすごいなと思ったんです。たまたま中学の吹奏楽部の先輩も一緒に来ていて、「マンドリン倶楽部ってすごく上手くない?」「レベルが違いますよね?」という話をしていた記憶があります。

 中大附属に入学することができて、マンドリン俱楽部に入ろうかと思っていたのですけれど、受験もしたいと考えていたので、悩んでいたんですね。
 中大に上がるか、高校受験を乗り越えたこの波に乗ってこのまま勉強したらもっと高みに行けるか、と。いろいろと自分の人生を考えていまして。

木: おお、すごいね! よーし附属に入学できた、大学受験ありませーんと思っていたのに。

濱: (笑)たぶん部活を始めたら、このまま中大に上がることになるかなと思っていたので。まあでも、部活動も自分にとって損は無いかと思い入部しました。
 ただ、今でも思い出しますが…5月に入部して、みんなひたすら開放弦を上下に鳴らすだけの基礎練習をやっていた風景に驚いて(笑)。

木: みんな、半分寝ながらやっていたからね(笑)

濱: バイーン、バイーン… って。これは何の集団だろう(笑)って思いました。結構あれで挫折する人が多かったよね。なんじゃこりゃ!? と思って。

木: うん、私もなんじゃこりゃ!? って思ってた(笑)

- そして、そのまま高校卒業後もCUMCへ、と -

木: みんないるから、大学でも続けようか? という感じですね。

濱: まあ、ズルズルっと… と言うと、失礼かもしれませんが。

100回記念、いつやる?

- CUMCの「第100回記念演奏会」について、当時のことを詳しくお聞きしてよろしいでしょうか -

木: 大学1年生の秋の定期演奏会終了後、打ち上げ会場だった西郊で、なにやら存じ上げないOBに囲まれて「君達、100回の代なんでしょう? 楽しみにしてるからね」「君は高校3年生の時に指揮者だったよね?」と言われまして。

濱: えっ、そんなに早くから!?

木: どうやら私達、すごい代になっていたんだなと思いました。あー、やらなきゃいけないんだな(汗)と。

濱: 年に2回定期演奏会を開催するので、第100回は4年生の春に開催することになる、と。ただ、1年生の頃から4年生を見ていて、就職活動とかぶる時期は大変そうだなと感じていました。
 そのような環境で、100回という大きな節目のものを開催できるのかなという声が、現役生の中からは既にありました。まずは私達の代でそれについて話したのが、確か大学2年生の時でしたね。

木: 先輩方が就職に苦戦していることを、ちょうど私達も感じていた頃ですね。

濱: まさにリーマンショックの起きた2009年頃のことで、本当に苦労されている姿を見ていました。
 ですので、自分達の将来を賭けた時期に100回記念も両方できるのかというと、正直難しいのではないかというのが私も含めたほぼ全員の意見だったと思います。

木: 開催するとしたら、全員で出演したいと言っていましたね。ただ、春の定期演奏会は就職活動を優先して出演しないかもしれないという声が、実際に既にあったので。

濱: そうそう、実際に私は春に出なかったしね。みんなには申し訳ないなと思いつつ…
 そもそも春は基本的に2年生以上+経験者の新入生しか舞台に上がれないという人数の都合もあり、管打楽器のエキストラは入れない、というイメージがありました。

木: そう、秋の方がメインっぽい定期演奏会、という位置付けをしてましたね。

濱: 一度、「演奏会自体を年1回にしないか」という意見を出したのですよ。年に2回開催する理由って何だろう? と改めて思いまして。

木: うん、それは今でも考えるよね。

濱: 言い方は悪いですけれど、中途半端だなと思いまして。未経験者の1年生も出演できないわけですよね。この際、秋の1回に集約して100回記念にすればいいんじゃないか? と考えて案を出しました。
 ただ、これについては部内で意見が二つに割れましたね。私達の同期でも半分くらいに割れていました。記念演奏会となると「自分達の演奏会じゃない」という意識がどうしてもありますから、自分達が主体となる演奏会はどこかで開催しておきたいという話になったんですよね。

 なかなか結論が出ずに悩んでいた時に、同期の國永久志と市川友也の二人だったと思いますが「100回記念演奏会を101回に開催しないか?」という案を出してくれたのです。あぁなるほど、その発想は無かった! と思いました。秋には全員で集中できますし、春も自分達が主導で開催することができて、両方の意見が反映される形になるのではないか、と。
 その案でOB会との、確か2回目くらいのミーティングであったかと思いますが、「記念演奏会を秋に開催したい」と相談したところ快諾をいただけた、という経緯であったと思います。

100回記念、どこでやる?

濱: 秋を記念演奏会とした場合、シーズン的にホールが抑えにくいのではないかという課題がありました。11月・12月はプロのオーケストラもコンサートが多いので、今度はホール問題ですね。
 OB会としては都心で開催して欲しいという希望があり、資金的にはバックアップしていただけるとのことでしたが…

木: すみだトリフォニーホールとか、サントリーホールなんて話もあったよね(笑)

濱: マジで?いいの?(笑) なんていう話もありましたね。大学が八王子なので、それまでは八王子寄りのオリンパスホール八王子(現:J:COMホール八王子)や三鷹の武蔵野市民文化会館、芸術文化センター等を使用するのが流れでしたので。大きな夢を掲げていただいてありがたい反面、どうしようか? という感じでした。
 ホール確保をするに当たり、まずは自分たちの代で始めたのですがこれが失敗で、予想以上に大変なため後輩にも手伝ってもらうことになりました。結局ほとんどダメで…

木: 大田アプリコしか取れなかったんだよね。

濱: そうそう。これも恥ずかしい話なのですが、私の母が取ってくれたのです。ちょうど合宿期間でホール予約抽選に行けず、恥ずかしながら親に頼ったら、見事に当選してきてくれて(笑)。どうなることかと思いましたが、あの時は本当に救われましたね。

木: 本当に、ギリギリだったね。

濱: そう、ギリギリだったよね。ちょうど日曜日が取れたことに加えて、前日夜のゲネプロ会場としても抑えることができて、日程的にも完璧だったよね。

濱: 会場が決まった翌日か翌々日くらいに、ホテルニューオータニでOB会の会合があって、私と木村でビュッフェみたいな所に行かなかったっけ? ご年輩のOBの方々が居並ぶ中で「記念演奏会よろしくお願いします」という挨拶をした記憶があるんだけど… たぶん、後輩たちは目にしていない場所で私達二人は動いていましたね。

木: 御茶ノ水にあった駿河台記念館(現:中央大学 駿河台キャンパス)にも、何回か行ったよね。

濱: 行ったねー。綺麗なところだったよね。ご年輩のOBがたくさんいらっしゃるから、学生の私達が何か申し上げても論破されてしまいそうで、タジタジでしたけれど。

木: でも、松本雄一郎元監督(昭和56年/1981年卒)など、私達の話をよく聞いてくれたよね。

濱: そう、よく聞いてもらえたよね。名達誠一監督(平成9年/1997年卒)も間に入っていただいて、実行委員会のOBの皆さんにも協力していただいたので、スムーズに進めることができました。
 恐らく私達が見えていないところで、具体的な情報が私達の耳に入ってくる前にも、いろいろなご活動があったんだろうなと思います。

木: 社会人としてお忙しいはずなのに… 私達が社会人になって振り返ってみて、わかることですね。

- 「記念演奏会を開催する」と早めに決定していただいたことと、諸々の判断をある程度OB会・実行委員会に委ねていただけたことで、様々な動きをとることができたのではないでしょうか -

濱: ありがとうございます。そう仰っていただけまして、良かったです。

100回記念、何をやる?

濱: 全3部構成のステージにするというのは、結構早く決まりましたね。①現役ステージ ②OBOGステージ ③合同ステージ の3部構成で良いのではないか、ということで。結果的に100人くらいの出演者数になって、舞台ギリギリになっていた気がします。
 参加募集の際には申し訳ありませんが、「練習2回以上出席できる」というような条件を設定させていただいたと思います。

濱: また、選曲も課題でした。何を取り上げようかと様々な案を出しましたが、私達から挙がった曲は何故か暗い曲が多く… そうじゃなかった?

木: ちょっと、ひねくれてる感じだったよね(笑)。もうちょっと、華やかな感じでも良いのに。

濱: そうそう(笑)。今から思うとみんな、ちょっとひねくれてるよね。

木: 最終的に、なんで「朱雀門」になったんだっけ?

濱: 実は、小玉亨一先輩(昭和61年/1986年卒)から「音楽物語をやらないか?」というお勧めをいただきまして。

木: あっ、小玉先輩から!? よく覚えてるね。

濱: (笑)理由やきっかけは、それだけではないと思いますけれど。確かに自分達の案では暗い曲ばかりになってしまい、「記念演奏会なのに、こんなに暗いプログラムで良いのか?」とは感じていました。朱雀門もストーリーとしては暗いですが、

木: でも、バックアップが厚いこの時でないとできない曲だし、最近は誰も演奏していないし。

濱: そうそう、誰もやってないしね。音楽物語を取り上げることは誰も抵抗が無かったと思います。他の音楽物語も検討した中で、朱雀門はストーリーの暗さはありつつも音楽的な華やかさはあったと思い、選んだという経緯でした。
 ただ、やっぱり暗いな(笑)、と。それでもう1曲に「パゴダの舞姫」を選んだのです。

木: パゴダの舞姫も、演奏するには管打楽器のエキストラが多数必要だから、この時じゃないと! ってね。

濱: そうそう。そのアイディアを出したのは前田裕介だったと思います。これもスッと「いいじゃん! 今しかないよね?」という感じで決まったと思います。

木: 「100回記念だから、なんでもできるぞ!」と、OBのバックアップを「私達が存分に利用させていただきました!」という感じの選曲になってしまいましたが(笑)。

濱: 音楽物語ではなかったら、「シルクロード」という案も出るには出ていましたね。

木: 「失われた都」という案も挙がってなかった?

濱: ああ、挙がってた! ただ失われた都は、記念演奏会ではなくても良いかな? という雰囲気もあったよね。
 こんなに人数が集まる機会も滅多にないですし、せっかく集まっていただけるのですから、「やってみたい」「おもしろい」と思えるものが良いと考えました。あとは、「鈴木静一作品」というのは間違いありませんでしたね。私達に染み込んでいる鈴木静一作品への思い入れは当然にありますし、またCUMCを指導されていた歴史があり、実際に指導を受けられていた先輩方もいらっしゃることもありますので、これはやるべきだ・やった方がよい・やりたい、ということでした。

木: 集客も見込めるしね。来場もそうだけれど、出演していただけるということも含めて。

濱: 出演してもらいえないのも困るよね。「えー、この選曲?」って思われても哀しいし(笑)。せっかくやるなら思いっきりやれる曲を、ということで。

濱: 結局、合同ステージは神山が全曲を指揮したしね。

木: そうだね。青山忠先生(昭和57年/1982年卒)、指揮を振ってくれるって言ってたのに(涙)。

濱: (笑)

木: 「先生、振ってください!」って言って、「いいよ」って言ってたのに。演奏会当日に日生劇場のオペラの仕事が入ってしまって、「ウチらより、オペラなんだな~(涙)」って。

濱: (笑)あれは、ちょっと思った! 思ったけど、あれはしょうがない。

木: しょうがないか~(笑)。

濱:それでも私は、そういう状況でも午前中のゲネプロに来ていただけたことは嬉しかったよね。ちゃんと私達のことを気にかけてくださっていたんだな、と。
 青山先生がコーチとして本格的に指導していただける体制になったのが、私達が大学2年生の頃からでした。そこから、音楽の方向性が変わったような気がします。定期演奏会の曲目にポピュラーも入れるようになりましたし、

木: 弾き方も変わりましたね。ガムシャラではなく、ちゃんと譜面通り弾きましょう、というような。

濱:そうそう。先輩方がすごく上手かったので、こういうふうに演奏すれば自分もこのようになれるんだなと思って練習していたんですけれど、「そうじゃない」と。特に、マンドリンのプロですのでマンドリンには厳しかったですね(笑)。私個人にとってはつらい時期でもあり、今まで培ってきたものを一回壊さなければいけないというのは、すごく勇気が必要なことでした。

 でも、私達の代には大学から音楽を始めた人も半分くらいいるんですね。彼らの方が先入観が無いので、「青山先生のおっしゃることも正しいと思う」と、正直に言ってくれたんです。あぁ、そうなんだ、と。自分達が知っている限りの狭い知識だけでは良いものはできないのかな、青山先生に指導していただくことによって自分達の幅が広がるのかなと、新たな気付きを得たと思い直しました。

 そういう意味で、私達の代は結構バランスよく運営できたなという気がします。演奏だけでなく、記念演奏会を企画するにしても、いろいろな意見が出る中で、それが結果的に実を結んだのかなと思いますね。

楽しそうに弾いてるなー(笑)

- 記念演奏会の指揮者を務めた視点からは、どうでしたか? -

木: あれだけの人数を指揮させていただいたことが、まず貴重な経験でした。その上で記憶に残ったのは、OBの皆さんが、本当に楽しそうに弾いているなー、と(笑)。

濱: (笑)

木: 指揮台に立っていると、手前のプルトというのがどうしても視線に入りにくいんです。自然と3プルト・4プルトの先輩方に目を向けると、楽しそうだなー、って(笑)。アンコールになってようやく、同期が座っている1プルトが見えてくるんだけど。

濱: (笑)アンコールはもう、満場一致で「祝宴」だったしね。

木: 終演後も「ありがとう!」と出演された先輩に握手を求められて。聴いてくださった方からも、こんなに声をかけてもらえたことは初めてでしたね。客席から「ブラボー」をいただいたのは、この時だっけ?

濱: これこれ!

木: ブラボー、初めて言われた(笑)!と。客席の熱量もすごかったよね。「朱雀門」にナレーションが入ったこともあり、集中力を持って聴いてくださったのかなと思いました。

濱: 出演者が多いあまり、客席が埋まるかな? という不安がありましたが、開場前から長蛇の列ができてすごかったですね。
 そして出演していただいた方も「100回記念演奏会に絶対乗ってやるぞ!」という気合の入った方ばかりでしたね。

木: 「100回記念に出るのを楽しみにしていたんだよ!」「出演するために楽器を買いました!」という方もいらっしゃったよね。そんなに楽しみにしていただけるとは思わず、ありがたいようなびっくりするような。
 正直なところ私達は演奏会の運営と、もちろん練習も課題があり、また大学生活・就職活動・プライベートも抱えてという時期で、しんどい頃でもありました。それだけに、私達との熱量の違いに戸惑ってもいました。

濱: それでも、皆さんすごく楽しみにして出演してくださったし。

木: こんなに前向きな気持ちで迎えた記念演奏会は、初めて経験したと思います。私がそれまで経験した記念演奏会は卒業年次の近いOBが中心になっていたイメージでしたが、100回記念だけは随分イメージが違いました。

濱: それでも指揮者は、大変だったでしょう。高校時代に経験をしていたとは言え、やっぱりプレッシャーもかかるし大変だったと思うんです。
 その中でも、ちょっとボケて空気を作ってくれるというか(笑)。悩ませてしまった時期もありましたが、明るい性質で進めてくれたことには感謝しています。

時代を、歴史を感じるということ

木: 私達は2年生の時に「70周年記念演奏会」も経験しており、4年間ずっとOBの皆さんと関わらせていただきましたね。長い歴史を感じるとともに、おおっとこれは大変なことだぞ(笑)、と。

濱: 期待値も高かっただけに、プレッシャーもあったよね。「いつ開催する?」「ホールはどこにする?」と、決めなければいけないことが目白押しだったしね。「乗り越えなきゃいけないんだな」と思うことが結構あったよね。

木: それだけに第2部のOBOGステージは、「皆さんのやりたいことを思う存分やってくださ~い!」という気持ちでした。私達も随分と好きなことをやらせていただいているし(笑)。

濱: 当初は他に、全2部構成という案もあったんですけれどね。

木: 私達がやりたい曲を第2部ステージで取り上げられてしまったら困るから、「先に選曲させてください!」というやり取りもありましたね。

濱: むしろOBOGのみのステージを設けて、どれだけ集まるのかなという気持ちもありました。長く続けていらっしゃる先輩が少なくないことも知ってはおりましたが、そこまでの人数に出演していただけるものなのかな、と。
 逆に(インタビュアー:鳥居良次(平成14年/2002年卒)へ)質問になるのですが、第2部のステージの選曲はどのように決まったのか? を知りたいです。

木: 「真珠採りのタンゴ」は第1回演奏会の演奏曲だから絶対だよね、っていう話はありましたよね。

- 第1回演奏会で指揮をされた功刀忠雄先輩(昭和37年/1962年卒)がご出演いただけることになった時点で、「真珠採りのタンゴはやりましょう」という流れになりましたね -

濱: あー、なるほど。

- 他には、卒業後も指揮者を長く経験されている方がやはり良いでしょうということで、中村亨先輩(昭和55年/1980年卒)と前野一隆先輩(平成2年/1990年卒)になりました -

濱:うーん、そうですよね。

- そして、卒業して間もない若い指揮者にもお願いしよう! ということになりまして、お断りされるかどうか不安でしたが、 -

木: いや、断れないね。

濱: 断れないね(笑)。

- 木村晃治先輩(平成23年/2011年)にご快諾をいただきました! -

濱: (笑)

木: でも、こう見ると「時代」ですね。それぞれCUMCの違う時代を代表する方々ですね。

- あとは曲の割り振りですが、やはり鈴木静一は入れたいということで「細川ガラシャ」を中村先輩に。では前野先輩には得意のボッタキアリを、というところで、折角なら大編成となる「夢の魅惑」を自薦いただきました-

濱:おおー、そうか! そういうことだったんですね。

- 最後はとにかく華やかに! ということで、「威風堂々 第1番」となりました。実はこの時の楽譜は、前野先輩の編曲なんですね -

濱: 本当だ! そうだったんですね。

木: 威風堂々、当日の評判も良かったですよね。

濱: 第2部のステージには、歴史・時代を感じました。コンセプトがしっかりしていて、すごく良いと思いました。
 実際に出演者募集をして、人数制限でお断りをしたようなことはありましたか?

- 私の記憶では、どなたかをお断りしたことは無かったと思います -

濱: そうなんですか。結果的に、舞台ギリギリの人数でしたね。

木: お断りするとしたらどうしようか? という心配をしてました(笑)。それだけ期待値があったということですね。

濱: うん、期待値があったのを感じたよね。

木: すごいね、100回(笑)

濱: (笑)いや、すごいことをやったんだね。なんだかガムシャラに走ってたけどね。

感じた「大きな波」の正体は

濱: 私の感想ですけれど… 第3部の合同ステージはとてつもなく人数が多いので、練習の時からなかなかオーケストラの中で合わなかったりして、「このまま本番を迎えて、グシャグシャになったらどうしよう」と心配していました。

 それが本番になったら、どこから出てきたのかわからない「大きな波」を感じた、というんですかね… 練習では見られなかった謎の一体感をすごく感じて、「ここだ!」という場面で「ウワーーッ!」というものを感じたんです。人数の多さに加えて一致団結した時のあの感動を、忘れられません。
 その瞬間になぜかマンドロンチェロの宮内駿と目が合って(笑)、彼はどちらかというと普段からクールな感じなのですが、あの宮内でも「えっ!?」っていう顔をしていたのを覚えています。同じものを感じていたんだな、と私は思っています。本人は、全然違うことでびっくりしていたかもしれませんが(笑)。その時、記念演奏会ならではの、初めて体験するパワーを感じました。

 また、合同ステージの1プルトは全員現役学生で組みました。OBOGとの演奏会ですが、私達の最後の演奏会でもあるので、私達で終わりたいよねという気持ちもあってそのようにさせていただきました。

木: 安心感あるしね。

濱: 安心感、あった!

木: ワンチーム!ってね。

濱: (笑)やっぱり、これを乗り越えてきたのが私達の代だったんだなと思うと、後輩達には悪いけれど(笑)前列に出させていただきましたね。これはもう、4年生の特権ですね(笑)。

木: OBの皆さん、めっちゃキラッキラした顔でこちらを見つめてるから、その波だったんじゃない?

濱: まさか、そんな波が(笑)! そのキラッキラが私にとっては後ろからウワーッって来たんだよね。

木: もうパゴダの舞姫なんか、皆さんニコニコで演奏していて。

濱: そうだ! パゴダだったと思う! すごい波を感じたのは。

木: パゴダは演奏しても楽しいじゃない? それが朱雀門になると、キュッとシリアスな感じになって。皆さん、「現役に戻りました!」という顔で演奏してくださって、若返ってましたね。

濱: 今でも私は楽器を続けていますけれど、あんなステージの経験は二度と無いかもしれません。

時代は流れ、それでもまた集い、

濱: その後のレセプションも楽しませていただきました。OB会の方が近隣のホテルで宴会場を貸し切りにして開催してくださったのだと思います。「中大応援歌」や「惜別の歌」に改めてきちんと触れて、なんというか時代を感じましたけれど(笑)、そういう一致団結できるものがあるということは本当に良いなと感じました。

木:合同練習の後に、OBの皆さんと飲みに行くことが多かったんですけれど(笑)、当時のことを熱く語っていただいて、思い出すきっかけになって差し上げられたとも思っています。
 過去も今と同じようなことをずっと続けてこられたんだろうなーと勝手に思っていましたが、「えっ、今はそんな活動してないです!」ということもお聞きすることがあって。逆に、「それは、今も引き継がれてますよ!」ということもあったり。時代が流れているな、と思うことがありました。

濱: その時代ごとのカラーが出ていて、それがまた良いな、と思いますね。それは100回記念演奏会を通して、深く考えたことかなと思います。
 やはり身近なものが自分達のスタイルになってくるのが自然だと思いますが、私達はCUMCにとって節目の所を経験しているので、ギャップを感じつつも、これはこれで良かったのかな、と今では思います。

木: 私達はちょうどその節目の「良いとこ取り」をできたのかな、と思うと、運が良かったのかもしれません。

濱: 私達が高校の頃はまだ決まったコーチがいない時期で、OBの方々に教えていただくことがとても多かったのですが、本当にありがたいことだったと思います。ご自分の時間を割いてまで人に教えるということはなかなかできるものではないと、今ならわかる大変さです。
 そのお陰で私はマンドリンをとても楽しいと思えるようになりましたし、いろいろなものを吸収できる機会になったと思っています。

(2023年9月10日 取材)

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