小玉亨一(こだま りょういち) 昭和61(1986)年卒

ジュネスへの道(渋谷駅から公園通りを登って!)

【Ep.1 異世界への扉〜ジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラ】

 私がCUMCに在籍した1980年頃は鈴木静一先生がお亡くなりになったばかりで指導者がいない時代でした。
 そんな中、先輩からプロの指揮者が振る楽団に参加できることを教えてもらったのです。それがジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラでした。参加メンバーはオーディションで選抜され、100人で演奏する。なんだか手強いオケだなあという印象があったものの、プロの指揮者の下で演奏できるという非常に美味しい企画でした。

【Ep.2 ジュネスとは若者のこと】

 ジュネスの正式名称はJeunesses Musicales du Japon (ジュネス・ミュジカル・ドゥ・ジャポン):青少年音楽日本連合といい、ユネスコ傘下のFIJM:青少年音楽国際連合の日本支部として1961年に発足(後援は文化庁、NHK等)、2001年7月に活動を停止しました。
 会員制で年齢が30歳以下のメンバーで構成され、団体・個人合わせて約5,000人が登録されていました。JMJの活動はいろいろありますが、私が関わったのは青少年音楽祭とジュネス委員でした。

街中で楽器にこのステッカーを貼っている人を見かけるかも。

【Ep.3 青少年音楽祭】

 音楽祭は毎年7月の第1日曜日に開催されます。会場はNHKホールで、教育テレビとNHK FMで放送されます。
 演奏会は3部制でマンドリン、合唱、管弦楽の3部門にステージが割り当てられます。
 メンバーは団体会員、個人会員の中からオーディションで選ばれます。
 マンドリン部門は団体会員に登録した12の大学(早稲田、慶應、上智、農大、日女、東女、大妻、津田塾、文教、実践、共立、中央)と個人会員の合わせて約100名で構成されています。
 あの紅白歌合戦と同じ舞台で演奏できるんです。そう思うとちょっと興奮したのを覚えています。また舞台がとても広く、マンドリンオーケストラが100名乗っても後方に合唱隊が100人乗れるほどの広さです(舞台写真参照してください)。私が初めて参加したのは、第45回青少年音楽祭でした。

第45回青少年音楽祭(NHKホール)
1984年(昭和54年)7月1日
「マンドリン部門」
曲目:ハンガリアの黄昏(D.べルーティ)
初夏の歌(帰山栄治)
指揮:国分 誠 マンドリン独奏:榊原 喜三
演奏:ジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラ

【Ep.4音楽研究会ジョイントコンサート(第一の壁)】

 ジュネスの本番舞台に乗るまでに、様々な難関がありました。
 第一の壁は中央大学音楽研究会のジョイントコンサート。
 中央大学音楽研究会では6月に、所属するサークルが集まってジョイントコンサートが開催されます。私の時代、マンドリン倶楽部で1年生から3年生までが中心メンバーになり、3年生指揮者、3年生トップでの合奏のデビューとなります。3年生はデビュー戦になりますから練習にも熱が入ります。ここで問題が… ジュネスの本番とジョイントの本番が近いので、練習日程がほとんど重ってしまうんですね。
 「ジュネスの音楽祭のために練習を休みます」とは非常に言いづらい雰囲気でした。ジュネスの方も10回の練習には全て参加することという厳しい条件がついておりました。そのため部員が青少年音楽祭への参加するのは厳しい状況でした。
 私も諦めかけましたが…

【Ep.5 新たなる希望(ジュネス委員に!)】

 大学3年生になると、倶楽部の役員の任が回ってきます。
 対外的な役職には全マン委員などがありますが、その中にジュネス委員があったのです。(やった!) この役職を逃してはならない!と立候補して無事ジュネス委員の役目を引き受けることができました。これで音楽祭への参加の希望が見えてきたのです。

 ジュネス委員はマンドリン、合唱、管弦楽の3部門から委員が選出され、毎月1回(だったと思う)、演奏会前は月数回 NHKの会議室またはスタジオを借りて演奏会の企画会議を行います。指揮者をどなたにお願いするか、選曲をどうするか、オーディションの準備、合唱や管弦楽部門との調整 その他諸々、NHK担当部署にお伺いを立てつつジュネス委員の学生たちが全て運営します。会議が終わるといつもみんなでNHKの社員食堂へ行き遅い夕食をとります。(NHKの社食ですから有名人がいっぱい。)

【Ep.6 マンドローネの脅威(第二の壁)】

 青少年音楽祭に向けて、ジュネス委員たちはそれぞれ役割を与えられます。私の担当は楽器係。マンドローネを10本調達することがミッションでした。収集期間が2ヶ月だったと記憶しているので10本揃えるのは結構ハードです。母校、明治大学、十文字中高、など都内あちこちに出かけて借り回った記憶があります。なぜ10本必要だったかは覚えていませんが、ベースパートの代わりにローネパートを作ったのです。ですからオケにベースがありません。これは珍しい編成ですね。舞台でローネが10本並ぶ様子は壮観です。(威圧感もあったりしますが…)

【Ep.7 オーディション(第三の壁)】

 音楽祭には参加資格があります。30歳以下で10回の練習に全部参加出来ること。オーディションは渋谷のNHKのスタジオで行われます。この時(第45回青少年音楽祭)では、マンドリンの審査員は遠藤隆己先生でした。私は委員なので運営もしますが演奏にも参加します。マンドラパートは採用枠14名。課題は本番で演奏する曲の中からランダムに指定された箇所を弾くというもの(試練!)です。オーディションを受ける皆さんは、課題の2曲を完璧に弾ける状態で受けますので侮れません。私はというと、オーディションを受けるなど生まれて初めてだったせいか、緊張して何をどう弾いたかよく覚えていませんでした。
 課題を弾き終わった後、審査員の遠藤先生から「綺麗な音色ですね。どこの楽器ですか?」「落合です!」…「えーと弾いてもらったところは3拍子ですよ(苦笑)」気が付きました、3拍子を4拍子で弾いてしまった!

オーディション合格メンバー。一番右が私です。

【Ep.8 初練習…プロの軌跡】

 練習はゴールデンウィーク明けから毎週日曜日。
 大学のジョイントコンサートの練習を休んでいることに後ろめたさを感じつつ、全マン以外の他大学の学生とも交流できて楽しい日々を過ごしていました。
 オケのメンバーはオーディションを通過してきたわけですから、個人練習は完璧で初日からフルスロットルです。あと2回の練習で調整すれば本番OKと言った仕上がり具合です。しかし私は、し…指揮が分からない! プロの棒についていけない! 学生指揮しか知らない私にとっては難解な棒の軌跡!

 そう言えば演奏会で使用するパート譜は、NHKがプロの写譜屋さんに頼んでいるのです。手書きの達筆ですごく綺麗な楽譜です。

【Ep.9 指揮者の国分誠先生…今でも覚えているお言葉】

 「ハンガリアの黄昏 (D.べルーティ)」はマンドリンソロとのコンチェルトです。曲中にソロと学生のコンサートマスターが掛け合いで弾くところがあるのですが、明らかに表現力に差があるんですね。ゲームで言うと経験値が格段に違う。対戦したら瞬殺レベルです。
 国分先生「(コンマスに)君はもっと恋愛をいっぱいしなさい。」情熱的な曲だから情熱的に弾かないといけないのでしょうね。

 「初夏の歌 (帰山栄治)」では、学生が曲のフレーズをうまく表現できないときは歌わされます。

 国分先生「楽器を置いてみんなで歌ってみよう!」
 国分先生「それじゃぁマンドリンで弾いてもダメだな!もう一回!」

 100人での大合唱。何度も歌わされた記憶があります。
 先生が眉毛でキューを出すからついてきてね、という場面も。
 とにかく練習の何もかもがカルチャーショックでした。

国分先生と榊原先生

【Ep.9 ソリストも暗譜なのだから(第四の壁)】

 何事も試練がつきものでそれを乗り越えるから感動を味わうことができるわけです。
 ここで新たなる壁が立ちはだかったのです。一番高い壁だったりして… 舞台の写真を見て何か違和感を感じた方はいらっしゃるでしょうか。

 国分先生「ソリストも暗譜しているのだから君たちも暗譜で弾きましょう。」

 …冗談ですよね。この国分先生のありがたいお言葉に唖然。
 はじめは半信半疑だったのですが、国分先生も暗譜です。もう後には引けない。
 「ハンガリアの黄昏」は拍子が一定なので問題ないのですが、難関は「初夏の歌」。変拍子でパートの音の入りも複雑。曲のテーマが初夏なのでランダムに落ちる落雷を表現した箇所もあります。この曲…オーディションで3拍子を4拍子で弾いてしまった苦い経験のある曲だし。また、いつもは目の前にあるはずの譜面台が無いというのも不安です。

【Ep.10 夏の宴】

 さて、幾つもの壁を乗り越えてやっと本番です。もう逃げも隠れもできません。暗譜で一発勝負です。当日は3部門300人近くがNHKホールに集まるので、息つく暇もないほど忙しい演奏会でした。それでも舞台の上で、放送用のカメラがどこにあるかはチェック!

 心に残った国分先生の温かいお言葉です。
「楽譜がなくても大丈夫。私がちゃんと指示を出すから思い切り弾きなさい。」
 (とかだったかな)

 それではお送りします!
 D.べルーティ作曲:ハンガリアの黄昏、帰山栄治作曲:初夏の歌、
 指揮は国分 誠! マンドリン独奏は榊原 喜三! 演奏はジュネス・ミュジカル・マンドリンオーケストラ!
 さあ! 舞台へGO!

(2024.9.6 寄稿)

前野一隆(まえの かずたか) 平成2(1990年)年卒

創部50周年記念演奏会の開催まで

- まずは「創部 50 周年記念特別演奏会」のことについて、お聞かせください -

 たまたま私達の年代が創部 50 周年に当たるということは 3 年生の時から把握をしておりました。具体的には 2 年生から 3 年生になる頃、学年合宿を開催している頃に「そういうものがあるよね」という話をしておりました。

- 現在は「学年合宿」というものを開催していないので、詳しくお聞かせいただけますでしょうか -

 学年合宿というものは、2 月~3 月頃・冬のオフの時期に学年ごとで集まって、曲を 2~3 曲選んでトレーニング合奏をしましょうという催しでした。たしか、都内の青年の家のような所に集まっていたと思います。

 具体的にどういう順序であったかは覚えていないのですが、当時の松本雄一郎監督(昭和 56 年/1981 年卒)に相談したりしながら、オフィシャルなイベントにした方がよいのではないかという判断のもと、OB幹事会にご協力をお願いするなど、当時部長の中島正樹と一緒に行動したと思います。
 ただ、OB 幹事会の場では「どうやって人を集めるのか」「どの年代から集めるのか」「選曲は誰が主体的に行うのか」「指揮者は誰にするのか」といった多くの厳しい指摘があり、私達もその場では回答できなかったのですが、検討の末に自分達でやろうということで企画を進めていったのだと記憶しております。

 OB会共催のオフィシャルなイベントとさせてくださいとお願いをしながら、生意気な学生が指揮を振ることも許してくださいとも申し上げながら、参加者を募集していったのだと思います。
 その途上で、そうは言ってもOBの方にも指揮を振っていただきたいという話になりまして、様々な歴代の指揮者の先輩のお名前も挙がりながら、私達としては年代の比較的若い方にお願いしたいよねという話がありまして、高草木典喜先輩(昭和61年/1986年卒)に指揮をお願いしたというふうに記憶しております。根岸貴博先輩(昭和61年/1986年卒)など、その年代近辺の方々の支援が大きかったということも、一つにはあったと思います。

 その過程で練習など様々なことがあったと思うのですが、あまり覚えてないですね(笑)。合同練習が大変だったことなども何となく覚えていますし、高草木先輩が練習参加する前に指揮の下振りをしなければいけなかったので、当時の高草木先輩の真似をして振ったりしながら進めた覚えがありますね。

 そして、この企画は折角だから東京だけではなく地方公演も行おうという話になりました。その数年前に開催した「中央大学100周年記念演奏会」では、広島・福山・大阪で開催されたということなので、今回は大阪・名古屋でも開催しよう、と。大阪・名古屋はもちろんのこと、各地にもOB・OGの皆様が多くいらっしゃるので、お聴きいただく機会があるのも良いよね、というOB会とのお話がきっかけであったかと思います。

 地方公演にOBの方々を引き連れていくわけにはいかないので、自分達だけで開催できるプログラムも用意しました。プログラムに重複する楽曲・しない楽曲があったわけですが、結局通常の演奏会の1.5倍くらいの曲を練習しなくてはならなくて、そういう意味ではヘビーでしたね。

創部50周年記念演奏会 プログラム (左:名古屋・大阪公演 右:東京公演)

- 重複していない曲が多くありますので、並行して練習されていたのですね -

 そうですね、関西方面に行くので「『マネンテ』『ボッタキアリ』あたりを持っていこう!」という意識があったのと、「フランス作曲家クラシック作品の編曲などは、取り上げられていないだろう!」と。あとは「定番の鈴木静一は外せない」という流れであったのではないでしょうか。

- 地方公演プログラムについては、そのような意図・狙いがあったのですね -

 はい、そういうことです。

- それでは地方公演は、基本的に学生だけで演奏されたということですね -

 ただ、松本監督やエキストラの方には帯同していただきました。当時ずっとCUMCのエキストラを担当していただいていた、オーボエの岩上祐子さんやクラリネットの戸祭佳子さん、ファゴットには合田香さんもいらっしゃいましたね。パーカッションは清水奈津子さん達のチームに来ていただいて、その方達は大阪・名古屋もずっとご一緒していただきましたね。

倍管、編曲…「前野に睨まれた!」

 東京はプラスして編成が大きかったので、100人を超えるメンバーだったはずですね。東京公演は、管楽器を「倍管」にしているのです。

- 東京公演を「倍管」にされた理由は? -

 あまり明確に覚えていないのですが、その頃は私が大編成のオーケストラ作品に結構かぶれていた時期でもありました。また、鈴木静一作品などを演奏すると、この頃は管楽器と弦楽器が分離しやすい演奏になりがちであったので、どうしたらうまく混ざるかと考えておりました。
 よく「管楽器の音量が大きい」と私自身も言いがちですが、この頃は管楽器にも「フルパワーで吹いてください」と言って、そのバランスに弦楽器を合わせるようなトレーニングをしておりましたので、Tuttiの部分は複数人で吹いていただくことで厚みが出るのではないかと考えて倍の人数に集まっていただきました。

- 具体的にご苦労だった点や、工夫をされた点はございますか -

 OB の皆様をお呼びして練習するというのは、やはり人数が多かったですから、なかなかに大変なことではありましたね。どうやって進めていたのか、思い出せないのですが… 恐らくその時のシーンなのだと思いますが、京王線沿線の施設を借りて練習を開催していたのですよ。当時は打楽器合わせなどを大学の学外で実施することがあり、音研第三練習場にあるオーケストラや吹奏楽の楽器を借り出して、レンタカーのトラックに積み込んで、ということをよくやっておりましたね。
 八王子キャンパスの 9 号館クレセントホールで実施するときも、リヤカーに打楽器を全部積んでトンネルをくぐっていたことを覚えております。なぜか、そんなことばかりが記憶に残っていますね(笑)。

 また、地方公演では「牧神の午後への前奏曲」を、アンコールに「威風堂々 第1番」を演奏したのですが、既存のアレンジ楽譜が無かったのです。それをフルートの中島などと相談しながら、一生懸命に自分達で編曲しておりましたね。今考えれば酷いアレンジでしたけれど(笑)、委嘱するお金も伝手も無かったので「自分達でやるしかないか」と考えて、全パートの楽譜を書き起こしておりました。
 「アルジェリア組曲」も高草木先輩が原譜をお持ちであったので、それをお借りして編曲し直しておりました。今考えれば「何をやっとるんだ」と思いますけれど、当時はやんちゃな学生だったので、そういうことを結構やっておりましたね。

 今でも地方公演のことで覚えているのは、「彷徨える霊」の最後に重音の pizz.があるのですが、エキストラで出演していただいた松本監督が「ボンッ」と一人飛び出しまして(笑)。そういう事件が本番であって、たぶん私がすごい顔で睨んだみたいなんですね(笑)。今でも松本先輩には「前野に睨まれたんだよ」って愚痴を言われます(笑)。

合田香先生との交流、そして招聘

 実は合田香さんとの話というのは、その地方公演が起点なのです。大阪公演が終演した日に、現地で打ち上げを開催して、帯同いただいたエキストラの方々にもご参加をいただいているのです。そこで合田さんに私が最初におうかがいしたのは「『牧神の午後』をマンドリンで演奏するのは、どうでしたか?」ということでした。
 そして合田さんとは「マンドリンという楽器は音が減衰してしまうし、維持するにはトレモロをしないといけないですし」「フランス物・ドビュッシーの色合いというものであるとか、ボヤッとして混濁したような色が出しにくいから、正直とっても難しいですよね」というようなお話をしたのです。
 合田さんから「(ドビュッシーなどの作品をマンドリンで)どうしてやりたいの?」と聞かれて、「いつも同じような楽曲ではつまらないから、やりたいんです」というようなお話をして、他のエキストラの方々も交えてワイワイと意見交換しておりました。

 実は私が中大附属高校 3 年生の舞台で指揮をした時も、合田さんや戸祭さんにはエキストラとして出演していただいておりました。その頃はエキストラの皆さんも、学生か研究生くらいの頃だと思うのですが。そんなことなので、「君とは昔から一緒に出演しているよね」というような雰囲気でお話をさせていただいたのでした。
 「前野君は、なぜマンドリンの指揮をしているの?」と聞かれ、「音楽が好きで、やめられないんです」というようなお話もさせていただきまして。その時に「指揮については少し習ったこともあるのですが、ほぼ独学です」と申し上げた流れで、「それなら、一度誰かに見てもらうのもアリですよね」「一度、練習を見に来ていただくのはどうでしょう?」というお話をして、その場では一度終わっているのです。

 そして東京公演も終演した頃だと思うのですが、松本監督・中島部長・私との 3 人で相談をして、「桐朋学園大学で勉強して一流の音楽を間近にしている合田さんに、音楽を見ていただくのもアリなのではないか」という話になりました。
 そして正式にお願いするに当たり、八王子の「うかい鳥山」という料亭に合田さんをご招待して相談したというのが、はじまりです。

「おっとっと、飲んじゃいましたねぇ…」が、招聘の決めセリフだったとか?(笑)

- 合田先生を招聘するということを倶楽部として決定したのは、どのような形でしたでしょうか -

 あまり覚えていないのですが、総会で議題として決定していると思います。
 その当時、音楽をちゃんとやるなら、そういった方をお呼びした方が良いという意見に、そんなに否定的だった人はいたかな… コントラバスの近藤義弘などはネガティブだった気がしますが、あまりいなかったのではないかと思いますね。正式に来ていただく前に何度かスポットでは来ていただいていたので、雰囲気の醸成はされやすかったはずです。

 そこから始まって、秋の演奏会に向けて準備をしていくわけですね。当時の新入生が多数入部してくれた時期だったので、「学生だけで鈴木静一の『シルクロード』を演奏しよう!」という話になりまして、そこで合田さんにも様々なご教示をいただこうという方針になりました。

 最初の頃は私達も、指導していただくためのふるまい方など、全くわからないんですよね。合田さんは今でもそうですが、初めて音楽のやり取りをする方と「音楽の『色・味・匂い』」であるとか「どう思うか・どう感じるか」という話を必ず最初にされますけれど、最初は部員全員、口を開いてポカーンといった感じで。「この人は、何を言っているんだろう…」という捉え方をした部員がほとんどだったでしょう。
 マンドリンに限らず音楽をかじっていたという者が私の世代にも何人かいまして、当時コンマスだった土方卓はヴァイオリンを弾いておりましたし、マンドラの呉松敏はピアノをずっと経験しており、中島はずっとフルートのレッスンを続けておりましたし、私もピアノをしておりましたので、そういう人達は「匂い」「熱い」「寒い」「美味い」とか、「恋愛が」とかというものを音楽に乗せるという行為には抵抗感が全く無かったので、そのあたりを核にしながら続けていたのだと思いますね。

 秋強化合宿にも、最初から来ていただいたのです。秋の演奏会は藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」を取り上げましたが、合宿中にギターパートだけを集めて、合唱パートを口で歌いながら伴奏部分のアルペジオを弾け、と。今考えてもなかなかハードですよね(笑)。そんな練習を合田さんにつけてもらっていたのは覚えています。

 当時の強化合宿では 2 日に一度しかお風呂に入れないのを、「そんな環境では気分が悪くて音楽ができないよね」と言って毎日お風呂に入れるように変わったりとか(笑)。それでも、夜中の合奏に付き合ってもらったりもしていましたね。合奏だけでなくパート練習も見ていただいたり、サブコンダクターの宗村要君(平成 3 年/1991 年卒)の指導を私と合田さんでしたりとか。そういうことをやりながら、浸透していった感じですかね。

訪れる「危機」、招聘の「定義」

 ただ、私が卒業した翌年、第一次危機がすぐにやってきました。
 私が CUMC を卒業して、一旦 CUMC と私の関係は途切れているのですよ。そして合田さんは続投で、という話になっておりました。そうしたら、合田さんと私が連絡を取り合うことがあって、「申し訳ないのだけれど、1 回練習に来てくれないか?」と。「いやいやいや、私はもう卒業していますし…」と言ったのですけれど、いいから来て、と。

 パルテノン多摩で練習をしている時でしたから、本番近くの時期だったと思うのです。
 なかなかバラバラな状態で、合田さんも苦労されていたんですね。そこで思うところをいろいろと言ったり、指揮を振ったりもしたと思うんですね。
 合田さんには「だから、君も見に来なければダメだよ」と、つまり OB として関り続けなさいというような内容を言われて、練習や合宿に何度か行ったと思います。だけど、特に 1 学年上と下というのは人間関係もデリケートなところがあるじゃないですか。気持ちとして、非常に難しいところでした。

 そこで、そもそも合田さんをお呼びしている理由は何でしたっけ? という話を整理し直したのです。このままお呼びし続けているうちに「何故でしたっけ?」となる前に一度、ちゃんと定義しましょう、と。

 「『音楽を楽しむ』とは何なのか?」ということを皆、探求したいよね、と。そのために合田さんに来ていただいている、と。その上で、テクニックやクオリティも良ければさらに良いでしょう。
 そういった「良い音楽」をすることで、演奏している人と聴きにいらしている人が一体化するというような、そういったことを定義したと記憶しております。それを目指すには、こういった方に来ていただくのが良いのではないですか、というような話を。

 もっとも、桐朋学園大学ご出身の音楽家の方々というのは齋藤秀雄さんや小澤征爾さんを筆頭に、概ねそういう方が多いんですよね。ですので、そういった音楽的志向で、マンドリンという楽器を使ってそこにチャレンジしていくために来ていただこう、という再確認をして。
 そして合田さんに継続して CUMC に来ていただく定義付けをした末に、合田さんより「そういうわけで、前野さんは必要なのですよ」と。そのように合田さんから CUMC に直接お話しをされて、指揮や合奏をトレーニングする「アシスタントコーチ」という役割を私がいただくことになったのです。

 恐らく、その1シーズンか2シーズン後かもしれないですけれど、そうすると改めてテクニカルな面が追い付かないので、青山忠先輩(昭和57年/1982年卒)に「技術コーチ」としてCUMCに関わっていただこうと。「青山さんだったら、どう弾きます?」というようなことを実践の中でトレーニングしていただこうというような形にしていきました。一時期は合宿に行くと、合田さんも青山さんも松本さんもいて、私もいるみたいな感じであったと思います。
 最終的には柄本卓也さん(平成8年/1996年卒)や酒折文武さん(平成10年/1998年卒)も、合田さんにとって「必要な存在」として、トレーナーとして巻き込んでいきましたよね。

 CUMCを卒業して今でも音楽を続けている方というと、そのあたりの深い時代に一緒に活動していた方が多いかもしれないですね。今でもアンサンブルをされたり、独奏や合奏など様々にされたりしていますけれど。

 その後、青山さんに呼ばれて10年くらいクリスタルマンドリンアンサンブルの指揮をさせていただきました。CUMCの面倒を見ながらクリスタルも出演してと、結構ハードでしたけれど…。クリスタルの参加は、第11回から第20回までですね。
 今考えるとすごいと思うのは、青山さんをコンマスに据えている合奏団の指揮をしていたということですね。もっと丁寧にやれたのにな…と、今では思いますけれど、若気の至りですね(苦笑)。

 その後、学生の人数が少なくなったり、CUMCの環境が変化していく中で、一旦コーチとしての活動は引き下がらせていただきました。
 その少し前ですかね、ポルタビアンカマンドリーノの立ち上げがあったのは。こちらは当初から合田さんに音楽監督として関わっていただいて、私も指揮者として携わらせていただきました。

社会人として、続けることの理想

- 理想論になってしまうかもしれませんが、前野先輩のお考えとして、マンドリンの社会人団体というものがどういった形で回数・年齢を重ねていくのが理想的だとお考えでしょうか -

 中央大学というような同門に必ずしもこだわるものではないですけれど、同門のところをもう少し大事にしてやり続けられるようにした方が良いのではないかと思いますけれどね。
 今年(2023年)、CUMCにて記念演奏会を開催するのは良いのですが、いつもワンショットで完結してしまうんですね。本当はそういったイベントを機に、これを母体にして、卒業しても合奏を続けられる環境を維持することができれば良いと思うのですが。ただ、その団体としてやりたいことと、実際に参加する方がやりたいことについては折り合いがつかないこともあったりするので、難しいですよね。

 あとは、私も含めた年配者が頑張らないといけないですよね(苦笑)。50代・60代の世代から率先して「やろうぜ!」と言わないと、動きづらいのではないでしょうか。経験と知識があり、そろそろ時間の余裕が出てくる人々が、練習場所や楽譜を確保したり…「それは、若い者の仕事だろう」なんて言ってはいけないと思うのですね。若い方からも、遠慮なくお願いすればいいと思いますよ。

 その点は、合田さんもずっとおっしゃっておりましたよ。どんな形でも、楽器を変えてでも良いから、音楽を長く続けて欲しいと。音楽が続けられる受け皿となる環境があるのは、理想ですよね。
 個人の音楽的志向や好き嫌いはあるので、一つの団体に固定化することが面白くないと思うことはもちろん理解できます。そういうものをどこかに一つ持った上で、それでも戻れる場所が持てれば良いのではないかと思いますね。

- 多くの団体を見てきまして、うまく運営されているところもあれば、いつの間にかうまくいかなかなくなるところもありますね。前野先輩のおっしゃったような「何のために」という定義付けがクリアでないと、年月とともに団体のカラーが変わっていってしまうということは感じます -

 それでも、「みんなが集まって合奏しているだけというのが楽しい!」ということも、否定するわけではないのですよ。そういう団体のカラーをキープしていければ、ちゃんと継続していけると思うのです。
 「楽しくやる」とか「ガッツリやる」とか、それは志向ですからね。ただ、はぐくみ育てられたCUMCという環境は大事にしていきたいし、大事にして欲しいとは思います。

 私の音楽的志向というのは、一人で練習したり演奏したりというよりも、ライブで同じ空気を吸っているところで音が飛び交う。それを聴く人もキャッチするし、演奏する人もそれを発信する、みたいな。それが私にとっての本質なのではないかと。
 それをやれる素地をCUMCで・CUMCが作ることができたのは、大きいと思っております。

入部理由は、超ネガティブ(笑)

- そんな前野先輩が音楽に触れるスタートというのは、どのようなものだったのでしょうか -

 最初は、ヤマハ音楽教室です。その後、幼稚園年長か小学校1年生くらいから、ピアノの先生についてレッスンを受けておりました。小学校の頃は特に疑問も感じることなく続けており、中学校1年生くらいから「男のくせにピアノを弾いている」などと言われたりしましたが、めげずに続けておりました。
 中学校3年生の時に合唱コンクールのピアノ伴奏を担当することになりましたが、自分の世界を貫いてガンガン弾いて、音楽の先生を困らせたことがありました(笑)。

- こう言ってはなんですが、前野先輩らしさが目に浮かびます(笑) -

 そうでしょう?(笑)。その流れで、音楽の先生と「音楽がやりたいの?」「別に…好きでやっています」といった話をしたと思いますが、普通に受験をして高校生になって、その時もまだピアノは続けていました。
 そして高校に入学して、何か音楽をやりたいと思って音楽系の部活を探したときに、選択肢が「吹奏楽部」と「マンドリン部」の2つだったわけですね。吹奏楽部を見学したら、これはどうも違うな… と思いまして。そこで仕方なく、マンドリン部の門を叩いたわけですが…

- 今まで様々な方をインタビューさせていただきましたが、ここまでネガティブな入部のきっかけは初めてです(笑) -

 ええ、超ネガティブ(笑)。それしか選択肢が無かったわけですからね。でも、とにかく音楽はやりたいという希望がありましたので。

- 逆に、音楽系の部活に入らないという選択肢は無かったのですか? -

 そうしたら、私は自宅が近かったので、学校と自宅の行き帰りだけで何もしなくなっちゃう感じですよね。ピアノを続けるだけで…
 ああ、ピアノに対するフラストレーションというものもありました。ピアノという楽器は、音が減衰してしまうので、一つの音ではクレッシェンドすることができないというフラストレーションがありまして。一音の中でクレッシェンドできる音楽がやりたかったのです。それなのにマンドリンを選んでしまいまして、さらに減衰するじゃないか(笑)、と。
 ただ、ピアノだけでは満足できなかった、ということはありました。

- それで、仕方なくマンドリンを始められた、と… -

 それでも入部したからには、真面目に練習しておりました。音楽を真面目に練習するのはピアノで慣れていたので、オデル教則本などを見ても特に何も違和感がないわけです。練習してある程度弾けるようになると面白くなってきますし、鈴木静一の世界も新鮮な衝撃でした(笑)。

- クラシックピアノの畑で育った方にとっては、新鮮で衝撃的ですよね(笑) -

指揮者になりたくはなかったが…

 そして高校2年の時に、自分達の代の指揮者を決めなければいけなくなりましたが、その頃の私は指揮者をやりたくなかったのです。

- それは、意外です! -

 その頃はむしろプレーヤーとして、マンドリンを弾いていたかったのですね。
 私は中島を指揮者に推したのですが、彼も「フルートを吹きたい」と、私以上に強く主張されてしまいました。
 また、パート人数の都合もありまして、当時マンドリンパートは5人くらいいたのに対して、マンドラは2人・マンドロンチェロは1人・ギターは2人しかおらず、「マンドリンが多いのだから、マンドリンから出せばいいじゃないか」という空気になりますよね。

 ただ、私自身もその頃にはクラシック音楽に十分かぶれておりまして、リヒャルト・シュトラウスやマーラーに興味を持っていた時期でした。一方、フルートの中島は歌劇の方に興味が進み、お互いに「あれを聴け」「これが良い」と勧め合っていたほどでした。ですから、自然と「指揮者」というものへの憧れもあったわけです。

 そのような流れで指揮者を引き受けることになったのですが、独学で勉強するには限界があると思い、ピアノの先生にどうすれば良いか相談をしたところ、「合唱の先生が良いと思う」と勧めていただけました。ちょうど母親がコーラスに参加していたのですが、そのコーラスの先生は、オーケストラ付きの合唱曲も指揮をされる方でしたので、まずはその方のところに行ってみよう、と。

 その指揮者の方の門戸を叩いて、2、3回ご指導を受けていたら「合唱にも参加をしなさい」と言われまして、結局は指揮を習っているような、合唱を習っているような… そのような形で、指揮の基礎的な部分は教わることになりました。
 本番にも何度か、バスパートとして出演しているんですよ(笑)。でも、それはそれで良かったと思いますね。ブレスの取り方など、具体的に勉強する場になりましたしね。

「音楽で食っていく」べきか? の苦悩

 そして高校を卒業して大学に入学すると、転機が来るわけじゃないですか。今度は「管弦楽部」が選択肢にありますから。オーケストラに行こうかなとも考えましたが、先輩達の圧に抗えず… マンドリンを続けることになりました。

 その頃もまだピアノを続けておりましたが、次の選択肢として「音楽を職にする」ということも思い浮かんでくるわけです。3年生か4年生の頃、合田さんに相談したのでしょうか、何人かに相談したのだと思います。
 そこで「何の分野で?」という選択があるわけですね。プレーヤーなのか、先生なのか。プレーヤーであるとすれば、楽器奏者なのか、指揮者なのか。頑張ればできるのでしょうけれど、厳しい道なのは明らかですよね。その頃は、本当に悩んでいましたね。

 音楽が好きで続けているのだから、音楽を仕事にすると音楽が嫌いになってしまうかもしれない。音楽を職業にしていくことと、やりたい音楽を続けることは、別物なのではないかと思ったわけです。それならば、趣味としておいた方が良いのではないかと。そんなことに気づいたときには、卒業できない単位になってしまいまして、もう1年大学に行っていたのですけれど。
 そのようなわけで大学を卒業することにして、安定した会社員生活を選びながら、やりたい趣味を楽しむことにしました。それはそれで、決断に後悔はありません。

 私が常日頃申していることですが、練習やリハーサルに行くこと自体が楽しくなければ、行っている意味がないわけです。
 ですから毎回汗だくになりながら指揮を振っていたりしたわけですけれど、それは「やりたいことは、こういうことだから」というだけでしたから。ただ、それも継続していくと義務化されていきますので、辛いと思うこともあります。

- そうですね。アマチュアといえども練習の先には本番が決まっておりますし、自分だけの団体・集まりではないわけですから -

 そうですね、皆さんもそれぞれ都合がありますし。練習を繰り返しても、プロとは違ってある程度は練習前の状態に戻ってしまうのがアマチュアですし。それは、仕方がないですよね。
 そういうフラストレーションをゼロにすることはできませんが、それでも一生懸命取り組まないと楽しくないですし、そこで良い演奏ができれば本当に楽しいですしね。そこは私のポリシーですから、どうやっても曲げることができない部分ですね。音楽をするのならば、「そうありたい」というのが優先してしまいますので。

合田先生コーチング前後の変化

- 合田先生の指導を受ける前と、指導を開始された以降で、前野先輩から見てこれが変化したと感じることはありますでしょうか -

 「マンドリン合奏」から「マンドリンオーケストラ」に変化したように感じます。

 私の申し上げる「マンドリン合奏」というのは、「シンフォニックに響いていない」ということでしょうか。各パートが同じタイミングで、それぞれあまり関係を持たずに鳴っている状態ということ。それが秋の演奏会には、まだ完全ではないのですが、音同士が重なったり、フレーズが全体で動きを持ったり、オーケストラ的なサウンドに色付いていく途上にあったと感じています。

 トレーニングの方法が、全く変わりましたから。タイミングと音量を合わせて… という練習方法からその先へ、フレージングやダイナミクスをどのように色付けていくか? というようなことを取り入れる世界になりましたので。

 私自身もそういったことを春の演奏会でやりたいと思って、例えば「牧神の午後」などにチャレンジしてみたのです。しかしながら結局は私自身も、これまでCUMCが紡いできたことの延長線上の範囲でしか取り組める材料を持ち合わせておりませんでしたから、限界がありました。そういった変化をもたらしたのが、秋の演奏会であったと思います。

- これは以前、前野先輩からお聞きしたのですが、「牧神の午後」を演奏するにあたって、各パートのアーティキュレーションなどを自分のイメージに徹底するために、全パートの楽譜にクレッシェンド・デクレッシェンドの指定を記載したと仰っていたと思いますが -

 ああ、書き込んでおりましたね。「涙型クレッシェンド」や「下に向かうクレッシェンド」など、変な記号を作って書き込んでいました。ただ、それは結局「形」でなんとかしようとしていたわけですね。

 昔の恥ずかしいパート譜を見返すと、「クレッシェンド!!!!」「大!!!!」とか書かれているんですよね。それが合田さん以降はそういった書き込みが無くなっていって、例えばフレーズの流れを株価チャートみたいな曲線グラフで描いて、「うね~~~っていって、ここがピーク!」みたいな。表現についても例えば「柔らかく」だけでなく、「フワフワ」「モヤモヤ」というようなものが加わったりという変化がありました。

 特に指揮者の指導については「フレーズを口で歌ってみなさい」というシーンが増えたと思います。「アクセントを付けて」というところから、「『パン』なのか『バンッ』『ペンッ』なのか、歌ってみて表現してください」というように変化したことが大きいです。

 楽譜に書かれていたものを即物的に音にするところから、より「人間の感覚」を表現して「本質を問う」方向に向かったというのでしょうか。
 「すごく重い」と表現するか、「手にしたらあまりの重さに、床に手がついてしまうくらいの重量がある」と表現するか。「でっかい音」と表現するか、「地響きがして大地が鳴動するかのように」と表現するか、というような違いでしょうか。

 鈴木静一作品には、曲想・曲目解説がついているじゃないですか。昔の演奏会では、それを演奏前にナレーションで読み上げるということがあったと思います。あれは大事なんだな、と今では思うのです。そういった「大地が鳴動する」といったニュアンスをテキストとして表現されているので、楽譜上には記されていませんが… マーラーの楽譜ではそれがテキストとして書かれているのですが、鈴木先生も楽譜に書いておいてくれれば良かったのにね(笑)と思います。

- 私がビデオを拝見した印象では、まず顔を上げている人が多くなりましたね -

 これは少々笑い話になりますが、私が下級生の時にはマンドリン奏者として、1stの最後列などで演奏しているのです。この時の映像を早回しにすると、私の首だけブンブン動いているように見えるのです(笑)。周りの方々は微動だにせず、指だけが動いていまして。

 合田さんの指導以降は、全体のフレーズを体で感じたり、目線が上がったり、息が入ったりという指導が入っておりますから、確かにビジュアルが変わっていると感じるかもしれませんね。

- 他大学出身の方からは「何故あんなに動くんだろう」と聞かれることはあります -

 それは言われるでしょう。「気持ち悪い」とか(笑)。でも、それは表現を突き詰めていくと、自然とそういう方向になっていきますし。そもそもオーケストラの演奏会を見に行くと、演奏者は動いていますよね。

 演奏者が必要以上に体を動かさなければいけない理由として私が考えるのは、コンサートマスターがその仕事を十分にこなせていない状況がある場合です。オーケストラの演奏会では、コンサートマスターをはじめ首席奏者がものすごいアインザッツを出していますよね。それを自主的にやっていただければ、指揮者が頑張らなくても済むわけで(笑)。
 何をもって上手いオーケストラと言うか難しいですけれど、それこそサイトウキネンなどは気持ち悪いくらい動きますよね。

 私はあまりビジュアルについては見てこなかったのですが、指導を通じてそういった変化はあったかもしれませんね。

指揮:合田香 コンサートマスター:前野一隆 (ポルタビアンカマンドリーノ第2回演奏会リハーサル)

「形」から「感性」へ、それはCUMCを超えて

 本番当日の、聴いていただく側の空気感も変化していると思いますよ。楽曲の始まりの空気感など、変わっているかもしれません。私が関わる練習の時も、演奏冒頭の空気についてはこだわっていたじゃないですか。そこは昔と比べて全く変わってしまったかもしれません。

- そこが前野先輩のおっしゃる「発表会」と「演奏会」の違いの一つということなのでしょうか -

 でも「発表会」も、違う緊張感があるじゃないですか。「うまくやらなきゃ」「失敗しないように」みたいな。「演奏会」はもちろん「うまくやらなきゃ」もありますけれど、「最初から表現しなきゃ」みたいな。そういう違いはあるかもしれませんね。

- 演奏会開幕の「校歌」と、終演前の「惜別の歌」を演奏されなくなったのも、前野先輩の代からだと思いますが -

 ああ、それも私からかもしれません。
 プログラムを決める上で「始まりの音をどうするか」というものがあると思います。選曲の上で「これは、オープニングの曲だよね」と決めているはずなのに、オープニングの前に質感の異なるものが入ってくることをどう考えるか。アンコールが終わって素晴らしい拍手をいただいた後に、異なった空気のものが入ることをどう感じるか。そういった発想で、判断したと思います。

 ただある時期から、司会進行はあっても良いか、とは思いました。それは、特に演奏会を訪れることが不慣れな方のために「これから演奏されるのはこのような意図でこのような感じで作られた曲で、こういう雰囲気の曲ですからお聴きください」ということは提供しても良いのではないかと。
 特に鈴木静一先生の曲想は、演奏前に良い声で朗読していただきたいと今でも思っております。「邪馬台」や「失われた都」の前に朗読があると、間違いなく良いものになると思います。

 そういったものも含めて、見栄えや形を優先するのか、感性を重視するのか、ということだと思います。そういった音楽が続けられると良いですよね。

- そういったDNAは現在のCUMCにも少なからず伝わっていると感じています -

 でも、ポルタビアンカで活動していた時には、出身校に関わらず様々な血統の方がいらしていただいて、理解して取り組んでいただいておりましたよね。
 「音楽を楽しむ上で、こういった幸せがあると思います」ということをご理解いただくことに関して、そこはCUMCだから、ということはあまり関係ないように思います。

(2023.10.17取材)

内山峰三郎(うちやま みねさぶろう) 昭和35(1960)年卒

右・ゲストインタビュアー 竹垣健一(昭和37年/1962年卒)

大講堂の屋根裏から響く音に誘われて

- 内山先輩がCUMCに入部された時のお話からおうかがいしてよろしいでしょうか -

 昭和31年、中央大学経済学部に入学し、同年に中央大学マンドリン倶楽部に入部しました。 漠然と合唱部に入部を希望しておりましたが、講堂で昼休みを過ごしているときに2階隅の屋根裏から楽器の音が聞こえたのです。そのマンドリンの音に心惹かれて、そのままに入部をしました。

当時の校舎・大講堂の見取り図

 楽器経験のない私が初めて見た、当時の先輩方が演奏する様は完璧で、部員数13人とOB三浦寿也先輩(昭和31年/1956年卒)が居られることを追々に知りました。皆が一騎当千の強者達で、個性豊かな達人ばかりと記憶しております。

 同期新入生の入部数は恐らく15名くらいだったような気がします。マンドリンやギター等の楽器経験者は、知る限りでは2名ほどでした。
 当時は「タンゴ」が全盛の時代で、先輩達の毎日集まる場所は三省堂裏のタンゴ喫茶「ミロンガ ヌオーバ」でした。現在もあると思います。1
 卒業まで継続した同期は12名でした。翌年より、徐々に入部者が増加しました。

合宿は1日3食で「300円」!?

 私達の入部から、戦後最初の合宿が始まったと思っております。1学年時の合宿先は、当時4年生の馬場牧人先輩(昭和32年/1957年卒)の故郷である福島市飯坂温泉の「千石湯」付の旅館で、ご当地のボーイスカウト長の家で夏の1週間を過ごしました。1日3食付きで300円の時代でした。大きな温泉で、当時は混浴でした。

 2学年時の合宿は、当時4年生の斎藤三郎先輩(昭和33年/1958年卒)が経営する、宇都宮市雀の宿の旅館でした。当時は自衛隊の宿所に指定されていた場所でした。練習場である小学校までは相当な距離があったと覚えております。宿泊代は同じく、1日300円でした。

 3学年時は西伊豆の戸田温泉の旅館で1泊360円でした。私が電話で300円に交渉するも相当に難色を示され、結果360円となりました。その時に新入部した1年生の入部数が40名を超えたと覚えております。

 最終の4学年時は再び福島・千石湯の旅館で合宿、そして福島県人会主催のマンドリン倶楽部演奏会を持つに至りました。その際の指揮者は三浦寿也先輩でした。

昭和35年度卒業生(昭和34年 秋 撮影) /前列中央左が内山峰三郎

 私は小学校時代から仲間を集めることが好きだったので、大学入学時もその癖が出て、まずはマンクラ同期生を集めて、麻雀やソフトボールなどをして遊びまわり、仲間としてまとめました。
 4年生の時は部長を佐藤利春、指揮を飯高彰に依頼して、私はマネージャーのようなことをやっていました。そして昭和35年になんとか卒業しました。
 以来、学友会の二沢、合唱団の石井、ハワイアンの北島、ブラスバンドの北沢という諸先輩の知遇を得ることになりました。

OB会の立ち上げ、OB会長としての活動

- ご卒業後のCUMCとの関りについて、お聞きさせていただけますでしょうか -

 卒業後は、年1回のOB会の集まり・名簿の作成などに携わり、昭和38年に本格的な?OB名簿「白門・M OB発会記念」を作り始め、翌39年に完成し会員へ届けました。それ以降は発行していないので、名簿は昭和39年の方まででした。恐らく会則は、倶楽部の戸棚に入っていたと思われる古い書式を参考にしたと思います。

 私の知る範囲で、最初のOB会長は矢部博先輩(昭和32年/1957年卒)にお願いしたと思います。若くして亡くなられた矢部先輩の次に務めた木口光忠先輩(昭和34年/1959年卒)も早世し、長谷川壮之介先輩(昭和34年/1959年卒)にお願いをしましたが、最後は私が引き受けることになりました。

 その間、何年かに一度に開催して現役支援も兼ねた懇親会、箱根でOBゴルフ会、後年に箱根でOB懇親会を開きました。この時の会に、卒年が離れた後輩の江澤克文君(昭和44年/1969年卒)が特別参加をしてくれました。たぶん、新しくマンドリン俱楽部OB会を作ろうとお考えになって、往時のマンクラ状況を知るための同行参加であったのではないかと思います。

 昭和40年以降は現役との接触が段々と無くなったために、OB会名簿は発行しませんでした。故に私の作ったOB会名簿は昭和39年卒の方々までなのです。

- その後OB会会則が発効されたのが昭和57年でしたので、その間の20年近くにわたり内山先輩がOB会長をなさっておられたのですね -

マンドリンのことは一日も忘れることなく

 話が戻りますが、中大講堂では年に何回か、昼の休憩時に音楽研究会の発表会が開催され、我等がマンクラも登壇するのです。1年生だった私も参加するのですが、先輩からはなんと「お前ら1年生は、音を出すな!」と。要するに、弾き真似です(笑)。その時、昼の大講堂舞台へ立ったのが、思えば私のマンクラ生活の始まりでした。

昭和35年1月 大講堂でのコンサート

 その講堂での倶楽部生活も、昭和32年に練習場が文京区富坂に移転することになりました。カマボコと呼ばれて当時親しまれた、富坂の練習場ですね。

 当時は私も父親から「大学には遊びに行っているのか!」と怒られておりましたが、やはりクラブ生活というものは学生にとって大切なものではないかと思います。
 89年生きてきて様々なことがありましたが、マンドリンのことは一日も忘れることがありません。

(2024年5月14日 取材)

  1. 「ミロンガ ヌオーバ」は2022年12月に閉店、2023年2月に同じく神田神保町に移転して再開。 ↩︎

濱春菜(はま はるな)・木村(旧姓:神山)智美(きむら ともみ) 平成24(2012)年卒

先輩方の(ある意味)おかげです。

- お二人とも附属高校からマンドリン倶楽部での活動をスタートしたということですが、それ以前の音楽経験はおありなのでしょうか -

木村智美(以下・木): 5歳から小学5年生までピアノを経験していました。

濱春菜(以下・濱): 私も3歳くらいからピアノを始めて、中学1~2年生でやめました。中学生の時に、吹奏楽部でクラリネットを担当していました。

- なぜ高校でマンドリンを始めたのでしょうか -

木: 私は三國(旧姓:小関)美紀と同じクラスでした。よく覚えていませんがなんとなく一緒にマンドリン倶楽部に行ったら、安武先輩というかわいい3年生がいて、「あ、めっちゃかわいいじゃん(笑)」と。

濱: (笑)

木: すごくフレンドリーな先輩でしたが、入部1ヶ月で辞めちゃって。

濱: えー(驚泣)

木: 私は安武先輩と仲良くなりたかったから入部したのに… ショックでした。ただ、入部したからには辞める理由は無いですし、そのまま続けておりまして。

濱: えらい! そうだったんだ、知らなかった…

濱: 私は実は、5月頃に遅れて入部したんです。実はマンドリン倶楽部自体は、高校入学前の白門祭で知っていたのです。

 実は母がマンドリンを弾いていまして、マンドリン自体も昔から知っていました。母は短大のマンドリンクラブに所属していて、社会人になっても横須賀のマンドリンサークルで演奏活動をしておりました。そこに私も幼稚園児くらいからついていっていたので、マンドリン自体は馴染みがあったのです。
 中大附属の白門祭に行った時に、「マンドリン倶楽部があるみたいだから、ちょっと行ってみようか?」と、母親と一緒に演奏を見に行って、「この人達、プロなんじゃない?」というくらいにすごいなと思ったんです。たまたま中学の吹奏楽部の先輩も一緒に来ていて、「マンドリン倶楽部ってすごく上手くない?」「レベルが違いますよね?」という話をしていた記憶があります。

 中大附属に入学することができて、マンドリン俱楽部に入ろうかと思っていたのですけれど、受験もしたいと考えていたので、悩んでいたんですね。
 中大に上がるか、高校受験を乗り越えたこの波に乗ってこのまま勉強したらもっと高みに行けるか、と。いろいろと自分の人生を考えていまして。

木: おお、すごいね! よーし附属に入学できた、大学受験ありませーんと思っていたのに。

濱: (笑)たぶん部活を始めたら、このまま中大に上がることになるかなと思っていたので。まあでも、部活動も自分にとって損は無いかと思い入部しました。
 ただ、今でも思い出しますが…5月に入部して、みんなひたすら開放弦を上下に鳴らすだけの基礎練習をやっていた風景に驚いて(笑)。

木: みんな、半分寝ながらやっていたからね(笑)

濱: バイーン、バイーン… って。これは何の集団だろう(笑)って思いました。結構あれで挫折する人が多かったよね。なんじゃこりゃ!? と思って。

木: うん、私もなんじゃこりゃ!? って思ってた(笑)

- そして、そのまま高校卒業後もCUMCへ、と -

木: みんないるから、大学でも続けようか? という感じですね。

濱: まあ、ズルズルっと… と言うと、失礼かもしれませんが。

100回記念、いつやる?

- CUMCの「第100回記念演奏会」について、当時のことを詳しくお聞きしてよろしいでしょうか -

木: 大学1年生の秋の定期演奏会終了後、打ち上げ会場だった西郊で、なにやら存じ上げないOBに囲まれて「君達、100回の代なんでしょう? 楽しみにしてるからね」「君は高校3年生の時に指揮者だったよね?」と言われまして。

濱: えっ、そんなに早くから!?

木: どうやら私達、すごい代になっていたんだなと思いました。あー、やらなきゃいけないんだな(汗)と。

濱: 年に2回定期演奏会を開催するので、第100回は4年生の春に開催することになる、と。ただ、1年生の頃から4年生を見ていて、就職活動とかぶる時期は大変そうだなと感じていました。
 そのような環境で、100回という大きな節目のものを開催できるのかなという声が、現役生の中からは既にありました。まずは私達の代でそれについて話したのが、確か大学2年生の時でしたね。

木: 先輩方が就職に苦戦していることを、ちょうど私達も感じていた頃ですね。

濱: まさにリーマンショックの起きた2009年頃のことで、本当に苦労されている姿を見ていました。
 ですので、自分達の将来を賭けた時期に100回記念も両方できるのかというと、正直難しいのではないかというのが私も含めたほぼ全員の意見だったと思います。

木: 開催するとしたら、全員で出演したいと言っていましたね。ただ、春の定期演奏会は就職活動を優先して出演しないかもしれないという声が、実際に既にあったので。

濱: そうそう、実際に私は春に出なかったしね。みんなには申し訳ないなと思いつつ…
 そもそも春は基本的に2年生以上+経験者の新入生しか舞台に上がれないという人数の都合もあり、管打楽器のエキストラは入れない、というイメージがありました。

木: そう、秋の方がメインっぽい定期演奏会、という位置付けをしてましたね。

濱: 一度、「演奏会自体を年1回にしないか」という意見を出したのですよ。年に2回開催する理由って何だろう? と改めて思いまして。

木: うん、それは今でも考えるよね。

濱: 言い方は悪いですけれど、中途半端だなと思いまして。未経験者の1年生も出演できないわけですよね。この際、秋の1回に集約して100回記念にすればいいんじゃないか? と考えて案を出しました。
 ただ、これについては部内で意見が二つに割れましたね。私達の同期でも半分くらいに割れていました。記念演奏会となると「自分達の演奏会じゃない」という意識がどうしてもありますから、自分達が主体となる演奏会はどこかで開催しておきたいという話になったんですよね。

 なかなか結論が出ずに悩んでいた時に、同期の國永久志と市川友也の二人だったと思いますが「100回記念演奏会を101回に開催しないか?」という案を出してくれたのです。あぁなるほど、その発想は無かった! と思いました。秋には全員で集中できますし、春も自分達が主導で開催することができて、両方の意見が反映される形になるのではないか、と。
 その案でOB会との、確か2回目くらいのミーティングであったかと思いますが、「記念演奏会を秋に開催したい」と相談したところ快諾をいただけた、という経緯であったと思います。

100回記念、どこでやる?

濱: 秋を記念演奏会とした場合、シーズン的にホールが抑えにくいのではないかという課題がありました。11月・12月はプロのオーケストラもコンサートが多いので、今度はホール問題ですね。
 OB会としては都心で開催して欲しいという希望があり、資金的にはバックアップしていただけるとのことでしたが…

木: すみだトリフォニーホールとか、サントリーホールなんて話もあったよね(笑)

濱: マジで?いいの?(笑) なんていう話もありましたね。大学が八王子なので、それまでは八王子寄りのオリンパスホール八王子(現:J:COMホール八王子)や三鷹の武蔵野市民文化会館、芸術文化センター等を使用するのが流れでしたので。大きな夢を掲げていただいてありがたい反面、どうしようか? という感じでした。
 ホール確保をするに当たり、まずは自分たちの代で始めたのですがこれが失敗で、予想以上に大変なため後輩にも手伝ってもらうことになりました。結局ほとんどダメで…

木: 大田アプリコしか取れなかったんだよね。

濱: そうそう。これも恥ずかしい話なのですが、私の母が取ってくれたのです。ちょうど合宿期間でホール予約抽選に行けず、恥ずかしながら親に頼ったら、見事に当選してきてくれて(笑)。どうなることかと思いましたが、あの時は本当に救われましたね。

木: 本当に、ギリギリだったね。

濱: そう、ギリギリだったよね。ちょうど日曜日が取れたことに加えて、前日夜のゲネプロ会場としても抑えることができて、日程的にも完璧だったよね。

濱: 会場が決まった翌日か翌々日くらいに、ホテルニューオータニでOB会の会合があって、私と木村でビュッフェみたいな所に行かなかったっけ? ご年輩のOBの方々が居並ぶ中で「記念演奏会よろしくお願いします」という挨拶をした記憶があるんだけど… たぶん、後輩たちは目にしていない場所で私達二人は動いていましたね。

木: 御茶ノ水にあった駿河台記念館(現:中央大学 駿河台キャンパス)にも、何回か行ったよね。

濱: 行ったねー。綺麗なところだったよね。ご年輩のOBがたくさんいらっしゃるから、学生の私達が何か申し上げても論破されてしまいそうで、タジタジでしたけれど。

木: でも、松本雄一郎元監督(昭和56年/1981年卒)など、私達の話をよく聞いてくれたよね。

濱: そう、よく聞いてもらえたよね。名達誠一監督(平成9年/1997年卒)も間に入っていただいて、実行委員会のOBの皆さんにも協力していただいたので、スムーズに進めることができました。
 恐らく私達が見えていないところで、具体的な情報が私達の耳に入ってくる前にも、いろいろなご活動があったんだろうなと思います。

木: 社会人としてお忙しいはずなのに… 私達が社会人になって振り返ってみて、わかることですね。

- 「記念演奏会を開催する」と早めに決定していただいたことと、諸々の判断をある程度OB会・実行委員会に委ねていただけたことで、様々な動きをとることができたのではないでしょうか -

濱: ありがとうございます。そう仰っていただけまして、良かったです。

100回記念、何をやる?

濱: 全3部構成のステージにするというのは、結構早く決まりましたね。①現役ステージ ②OBOGステージ ③合同ステージ の3部構成で良いのではないか、ということで。結果的に100人くらいの出演者数になって、舞台ギリギリになっていた気がします。
 参加募集の際には申し訳ありませんが、「練習2回以上出席できる」というような条件を設定させていただいたと思います。

濱: また、選曲も課題でした。何を取り上げようかと様々な案を出しましたが、私達から挙がった曲は何故か暗い曲が多く… そうじゃなかった?

木: ちょっと、ひねくれてる感じだったよね(笑)。もうちょっと、華やかな感じでも良いのに。

濱: そうそう(笑)。今から思うとみんな、ちょっとひねくれてるよね。

木: 最終的に、なんで「朱雀門」になったんだっけ?

濱: 実は、小玉亨一先輩(昭和61年/1986年卒)から「音楽物語をやらないか?」というお勧めをいただきまして。

木: あっ、小玉先輩から!? よく覚えてるね。

濱: (笑)理由やきっかけは、それだけではないと思いますけれど。確かに自分達の案では暗い曲ばかりになってしまい、「記念演奏会なのに、こんなに暗いプログラムで良いのか?」とは感じていました。朱雀門もストーリーとしては暗いですが、

木: でも、バックアップが厚いこの時でないとできない曲だし、最近は誰も演奏していないし。

濱: そうそう、誰もやってないしね。音楽物語を取り上げることは誰も抵抗が無かったと思います。他の音楽物語も検討した中で、朱雀門はストーリーの暗さはありつつも音楽的な華やかさはあったと思い、選んだという経緯でした。
 ただ、やっぱり暗いな(笑)、と。それでもう1曲に「パゴダの舞姫」を選んだのです。

木: パゴダの舞姫も、演奏するには管打楽器のエキストラが多数必要だから、この時じゃないと! ってね。

濱: そうそう。そのアイディアを出したのは前田裕介だったと思います。これもスッと「いいじゃん! 今しかないよね?」という感じで決まったと思います。

木: 「100回記念だから、なんでもできるぞ!」と、OBのバックアップを「私達が存分に利用させていただきました!」という感じの選曲になってしまいましたが(笑)。

濱: 音楽物語ではなかったら、「シルクロード」という案も出るには出ていましたね。

木: 「失われた都」という案も挙がってなかった?

濱: ああ、挙がってた! ただ失われた都は、記念演奏会ではなくても良いかな? という雰囲気もあったよね。
 こんなに人数が集まる機会も滅多にないですし、せっかく集まっていただけるのですから、「やってみたい」「おもしろい」と思えるものが良いと考えました。あとは、「鈴木静一作品」というのは間違いありませんでしたね。私達に染み込んでいる鈴木静一作品への思い入れは当然にありますし、またCUMCを指導されていた歴史があり、実際に指導を受けられていた先輩方もいらっしゃることもありますので、これはやるべきだ・やった方がよい・やりたい、ということでした。

木: 集客も見込めるしね。来場もそうだけれど、出演していただけるということも含めて。

濱: 出演してもらいえないのも困るよね。「えー、この選曲?」って思われても哀しいし(笑)。せっかくやるなら思いっきりやれる曲を、ということで。

濱: 結局、合同ステージは神山が全曲を指揮したしね。

木: そうだね。青山忠先生(昭和57年/1982年卒)、指揮を振ってくれるって言ってたのに(涙)。

濱: (笑)

木: 「先生、振ってください!」って言って、「いいよ」って言ってたのに。演奏会当日に日生劇場のオペラの仕事が入ってしまって、「ウチらより、オペラなんだな~(涙)」って。

濱: (笑)あれは、ちょっと思った! 思ったけど、あれはしょうがない。

木: しょうがないか~(笑)。

濱:それでも私は、そういう状況でも午前中のゲネプロに来ていただけたことは嬉しかったよね。ちゃんと私達のことを気にかけてくださっていたんだな、と。
 青山先生がコーチとして本格的に指導していただける体制になったのが、私達が大学2年生の頃からでした。そこから、音楽の方向性が変わったような気がします。定期演奏会の曲目にポピュラーも入れるようになりましたし、

木: 弾き方も変わりましたね。ガムシャラではなく、ちゃんと譜面通り弾きましょう、というような。

濱:そうそう。先輩方がすごく上手かったので、こういうふうに演奏すれば自分もこのようになれるんだなと思って練習していたんですけれど、「そうじゃない」と。特に、マンドリンのプロですのでマンドリンには厳しかったですね(笑)。私個人にとってはつらい時期でもあり、今まで培ってきたものを一回壊さなければいけないというのは、すごく勇気が必要なことでした。

 でも、私達の代には大学から音楽を始めた人も半分くらいいるんですね。彼らの方が先入観が無いので、「青山先生のおっしゃることも正しいと思う」と、正直に言ってくれたんです。あぁ、そうなんだ、と。自分達が知っている限りの狭い知識だけでは良いものはできないのかな、青山先生に指導していただくことによって自分達の幅が広がるのかなと、新たな気付きを得たと思い直しました。

 そういう意味で、私達の代は結構バランスよく運営できたなという気がします。演奏だけでなく、記念演奏会を企画するにしても、いろいろな意見が出る中で、それが結果的に実を結んだのかなと思いますね。

楽しそうに弾いてるなー(笑)

- 記念演奏会の指揮者を務めた視点からは、どうでしたか? -

木: あれだけの人数を指揮させていただいたことが、まず貴重な経験でした。その上で記憶に残ったのは、OBの皆さんが、本当に楽しそうに弾いているなー、と(笑)。

濱: (笑)

木: 指揮台に立っていると、手前のプルトというのがどうしても視線に入りにくいんです。自然と3プルト・4プルトの先輩方に目を向けると、楽しそうだなー、って(笑)。アンコールになってようやく、同期が座っている1プルトが見えてくるんだけど。

濱: (笑)アンコールはもう、満場一致で「祝宴」だったしね。

木: 終演後も「ありがとう!」と出演された先輩に握手を求められて。聴いてくださった方からも、こんなに声をかけてもらえたことは初めてでしたね。客席から「ブラボー」をいただいたのは、この時だっけ?

濱: これこれ!

木: ブラボー、初めて言われた(笑)!と。客席の熱量もすごかったよね。「朱雀門」にナレーションが入ったこともあり、集中力を持って聴いてくださったのかなと思いました。

濱: 出演者が多いあまり、客席が埋まるかな? という不安がありましたが、開場前から長蛇の列ができてすごかったですね。
 そして出演していただいた方も「100回記念演奏会に絶対乗ってやるぞ!」という気合の入った方ばかりでしたね。

木: 「100回記念に出るのを楽しみにしていたんだよ!」「出演するために楽器を買いました!」という方もいらっしゃったよね。そんなに楽しみにしていただけるとは思わず、ありがたいようなびっくりするような。
 正直なところ私達は演奏会の運営と、もちろん練習も課題があり、また大学生活・就職活動・プライベートも抱えてという時期で、しんどい頃でもありました。それだけに、私達との熱量の違いに戸惑ってもいました。

濱: それでも、皆さんすごく楽しみにして出演してくださったし。

木: こんなに前向きな気持ちで迎えた記念演奏会は、初めて経験したと思います。私がそれまで経験した記念演奏会は卒業年次の近いOBが中心になっていたイメージでしたが、100回記念だけは随分イメージが違いました。

濱: それでも指揮者は、大変だったでしょう。高校時代に経験をしていたとは言え、やっぱりプレッシャーもかかるし大変だったと思うんです。
 その中でも、ちょっとボケて空気を作ってくれるというか(笑)。悩ませてしまった時期もありましたが、明るい性質で進めてくれたことには感謝しています。

時代を、歴史を感じるということ

木: 私達は2年生の時に「70周年記念演奏会」も経験しており、4年間ずっとOBの皆さんと関わらせていただきましたね。長い歴史を感じるとともに、おおっとこれは大変なことだぞ(笑)、と。

濱: 期待値も高かっただけに、プレッシャーもあったよね。「いつ開催する?」「ホールはどこにする?」と、決めなければいけないことが目白押しだったしね。「乗り越えなきゃいけないんだな」と思うことが結構あったよね。

木: それだけに第2部のOBOGステージは、「皆さんのやりたいことを思う存分やってくださ~い!」という気持ちでした。私達も随分と好きなことをやらせていただいているし(笑)。

濱: 当初は他に、全2部構成という案もあったんですけれどね。

木: 私達がやりたい曲を第2部ステージで取り上げられてしまったら困るから、「先に選曲させてください!」というやり取りもありましたね。

濱: むしろOBOGのみのステージを設けて、どれだけ集まるのかなという気持ちもありました。長く続けていらっしゃる先輩が少なくないことも知ってはおりましたが、そこまでの人数に出演していただけるものなのかな、と。
 逆に(インタビュアー:鳥居良次(平成14年/2002年卒)へ)質問になるのですが、第2部のステージの選曲はどのように決まったのか? を知りたいです。

木: 「真珠採りのタンゴ」は第1回演奏会の演奏曲だから絶対だよね、っていう話はありましたよね。

- 第1回演奏会で指揮をされた功刀忠雄先輩(昭和37年/1962年卒)がご出演いただけることになった時点で、「真珠採りのタンゴはやりましょう」という流れになりましたね -

濱: あー、なるほど。

- 他には、卒業後も指揮者を長く経験されている方がやはり良いでしょうということで、中村亨先輩(昭和55年/1980年卒)と前野一隆先輩(平成2年/1990年卒)になりました -

濱:うーん、そうですよね。

- そして、卒業して間もない若い指揮者にもお願いしよう! ということになりまして、お断りされるかどうか不安でしたが、 -

木: いや、断れないね。

濱: 断れないね(笑)。

- 木村晃治先輩(平成23年/2011年)にご快諾をいただきました! -

濱: (笑)

木: でも、こう見ると「時代」ですね。それぞれCUMCの違う時代を代表する方々ですね。

- あとは曲の割り振りですが、やはり鈴木静一は入れたいということで「細川ガラシャ」を中村先輩に。では前野先輩には得意のボッタキアリを、というところで、折角なら大編成となる「夢の魅惑」を自薦いただきました-

濱:おおー、そうか! そういうことだったんですね。

- 最後はとにかく華やかに! ということで、「威風堂々 第1番」となりました。実はこの時の楽譜は、前野先輩の編曲なんですね -

濱: 本当だ! そうだったんですね。

木: 威風堂々、当日の評判も良かったですよね。

濱: 第2部のステージには、歴史・時代を感じました。コンセプトがしっかりしていて、すごく良いと思いました。
 実際に出演者募集をして、人数制限でお断りをしたようなことはありましたか?

- 私の記憶では、どなたかをお断りしたことは無かったと思います -

濱: そうなんですか。結果的に、舞台ギリギリの人数でしたね。

木: お断りするとしたらどうしようか? という心配をしてました(笑)。それだけ期待値があったということですね。

濱: うん、期待値があったのを感じたよね。

木: すごいね、100回(笑)

濱: (笑)いや、すごいことをやったんだね。なんだかガムシャラに走ってたけどね。

感じた「大きな波」の正体は

濱: 私の感想ですけれど… 第3部の合同ステージはとてつもなく人数が多いので、練習の時からなかなかオーケストラの中で合わなかったりして、「このまま本番を迎えて、グシャグシャになったらどうしよう」と心配していました。

 それが本番になったら、どこから出てきたのかわからない「大きな波」を感じた、というんですかね… 練習では見られなかった謎の一体感をすごく感じて、「ここだ!」という場面で「ウワーーッ!」というものを感じたんです。人数の多さに加えて一致団結した時のあの感動を、忘れられません。
 その瞬間になぜかマンドロンチェロの宮内駿と目が合って(笑)、彼はどちらかというと普段からクールな感じなのですが、あの宮内でも「えっ!?」っていう顔をしていたのを覚えています。同じものを感じていたんだな、と私は思っています。本人は、全然違うことでびっくりしていたかもしれませんが(笑)。その時、記念演奏会ならではの、初めて体験するパワーを感じました。

 また、合同ステージの1プルトは全員現役学生で組みました。OBOGとの演奏会ですが、私達の最後の演奏会でもあるので、私達で終わりたいよねという気持ちもあってそのようにさせていただきました。

木: 安心感あるしね。

濱: 安心感、あった!

木: ワンチーム!ってね。

濱: (笑)やっぱり、これを乗り越えてきたのが私達の代だったんだなと思うと、後輩達には悪いけれど(笑)前列に出させていただきましたね。これはもう、4年生の特権ですね(笑)。

木: OBの皆さん、めっちゃキラッキラした顔でこちらを見つめてるから、その波だったんじゃない?

濱: まさか、そんな波が(笑)! そのキラッキラが私にとっては後ろからウワーッって来たんだよね。

木: もうパゴダの舞姫なんか、皆さんニコニコで演奏していて。

濱: そうだ! パゴダだったと思う! すごい波を感じたのは。

木: パゴダは演奏しても楽しいじゃない? それが朱雀門になると、キュッとシリアスな感じになって。皆さん、「現役に戻りました!」という顔で演奏してくださって、若返ってましたね。

濱: 今でも私は楽器を続けていますけれど、あんなステージの経験は二度と無いかもしれません。

時代は流れ、それでもまた集い、

濱: その後のレセプションも楽しませていただきました。OB会の方が近隣のホテルで宴会場を貸し切りにして開催してくださったのだと思います。「中大応援歌」や「惜別の歌」に改めてきちんと触れて、なんというか時代を感じましたけれど(笑)、そういう一致団結できるものがあるということは本当に良いなと感じました。

木:合同練習の後に、OBの皆さんと飲みに行くことが多かったんですけれど(笑)、当時のことを熱く語っていただいて、思い出すきっかけになって差し上げられたとも思っています。
 過去も今と同じようなことをずっと続けてこられたんだろうなーと勝手に思っていましたが、「えっ、今はそんな活動してないです!」ということもお聞きすることがあって。逆に、「それは、今も引き継がれてますよ!」ということもあったり。時代が流れているな、と思うことがありました。

濱: その時代ごとのカラーが出ていて、それがまた良いな、と思いますね。それは100回記念演奏会を通して、深く考えたことかなと思います。
 やはり身近なものが自分達のスタイルになってくるのが自然だと思いますが、私達はCUMCにとって節目の所を経験しているので、ギャップを感じつつも、これはこれで良かったのかな、と今では思います。

木: 私達はちょうどその節目の「良いとこ取り」をできたのかな、と思うと、運が良かったのかもしれません。

濱: 私達が高校の頃はまだ決まったコーチがいない時期で、OBの方々に教えていただくことがとても多かったのですが、本当にありがたいことだったと思います。ご自分の時間を割いてまで人に教えるということはなかなかできるものではないと、今ならわかる大変さです。
 そのお陰で私はマンドリンをとても楽しいと思えるようになりましたし、いろいろなものを吸収できる機会になったと思っています。

(2023年9月10日 取材)

高橋 信男(たかはし のぶお) 昭和47(1972)年卒

女の子にモテたいギター青年の話

- 高橋先輩の、音楽との出会い・マンドリンとの出会いをお聞きできますでしょうか -

 中央大学附属高等学校に入学する前までは、音楽に関してはまったく経験がありませんでした。運動部の盛んな高校でしたから、中学からの野球を続けるのも難しいと思い、高校では何をするかと考えていたのですけれど。
 これから女の子にモテるには「ギターを弾けなければダメだ」と思って、そうしたら新歓で倶楽部の先輩が「エレキギターを弾ける」というデモンストレーションをしておりましたので、ギターを教えてくれるということが動機で入部しました。入部してしばらく経ったら、それがマンドリンの伴奏パートだったことがわかったのですけれど(笑)。いずれにしても当時はビートルズやフォークソングが流行していた頃でしたので、とりあえずガットギターを弾こうということでそのまま3年間を過ごしました。
 ちょうど私の2年上、指揮者としては石井昭先輩が準備してくださったお陰で、中大附属の第1回定期演奏会に出演する幸運にも恵まれました。

人生を左右した、鈴木先生との出会い

 大学に入学しましたら、神田神保町校舎の中庭で新入生勧誘のイベントを行われておりまして、同期や先輩の顔も知っておりましたから、やっぱり大学でもマンドリンをやるのかな、という流れで5月上旬頃にCUMCに入部しました。
 5月下旬に第14回定期演奏会の開催準備がされており、ギターの先輩から楽譜をごそっと渡され「2週間で音を拾ってこい!」と言われ、当時の後楽園の練習場に参加しました。ちょうどその時、人生を左右した衝撃的な出会いですね、鈴木静一先生が初めて後楽園の練習場に来られたのです。定期演奏会に向けて練習中の「スペイン第二組曲」を指導してくださいました。
 鈴木先生の曲は「山の印象」を高校で演奏したことがありましたし、「スペイン第二組曲」も景色を彷彿させる良い曲だなと思っておりました。ただ、作曲家がご自身の作品に思い入れを込めて、目の前で指揮をして頂けるわけですよ。その現場に居合わせたことに衝撃を受けました。それが、鈴木先生との初めての出会いです。

マンドロンチェロへのコンバート

 春の定期演奏会はギターで参加して、その後 新入生歓迎合宿というものが夏頃から始まり、秋の定期演奏会に向けて準備が進むのですが… とにかく100人以上の倶楽部でしたし、同期が最初は40人くらいいたものですから、管楽器もベースも、またギターも人数が溢れておりました。そこで、バランスよく各パート人数を調整しなければならない、と。
 夏の新入生歓迎合宿に私はギターを持って参加したのですけれど、合宿所に到着したらマンドロンチェロが待ち構えており(!) 、私とフルートで入部した駒崎明君の2人が、4年生の指示によりマンドロンチェロへのコンバートとなりました。私達も含めて新入生それぞれやりたい楽器というのはあったと思いますが、オーケストラとして3年後までを想定をしてバランスよく続くように、うまく割り振られたということですね。なかなか今では考えられないコンバートかもしれませんが(笑)。

- 逆に部員数が足りないためにコンバートを行うということは現在もありますが、フルートからマンドロンチェロへのコンバートというのは衝撃的ですね! -

 そうですよね(笑)。それでもやっぱり、自分はこの楽器を続けたくて入部したのだ! というささやかな抵抗感がありまして、練習の休憩時間にギターで得意のフレーズを掻き鳴らしていたということも覚えております(笑)。

学園紛争、定期演奏会の中止

 大学2年次の春に第16回定期演奏会が予定されておりましたが、この頃が学園紛争の一番激しかった時期でした。学内・学外に限らず、文化団体において発表会や演奏会の中止が相次いでおりました。
 我々の演奏会に向けての練習も、相当に曲の完成間近までに至っていたのですが、状況が許さず泣く泣く第16回定期演奏会は中止にしようと上級生が決定されました。その時に練習していた曲は、現代でしたら録音やビデオ録画をして遺していたのでしょうけれど、結局持ち越しすることもなくお蔵入りとなりました。

鈴木静一先生のご指導と関わり

 私と鈴木作品の関わり合いとしては、大学1年の春に「スペイン第二組曲」、秋の第15回では東京初演であったと思いますが「スペイン第三組曲」、第16回中止の後の第17回は「樺太の旅より」、第18回は「雪の造型」、第19回は「受難のミサ」「北夷」「ルーマニア狂詩曲第1番」を演奏しました。
 第20回は関西大学との合同演奏の時期に重なり140~150人のメンバーでしたので、鈴木先生から「シルクロードを演奏したらどうだ」というご提案もありましたので演奏させて頂きました。私が卒業の第21回は少々盛り込み過ぎたのですが、第2部に「人魚」と第3部に「失われた都」「火の山」、アンコールに「細川ガラシャ」という、鈴木先生も食傷気味だったのではないか(笑)というプログラムをさせて頂きました。そういうことですので、中止となった第16回を除きまして全ての演奏会で鈴木先生の作品を取り上げさせて頂きました。
 その都度、鈴木先生は岩井の合宿にもお越し頂きましたし、富坂の練習場にも来て下さったので、先生の考え方や音楽に対するスタンスというものを学生の立場なりに勉強させて頂くことができました。

 先生のご指導のやり方というのは、音量やテンポ、アーティキュレーションの指示というものについては、ほとんどおっしゃることがありませんでした。フレーズを合わせる息の取り方であるとか、どちらかというと指揮者やパートトップに対するアドバイスというのが、少なくともCUMCの指導ではメインでした。スコアに記載されていることでも、例えば音量やテンポ等についてはオーケストラに任される部分があると思いますが、「そこはこう思います」と先生にお話しをさせて頂き、スコアの記載と異なる表現をしても先生は怒られませんし、ご不満そうなことをおっしゃられたことは少なくとも私の記憶にはないですね。その点はとても自由にさせて頂きました。

- 作曲者にとっては自分のテンポ感やイメージがおありだと思うのですが、あまりそういうことはおっしゃられなかったのですね -

 そうですね。例えば人気曲の「火の山」や「失われた都」を他団体が演奏された録音を聴いても、先生がご指導されているにも関わらず全然違うものが出来上がっているというのを耳にしましたし、私達もその点をあまり細かく言われたことは無いです。

 ただ例えば、「このフレーズはマンドラが歌ってほしい」というところで消極的に弾いていると、楽器をむんずと取り上げて、マンドラパートの前で先生がグワーッと弾いていらっしゃるという光景は見ましたね。チェロもずいぶん「こう弾かなくてはダメだ」ということは言われました。それは、気持ちをどう表現するかというところが足りなかったりすると、アドバイスをされるということでした。

 ですからご不満が無い場合ですと、夕方に練習場へ来て下さってから練習時間が2時間くらいだったでしょうか、もちろんこちらから質問すれば応えて頂けましたが、あまり先生からお話されることはありませんでした。
 ただ、「北夷」の練習だったでしょうか、先生も我慢ならなかったのでしょう。「そうじゃないんだ」と指揮棒をむんずと取り上げて指揮台に昇り、指揮をされたというのはありました。先生の指揮というのがまた麻雀牌をかき混ぜる「理牌」のような指揮なので、当時の学生は麻雀が好きでしたから、先生が指揮をされるとどうしてもクスクス笑っちゃうんでね。その点が苦労しましたね(笑)。

 当時の練習場には当然ながら冷暖房がありませんから、冬などは寒いのですよ。タクシーでお越しになられた先生をお迎えすると、マフラーとトレンチコートをお召しのまま音研の練習場に入ってこられて。ご用意させて頂いた椅子にお座りになると、当時の日本人がほとんど吸わなかったドイツ製の「シガー」にすぐ火を点けられるのです。当時の学生が吸っていたセブンスターなどの薫りとはまったく違うので、練習場が先生の薫りに一変するという思い出がありました。

- 先生の肖像写真を拝見すると、パイプを手や口にされているものをよくお見かけしますね -

 そうですね、大変お好きでした。私は役職としてマネージャーを担当しておりましたので、先生がお越しになられるときは到着時間にお待ちをして、タクシーでお越しになられたら練習場にお連れをして、練習が終わったらタクシーを拾ってお送りするということをしておりました。

 岩井・前芝荘の合宿の時には泊りがけで来て下さいましたから、もう朝から晩までじっくりご指導をして頂き、もちろん鈴木先生作曲・編曲以外の曲も含めて屈託なくアドバイスして下さいました。
 これは笑い話になりますけれど、先生にご入浴して頂くに当たって、学生が入った後の残り湯では失礼なので、先生のご入浴時間は15時と決めていたのですよ。15時になると「お風呂が沸いてますから…」ということでご案内するのですが、先生がお一人で入浴して頂くのも失礼かと思いまして、コンサートマスターの瀬村則夫がお風呂をご一緒させて頂いて(笑)。お背中を流したのかどうか知りませんけれど(笑)、そんなこともコンマスの大事な仕事としておりました。

ポピュラーステージを廃止する決断

 私達が4年になるまで、定期演奏会のプログラムは
 第1部:オリジナル曲
 第2部:ポピュラー曲
 第3部:クラシック編曲
という流れでした。つまり、第1部の最後に鈴木先生の曲を入れるというのが当時の考え方でした。そして第3部には、4年生の指揮者が何年も準備期間をかけて用意した編曲を演奏するということなのです。

 ただ、だんだんと鈴木先生との関わりが強くなってきますと、やはり鈴木先生の曲で第3部のステージを締めたいという流れが出てきました。
 また、クラシックの大曲を編曲・演奏することの負担が大きいにも関わらず、管弦楽曲の和声をマンドリンオーケストラで表現することがそもそも難しく、それでお客様は本当に満足して頂けるのか? 「よくやった」という拍手は頂けるかもしれませんが、音楽的にどうなのか? という気持ちはだんだんと強くなってきました。

 そして私達が4年生になってから、第2部のポピュラー曲をプログラムから削る決断をしました。
 ポピュラー曲を削るということは、ただ単に演奏しないということ以外にも意味があったのです。それは、特に秋の演奏会では卒業する4年生を一人ずつ順番にプロフィールを紹介するというイベントがあり、それをポピュラー曲のステージで行っていたのです。OB・OGや部員家族の方はそれで大満足なのですけれど、やはりコンサートとして不特定多数の方をお呼びしている以上、身内向きのイベントからはそろそろ卒業してもよいのではないかという気持ちが立ったのです。
 それ以降は当たり前の形となったのですが、やはり当時の先輩方には「なぜ廃止したのだ、楽しみにしていたのに」という苦言は頂きましたね。

「全マン連」演奏会と、CUMCとの関わり

 それまでも鈴木先生には、その都度指導料をお支払いしながら指導を仰いでいたのですが、私達が4年生になって、「もう、これから鈴木先生の曲を演奏しない演奏会は無いだろう」と思いましたし、正式に技術指導に携わって頂きたいとお願いをした経緯であったと記憶しております。
 それが実は「全日本学生マンドリン連盟(全マン連)」の演奏会とも関わってくるのですが、それにも触れて宜しいでしょうか?

- もちろん、お願いいたします -

 当時、「定期演奏会」と銘打って開催しているのは、まだまだ全大学というわけではなかったのですよ。A大学とB大学が集まって「ジョイントコンサート」を開催するというのが定期イベントである、という大学も多かったのです。そういった当時には、年2回開催される全マン連の演奏会というのが一大行事に位置付けられておりました。

 実はこれには、コンサート以外の意味合いもあったのです。現在では楽譜の入手については楽器店で何でも手に入るようになりましたが、当時は今のインターネット時代とは雲泥の差でした。名古屋や大阪に手紙で注文するようなこともありました。
 そのような環境でしたので、慶應・早稲田・明治といったクラブが楽譜の配給元としての役割を担っていた面もあるのです。特にCUMCから見ると、慶應の所有している蔵譜・蔵書というのは非常に魅力的でした。当時のCUMCでもラヴィトラーノ、マチョッキ程度の楽曲は何とか所蔵していたのですが、「ボッタキアリ? ファルボ? 何だ、それは?」という程度だったのです。CUMCだけでなく、関東の大学にとっても同様だったでしょう。

 これ以外に、ジュネス(青少年日本音楽連合)による青少年音楽祭がNHKホールで毎年開催されておりました。私も2年・3年次に出演しましたが、当時は服部正先生がNHKと強いパイプを持っていたこともあり、ジュネスミュジカルマンドリンオーケストラ、あるいは青い鳥オーケストラと称した合奏団の運営については慶應が主体となって段取りをして頂いておりました。その時に、良い曲を取り上げてくれるのですね。「交響的前奏曲(U.ボッタキアリ)」など、初めてジュネスで取り上げて頂いた時に「こんな良い曲があるんだ…」と思いましたよ。

- 確かに、第20回定期演奏会の第1曲は「交響的前奏曲」でしたね -

 そうなんです。頑張ってバンカラCUMCでも演奏しましたけれど、やはり慶應の交響的前奏曲は何というか、響きが違いましたね。当時の慶應同期には、うまい指揮者とうまいコンマスもいましたからね。

鈴木静一ブロック・クーデター計画!

 ここでようやく、鈴木先生のことに繋がるのです。
 1968年に東京で開催された全マン連コンサート、これは3日間に渡って開催されました。その際のブロック分けが「京都チーム」「大阪チーム」「神戸チーム」「中国チーム」「西日本チーム」となっている中で、関東だけが「明治チーム」「早稲田チーム」「慶應チーム」「日大チーム」と大学名を称したブロックとなっているのです。この時、CUMCは日大チームに参加して「ギリシャ風狂詩曲」「ミレーナ」「アイネクライネナハトムジーク第1楽章」を演奏しました。他ブロックの演奏曲をご覧頂いても、ヴェルキ、メッツァカーポなど…鈴木先生の曲は演奏されていないのです。
 1968年という時代、まさにCUMCが鈴木先生の曲を初めて定期演奏会で演奏した時期ですし、他の大学でも取り上げられるようになった頃ですが、それでもこの時はまだ合同演奏曲には上がることが無かったのです。

 これが終わってから、各大学が鈴木先生の曲を積極的に取り上げるようになり、全マン連でも「鈴木先生の曲を演奏したい」という声が関東でワーッと高まってきたのです。
 ただ、早稲田・慶應・明治・日大というチーム名が付いていると、どうにも鈴木先生の曲を演奏するという雰囲気は作りにくいわけなのです。なぜなら、早稲田には赤城淳先生、慶應には服部先生、明治は古賀政男先生、日大は明治の流れを汲む宮田俊一郎先生と、各指導者・作曲家が健在の状況にあっては、各幹事校としてもどうしても取り上げにくいのです。
 ところが関西ではポツポツと鈴木先生の曲を自校の定演で取り上げるようになり、これは関西のチームに先を越されてしまいそうだぞ、という空気を感じていました。このまま早稲田・慶應・明治チームを看板にしていると、鈴木先生の曲を演奏できる見込みが立たないので…もうクーデターを起こそう! と。

- クーデター!(驚) -

 はい、早稲田・慶應・明治に内緒で。それが、1970年の名古屋開催でのことです。

 この開催前に、演奏曲を決めるために各校の全マン委員が集まって「ワークキャンプ」が例年通り実施されました。そこで、当時すでにメジャー校であった日本女子大や東京女子大、また当時はまだ新興的な立ち位置であった中央大、工学院大、東京農業大などの声を集め、「このままでは早慶明で決まりそうだから、クーデターを起こすしかない!」という流れを作って、とある大学に「鈴木先生の曲を取り上げたい」と発言をしてもらったのです。そうしたら各大学からも「やりたい」という声が上がり、鈴木静一チームを作ろうかという流れにもなりそうでした。ただ、さすがに「早稲田・慶應・明治・日大・鈴木静一」というチームではおかしいでしょう。

全マン連関東支部ワークキャンプ

 そこは早慶明の同期達も大人でしたので、「関東Aチーム、Bチーム、Cチームとしましょう」という解決に至ったのです。結果的には喧嘩することなく、時代の流れを共有することができました。
 早稲田の同期だった稲原祐司君とは「関東高等学校マンドリンクラブの集い」の頃から知っており、彼が大人の対応をして頂ける方でしたので、同じチームでやろうということになりました。「メリアの平原にて」は早稲田の指揮者が、「細川ガラシャ」は中央の藤本匡孝が指揮を振るということで円満解決したのです。無血クーデター(笑)にて、平和解決となりました。

 そのまま「早稲田=クラシック」「慶應=オリジナル」「明治=ポピュラー」ということが延々と続いたら、各地のブロックから見たら「関東ブロックは、いつまで時代遅れなことをしているのだ」と思われてしまうことでしょう。そんな、時代の変わり目を体験していました。これ以降、鈴木先生の曲を取り上げたいという雰囲気が各大学でさらに高まるようになりましたね。

地方大学から関西・関東へ、鈴木作品 伝播の理由

 この名古屋開催の全マン連演奏会に参加した時、学生がとてもホテルなどに泊まれる時代ではありませんでした。大きなお寺の本堂に布団だけを用意して頂きまして、女子と男子を衝立で分けるだけの雑魚寝状態でしたが、演奏会前日にも関わらず、もう延々と宴会をして盛り上がりました(笑)。
 その時に共立女子大のマンドラを演奏していたのが宮田多恵子さんで、その二つ下の妹がプロマンドリニストとなった宮田蝶子さんですね。各大学がそれぞれ指導者を持っていた時代ですから、家内の卒業校である大妻女子大も山口吉雄先生に指導を受けておりましたし。CUMCはまだ指導者を持っていなかった時期でしたので、私が4年生の時に鈴木先生にお願いしたのです。

 同じく鈴木先生に指導を受けていた日本女子大では人数や財政が豊かだったこともあり、よく初演を取り上げておりました。CUMCは残念ながら財政に恵まれておらず委嘱初演が難しかったため、「日本女子大にて新曲を演奏するから、君達も来なさい」と鈴木先生にお声がけをして頂き、目白の豊明講堂によく伺わせて頂きましたね。

 鈴木先生はご存じのように、映画界で長くお仕事をされておりました。ある時期にリタイアされて、ご自分の情熱を残していたマンドリン界に復帰されましたが、先述の通り主要な各大学には既に指導者が定まっていることもあり、なかなか発表の場が無かったのですよ。かなり思い悩んでおられたようですね。
 そのうちに九州大や北海道大にて委嘱されることがあり、日本各地で段々と演奏されるようになりますと、当初は落ち込んでおられた先生のお気持ちが随分前向きになっていかれたことを、私も傍で拝見して感じておりました。ですから先生はCUMCのみを目にかけて頂いていたわけではなく、関東で言えば東京女子大、日本女子大、工学院など、重鎮的な指導者を当時持たなかった大学にも熱心にご指導くださいました。
 関東以上に、九州・大阪・名古屋などが熱心であったということで、先生はよく出張に行かれておりましたね。

- 確かに作品の初演演奏についても、北海道大、九州大、愛知学院大など各地でされておりましたね -

 そうですね。そして指導に行かれた先々で新たな曲想を得て、それを主題とした作品を作曲されてますね。ですからあの短い期間に、あれだけの曲をよくお書きになられたなと思いますね。あの当時のエネルギーには改めて驚きます。

鈴木先生 作曲・指導現場の風景

先生のご自宅は閑静でお庭の広い住宅でしたが、作業場となった書斎というのは本当に手狭なお部屋でした。大作曲家の現場というとグランドピアノが置かれた応接間に…という勝手なイメージがありますが、小さな机とアップライトピアノの狭間で書き物をされているというご様子でした。

 先生の編曲作業というのは、オーケストラの楽譜をピアノに落とし込んで、そこからマンドリン用の和声に展開していくという、大変に理にかなったスタイルであったと思います。
 ご自宅にお邪魔をさせて頂きますと、先生が甘いものをお好きだったこともあり、奥様から紅茶とショートケーキをお出し頂けることがありました。せいぜい文明堂のカステラくらいしか知らなかった当時の私達にとっては、大変なご馳走でしたね。

 同期の藤本君や、1年下の竹本二康君(昭和48年/1973年卒)は指揮者として頻繁に出入りをしておりましたので、もっと深く先生の素顔を知っているでしょうね。藤本君や竹本君、その下の吉垣孝君(昭和50年/1975年卒)や飯塚幹夫君(昭和51年/1976年卒)は、先生から本当に可愛がられたと思います。
 それぞれコムラードマンドリンアンサンブルの指揮者としても指導を受けておりましたが、藤本君の頃に比べると、吉垣君や飯塚君への対応は優しさがまったく違うようでしたね。言葉遣い一つを取っても、諭すように伝えておりました。藤本君には結構きつく言っていた気がしましたね(笑)。藤本君が積極的な男で、先生に対してもハッキリと物を申し上げておりましたので、先生の方も良い意味で遠慮が無かったのでしょう。

コムラードマンドリンアンサンブルの創設

 コムラードマンドリンアンサンブルの立ち上げに関しても触れさせて頂きます。私達も高校・大学と十分に活動したのですが、学生時代に果たして100%の演奏ができたのか? という疑問や余力が、少なくとも当時の私にはあったように思うのです。

 大学を卒業して1年くらい、慶應OBの山口寛さんが創設した三菱グループ主催のマンドリンクラブに参加しておりました。15名くらいの団体で月2回程度、三菱商事の地下にて簡単な曲を練習しておりました。山口さんが「弾き足りないようで、暇なら来いよ」ということで、藤本君、北村真一郎君、私などが三菱商事のメンバーに混ぜてもらっていたのです。

 そのうちに、もっと大きな曲を演奏したいという気持ちが起きてきたのですが、しかしながら当時の関東において「出身校・就業先の制限がなく、誰でも参加できるマンドリンオーケストラ」というものがほとんど無かったのですよ。

- そうなのですか! -

 そうなんです。都庁や企業が主催する団体、あとは先生が指導するサークルでした。それで悩んでおりましたら鈴木先生との雑談の中で「それなら君達が創ってみたらどうだ」というお言葉を頂きまして、それが卒業2目に創設した「コムラードマンドリンアンサンブル」なのです。

 それでも、メンバーは集まるだろうか、練習場は用意できるだろうか… など悩んでおりましたが、その後も鈴木先生からアドバイスやご指示を頂いていたように記憶しております。
 ですから出身大学に関係なく、中には高校でマンドリンを経験されていたという方も参加されておりました。また人数確保のため、CUMCの現役生にも参加をお願いしましたね。

 無事に創設したのは良いのですが、社会人2~4年目というのは仕事も大変な時期ですよね。残業・休日出勤で練習に行きたくても行けない日々なわけです。なんとか「飯塚君が卒業するまでは持ちこたえよう! 彼が入ってくれば、当分は安泰だ!」というのが、当時の正直な気持ちでした。その飯塚君が、今日に至るまでにずっと引っ張ってくれましたからね。その後に中核になってくれるメンバーが生まれて、今まで続いてきているのですから、すごいことですよ。

- 社会人団体で50年も続いている団体というのは極めて少ないですよね -

 その過程も、山谷がありましたけれどね。転勤で主要なパートトップが不在となった時期や、飯塚君自身も大変な時期があったようです。小野智明君(昭和56年/1981年卒)と高草木典葦君(昭和61年/1986年卒)が復帰してくれて、だいぶ落ち着きましたね。創立メンバーであった私や藤本・瀬村、江澤克文先輩(昭和44年/1969年卒)も第6回までに退団してしまったというのに、こんなにもコムラードが長く続くとは、まさか鈴木先生も思っていらっしゃらなかったと思いますよ。

激動の時代を経て、音楽に今思うこと

 私自身がその渦中にいたから感じるのかもしれませんが、まさに激動の時代を生きていましたね。

- 本当に大変な時代の中にあって、先輩方ご自身も様々な改革改変をなされてきたということだと思います -

 それがCUMCにとって良かったのかどうか… コンサートの形態を変更した時には、恨まれたところもありましたね。

- 何かを変えるというのは、それを快く思わない方も必ずいらっしゃいますからね。それも含めて、一つの歴史であると思います -

 私も若い頃は「良い演奏をすればお客様は集まる」と思っておりました。最近思うのは、お客様というのは団体によっても層が変わりますし、必ずしも「マンドリン命!」というお客様ばかりではないんですね。楽しんでくれる方がいる限り、音楽に価値が生まれる、と。上手い・下手だけでは語れないことがあるな、と思うことがあります。

鈴木先生 埋葬の地を探して

 今から21年前、コムラード第30回記念演奏会の際に私や駒崎君をはじめ、同期が集まって出演したのです。その時に「鈴木先生のお墓参りをしよう」ということになりまして、埋葬されているはずのお寺を訪問したところ、驚きました。鈴木家のお墓はあるのですが、鈴木先生の御遺骨は埋葬されていないとお寺の方が仰るのです。その時はどこに改葬されていたかもわからず、当日のお墓参りは諦めることとなりました。それからずっと、先生のお墓を探すこともできないままでした。

 今年の鈴木静一展を開催する前に、私も時間が作れるようになりましたので、先生のお墓を再び探そうという気持ちが起きました。先生と親交の深かった清水奈津子さん(昭和50年/1975年卒)に伺ってもご存じないということでしたが、先生のご遺族の連絡先であれば何とかわかるということでしたので、ダメもとで連絡を差し上げましたところ、なんと先生の姪に当たる江連恵美子さんと連絡を取らせて頂くことができました。

 突然のご連絡を差し上げたお詫びと、先生の作品を取り上げて2年に一度開催しているコンサートへのご招待を申し出ましたところ、大変にお喜びを頂きました。その後、せっかくのコンサートですので「叔母(鈴木英子)とは同じようにできませんが…1」と仰いながらも、お花をご用意頂けるということで。私達としては恐縮なことでお断りをしたのですが、江連さんもたってのご希望ということで、それ以上お断りをするのは失礼かと思いましてお願いさせて頂くこととなりました。

 当日は大変立派なお花を2基もお送り頂きまして、ロビーに飾らせて頂きました。会場セキュリティの都合により、本番は舞台から客席に降りることができませんでしたので、残念ながら当日は直接お礼を申し上げることができなかったのです。そこで楽団長の小穴雄一さんから御礼状を差し上げましたところ、すぐに丁寧なご返信を頂戴しました。

 江連さんは、鈴木英子さんの妹のお子様に当たるということで、鈴木先生と直接の血縁は無いのですが、私達が唯一存じ上げるご遺族ということですので、私は今後もそういったお付き合いは続けていこうと考えております。

 そして演奏会の開催前に江連さんからお聞きして、ようやく墓地に参りました。広い墓地で探すのが大変でしたが、キリスト教式のお墓でしたね。
 江連家のお墓となっておりましたが、1番目に鈴木静一先生、奥様が「鈴木英」として4番目に記されておりました。ちょうど桜の開花する前でしたかね、小高い斜面から望む、良い墓地でした。何人かには墓地の住所を教えて欲しいと聞かれまして、「あんまり大勢で騒がないように」と釘を刺しておきましたが、ひっそりと手を合わせてゆかれたようです。

時代の大きな渦中に巡り合えて

 お亡くなりになって43年も経つというのに、先生のお名前を冠した演奏会を各地で開催して頂けるというのは、先生も幸せでしょうね。嫌いな方は、「映画のBGMみたいですね」とおっしゃる向きもありますが、そういったものに反論しても仕方がないですしね。

- それも含めて、ひとつの魅力・特徴と言ってよいと思います -

 そうですよね。そして私が好きなのは、マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギターと、その楽器の一番良い音の鳴る音域を把握されているんですよね。各曲に必ず「ここ!」という場面が出てくるじゃないですか。あれがやっぱり上手いですよね。

- そうですね。演奏者として気持ち良いポイントをわかってらっしゃいます -

 ここで鳴らしたい! という時に、本当に鳴ってくれる音を書いて頂いているんですよね。失礼ながら、「この作曲家は、マンドリンのことをわかっているのか?」と感じる楽曲に出会うこともありますが、そういたものとは一線を画していますね。

 これは私の完全な独断と偏見ですが。
 先輩方から脈々と伝えて頂いたものを、僭越ながら私達から飯塚君の頃まで(1971~1975年)にギアを一速入れ直したかなという風に思っております。その後に中村亨君(昭和55年/1980年卒)、田中零君(昭和56年/1981年卒)が現れて、ここでまた一段上がったと思っております。

 私の巡り合いを総括いたしますと、CUMCと鈴木先生の接点が生まれたという大変恵まれた時期に、ちょうど1年生で入学することができたと思います。そして、先生との繋がりが1年ごとに強くなる現場に居ることができました。また、日本中が鈴木先生の曲を演奏したいという大きな波が生まれ、それが全マン連に変化をもたらしたという渦中に居た、ということですね。

(左:鈴木先生 直筆の楽譜校正メモ、右:没後15年記念演奏会 写真)

(2023年10月22日 取材)

  1. 鈴木英子さんより、没後15年記念演奏会にて「ボールペン」を、生誕100年記念演奏会にて「盾」を、それぞれ出演者全員に寄贈頂いております。 ↩︎

松村智久(まつむら ともひさ) 平成5(1993)年卒

東京芸術劇場でマンドリンオーケストラを!

- 松村先輩が4年生の第63回定期演奏会は、あの東京芸術劇場大ホールで開催されましたね。その経緯をお聞かせいただけますでしょうか -

 当時、私の代も含めて部員の人数が非常に多かったです。予算も準備できそうということでしたので、それなら立派な会場で開催しよう!ということで挙がったのが東京芸術劇場でした。

- 東京芸術劇場のような本格的なコンサートホールですと、開催にあたって通常とは異なることが多いのではないでしょうか。 -

 そうですね。まず審査があり、ホールによる審査を通過しないと使用を認めてもらえないのです。
 そこで、過去の演奏会のパンフレット、演奏音源、ビデオなどを用意して、しっかりした演奏活動を行なっている団体であることを認めてもらうようにしました。
 他方で、関係者へ直接説明や陳情を行ったとも聞いております。 そのお陰で、無事にホールの使用を認めていただくことができました。東京芸術劇場大ホールでのマンドリンオーケストラ単独公演は、私達が初めてであったと思います。

 その他、集客や公演方法についても要求がありました。
 入場料が無料であったり格安であることも認められないということでしたので、これまで無料〜500円であった入場料を「当日1000円/前売800円」としました。
 学生マンドリンオーケストラの演奏会で入場料1000円というのは、当時の私達としてもプレッシャーがかかりましたね。
 なおかつ、客席を十分に埋めないといけないということで、広報活動も例年以上の努力が必要となりました。こちらが当時の広報チラシで、初めて「写真入り」のデザインにしました。現在ではまったく珍しくないと思いますが、当時としてはかなり珍しく、実は費用も通常以上にかかっているのです。

 そのような努力もありまして、演奏会には1403人の動員をすることができました。記念演奏会でもない通常の定期演奏会でこれだけ集客できたことは、私達としても誇らしく感じております。

- この演奏会では委嘱初演作品を演奏されていたと思うのですが -

 この曲については、残念ながら再演することが難しい事情があります。私からこのような場で詳しくお話することは難しいのですが…
 この演奏会に限らず、春の第62回定期演奏会ではバロック音楽を特集して「ブランデンブルク協奏曲第3番」を演奏するなど、CUMCとして新しい様々な試みをさせていただきましたね。

今や私も、あの頃の先輩方より…

 今回、第125回記念定期演奏会の合同ステージに参加させていただきましたが、驚きましたね。当時、大先輩と思っていた先輩方、例えば高橋信男先輩(1972年卒)とは21年差なのですが、私と現役学生とはもう30年以上の差なのですよ。
 そう考えると、私が思っている以上に彼ら学生は私に気を遣っているのでしょうね。私もそこは気を遣って大人しく(笑)参加させていただきますが、それだけ長くCUMCの活動が続いてきたということを改めて感じる場となりました。

(2023年11月19日 取材)

鳥居 良次(とりい りょうじ) 平成14(2002)年卒

押しに負けて、人生が決まった!?

- 鳥居さんがマンドリンと出会ったきっかけからお聞かせください -

 中央大学附属高等学校に入学しまして、マンドリン倶楽部(当時の音楽部)に入部したのが具体的なマンドリンとの出会いでした。
 これは入部した後に気付いたのですが、たまたま自宅に中大附属の第25回定期演奏会C Dがあったようでした。私の兄も中大附属出身でしたので、付き合いで定期演奏会に行ったときに購入してきたのだと思います。ただ、入部前に私がそのC Dを聴いていたことはなかったと思います。ですので、具体的にマンドリンという楽器や音を認識したのは高校1年の5月くらいのことであったと思います。

- 入部のきっかけはあったのでしょうか? -

 実際のところは、先輩に勧誘されて連れてこられたという感じですね。
 どちらかというと本当は、ホルンを吹きたかったのですよ。タイミングが違っていたら、きっと吹奏楽部に入部していたのではないかと思うのですが。

 音楽を聴くこと自体は嫌いではありませんでしたが、中学までは専門的に楽器に触れることはなく、音楽の授業程度でした。中学校では卓球部に所属しておりましたが、あまりやる気のない部員でした。

 高校の運動部は自分の体力レベルではキツいだろうし、音楽系の部活もアリかな、ホルンの響きというのがどうも肌に合っていたらしく、なんとなくやってみたいな…と考えているうちに、教室で昼食をとっていた時に当時2年生の先輩がやってきて「君、暇そうだったらちょっと来ない?」という勢いに負けて、フラフラとついていったという感じでした。
 図書館の地下1階にピロティと呼ばれる広いスペースがありまして、そこで昼練習をしているところに連れて行かれました。そこで初めて「ああ、弦楽器なのか」と間近でマンドリンを目にしたのでした。最初の印象としては「軽くて小さいな」「弦楽器だから、肺活量がなくても大丈夫だな」という、極めて現実的なことでした。

- ホルンを選んでいたら、肺活量のことは大変でしたよね -

 そう! しかも実は、管楽器でも音を出すのが一番難しいんでしょう? 後々、ウインドオーケストラのマンドリンエキストラとして舞台に乗ったことがあるのですが、ホルンの方が一番叩かれていましたね(笑)。こちらはテレビやラジオから流れてくるプロの音でしか知らなかったわけだから、「ああ、ホルンというのはこんなものなのだな」と思っていたのですが、「アマチュアのホルン奏者というのはこんなに大変なんだ!」ということを認識しました。

- 失礼ながら、今では鳥居さんがホルンを吹いているイメージがとても持てないです(笑) -

 そうでしょう? あの時の自分の選択は、神懸っていた(笑)と思いますよ。
 今言うと失礼なことですけれど、必ずしもメジャーなものではないマンドリンという楽器をやってみるのも、他人と違ったことをするという意味でアリかな、とその時は思いまして。
 そして、マンドリン系楽器にもマンドラやマンドロンチェロなどいくつかパートがあるということでしたが、「重くて大きくて、運び辛そうだな」という大変に不純な理由でマンドリンを選びました。

- それでは、マンドリンを選んだことに特にこだわりがあったということでは無かったのですね -

 はい、全くナシでした。まあ、そういう人の方が多いのではないでしょうか。こだわりがあって選んだ方には失礼ですが、少なくとも私にとっては音楽をするための楽器の中で、たまたま出会ったのがマンドリンであったという感じでした。

- 大学でもマンドリンを続けようと思った理由などはありましたか? -

 無い、というのが正直なところでしょうか。自然と、続けるんだろうな、というような。附属高校から始めて大学で続けた方のうち、多くがそうだったのではないかと思うのです。
 もちろん、マンドリン以外のものに興味を持つとか、「こんな先輩達や音楽とは関わりたくない!」と思うことがあっても良いわけですが。私はそこまで嫌いになることはなく、むしろ好きだったわけですね。高校3年間で、他人より好きになる程度には打ち込みましたし、自分で言うのもなんですが他人より楽しんで弾ける程度の技術は身に着けることができたかな、とは思ってはいました。

- それでは、高校生活の3年間が鳥居さんにとっては大きかったですか -

 大きかったというより、原点ですかね。そこで、人生が半分くらい決まったようなものでした(笑)。

歴史的な人数縮小期に

- ちなみに当時の中大附属は男子校でしたね -

 はい、男子のみ1学年500人の頃でした。

- そうすると大学は共学ですので当然女子学生もいるわけですが、当時の人数比はどうだったのでしょうか -

 学年にもよるので難しいのですが… 全体としては男子が多かったです。何故かというと、中大附属から内部進学してくる比率も多かったので、マンドリン倶楽部に入部する経験者というと、まず中大附属の男子学生、となりますね。

- 他の高校でマンドリンを経験して入部された方や、大学で始められた方はいらっしゃいましたか? -

 はい、いました。先輩方には前橋女子、川越東、浦和第一女子などいらっしゃいましたし、大学で始められた方もいました。ただもちろん、中大附属からという比率も多かったです。

 私の代はそもそも、人数が最終的に少なかったのです。卒業した時は5人でしたが、一番減った時は3人にまでなりました。珍しいパターンだと思うのですが3年生の時に、短大から中央大学に編入学した方で新たに3人入部して頂いたのです。

- そういうことがあったのですか? 最近では聞いたことがないですね! -

 そうでしょう? 短大自体が、既に少ないですからね。それも内2人は未経験からで、その2人とも卒業まで2年間続けて頂きました。それでももちろん学年ではとても全パートを揃えることができませんでしたし、少なかったですね。

- それは厳しいですね。先輩後輩の人数も少なかったのですか? -

 そんなことはないです… と言いたいところなのですが、2年上の代は最終的に1人でした。私達の代も少なかったことがあり、当時はCUMCの歴史的にも人数が最も縮小していた頃だったのではないかと思います。

- 鳥居さんが高校生の頃にご覧になったCUMCは、もっと人数が多かったということですかね -

 そうですね。ですから、私も大学で入部したらこれくらいの人数で大規模にやるんだろうな、と勝手にイメージは膨らましていましたね。

- 実際に入部してみたら人数の少ない状況だったと… こんなことを申してはなんですが、廃部の危機などは感じていらっしゃいましたか? -

 はい。実際に皆、意識はしておりましたし、そういう話もしておりました。

- そうでしたか… そう考えると、現在CUMCが継続しているということは鳥居さんにとっては… -

 おかしな話ですけれど、現在の現役の方々に対して、逆に私自身は極端には危機感を感じてないというか(苦笑)。これだけ人数の少なかった代でも続いたので、皆さんもこれから頑張れば大丈夫ですよ! と言うと、とても無責任な発言だと思うのですけれどね。

- そうですね。人数規模だけで言えば、現在以上に厳しい時期だと言えますね -

 この話、長くなってもよろしいんですかね… 私が大学2年・春のパンフレットをお持ちしておりますが、ご覧になりますか? ステージメンバー、だいぶキュッとコンパクトになっているでしょう?

- ああ、キュッとしてますし… 首席奏者のほとんどが下級生で、2プルト・3プルトが組めないパートばかりですね -

 ちなみにこのパンフレットも部員数が少ないことから出費を節約するために、紙だけを購入して自前のプリンターで印刷しているのです。

第76回定期演奏会パンフレット

- 曲目を拝見しますと、それでも第2部はそれなりに人数が必要そうなプログラムですね -

 そうですね、よくやりましたよね。「組曲「樺太の旅より」」は、それでも鈴木静一作品の中でもエキストラの必要人数が少なく、なおかつ難易度が極端に高いものを避けて、という方針で選ばれたはずです。吉水秀徳の「2つの動機」も、どうにかできるかな、と。

- それでもエキストラを加えて、楽譜通り演奏したのですね。この人数で、現在のCUMCが選曲したら… -

 怒られますよね(笑)。ただ、演奏自体の評判は意外に高かったですね。当時、部員全体の必死感もあったのかと思います。
 演奏会会場は府中の森芸術劇場ウィーンホールです。併設するどりーむホールではなくウィーンホールですので、武蔵野市民文化会館の小ホールと同じくらいのサイズ感です。
 これも以前の人数規模でしたらウィーンホールなどは使用しなかったでしょうし、私が入部する前後くらいから人数が少なくなった影響で、むしろウィーンホールでも丁度良いという判断になったのでしょう。ウィーンホールの豊かな残響を味方にできたのも、結果的には大きかったと思います。

60周年記念、当時のOBとの距離感

- 第77回定期演奏会(創部60周年記念演奏会)を鳥居さんは2年生の時に経験されているのですね -

 こちらも当時のプログラムをお持ちしておりますが、第2部をOB・OG合同記念ステージという形としております。前半の第1部は、学生+一部OB・OGによるステージです。
 ご覧の通り、本当にたくさんのOB・OGにご出演を頂きました。合同ステージはパートにもよりますが、6割~8割がOB・OGですね。

第77回定期演奏会(創部60周年記念演奏会) OB・OG合同ステージ

- これは、当時の部員数が少なかったから、という意図もあったのでしょうか? -

 この当時、自分の口から言うのもなんですが、OB・OGとの距離感が短かく、比較的仲が良かったように思います。
 私の話をしますと、1年生の秋頃にOBの方から「平山城址公園でサッカーをするから来ないか?」という感じで声をかけられまして。いざ行ってみたら、学生は自分一人で他は全員OBなんですが。「なんだ、この集まりは?」と思いながらも、そのままサッカーしたり、食事を奢ってもらったりしました。年代の近いOBで、顔や名前は存じている方ばかりでしたからね。
 何故存じ上げているかということについて一応説明が必要かもしれませんが、当時の中大附属ではOBにコーチとして指導をして頂く体制でした。その年の大学3年生の指揮者的な立場の方が中心になり、もちろんその他のパートや学年の方にも手伝って頂いて、中大附属に教えに来るというスタイルでした。
 ですから高校当時の私も、大学ではこういう方が活動されているのだなということは認識しておりました。また大学になると、OB・OGの方がよく合宿に遊びに来てくれるじゃないですか、コーチという立場ではなく。そこで一層交流を深め、間近で演奏を聴くことで、「こんなすごい方・こんな面白い方だったのか!」と距離感を縮めさせて頂く機会になりましたね。

- OB・OGの方からしても、現役生が非常に少ない中で、少しでも何かしたいという気持ちがあったのではないでしょうか -

 恐らく、そういう想いはお持ちだったと思いますよ。責任感といったものもあったかもしれませんしね。
 それは私の立場でも切実に感じますので、今も仕事として行っております「新入生勧誘セミナー」などには力が入ります。当時も、下の学年を教え育てるということについて、個人的には頑張ったつもりではおります。後輩達もお陰様でそれなりの人数が続けてくれましたが、3年下の学年についてはあまり力になれなかったという心残りはあります。

80回記念、コーチ体制の変更

- 4年生の時にも、再び記念演奏会を開催しておりますね -

 開催しないといけないという決まりはないんですけれどね(笑)。ただ、そういう雰囲気もありますし… 自分達が4年生の時に第80回を迎えるということは、当然意識しましたね。

- この時も創部60周年記念と同様に、第1部を現役ステージ・第2部を合同ステージという形式だったのでしょうか -

 この回は、少々特殊な形をとっておりますね。
 1曲目・オープニングの「大学祝典曲「栄光への道」」は合同演奏なのです。そして学生+一部のOB・OGにて、2曲目・吉水秀徳「プレリュード3」、3曲目・藤掛廣幸「星空のコンチェルト」です。そして「星空のコンチェルト」については当時のコンダクタートレーナーである柄本卓也先輩(平成8年(1996年)卒)に指揮をして頂きました。
 第2部については鈴木静一「楽詩「雪の造型」」、「交響譚詩「火の山」」2曲とも合同演奏の形をとっております。指揮は、常任指揮者であった前野一隆先輩(平成2年(1990年)卒)、コンサートマスターは音楽技術顧問のプロマンドリニスト・青山忠先輩(昭和57年(1982)年卒)です。

第80回記念定期演奏会~鈴木静一先生生誕百年記念~ OB・OG合同ステージ

- トレーナー、常任指揮者、音楽技術顧問… 失礼ながら、私には聞き慣れない役職ですね -

 そうですね、ここも説明が必要ですね。ちょうどこの前年の秋から、コーチ体制が変わったということがありました。それまでは総合コーチに桐朋学園大学講師の合田香先生、技術コーチに青山先生、アシスタントコーチに前野先輩という体制で10年近く続けて頂いていたのです。
 大きく変わった点としては、合田先生が音楽監督という役職になり、先ほど申し上げた音楽技術顧問・青山先生、常任指揮者・前野先輩、ここに新たにコンダクタートレーナー・柄本先輩と、テクニカルトレーナー・酒折文武先輩(平成10年(1998年)卒)が加わって頂きました。

 これまでは、学生が決定したプログラムやイベントについて音楽的にコーチングするという形でした。音楽監督に就任頂くことで、選曲等も含めた音楽的な面での運営全般に関して直接的に指導して頂くという形になりました。具体的には選曲のバランスであるとか、この人数・このホールでどういったプログラムに並べるべきであるか、各楽曲について首席奏者に誰が就くか、といったことを音楽的な見地から指示をして頂くということです。
 合田先生をはじめとするコーチの方々に、CUMCの倶楽部活動へより深く手を入れて頂くことで、活動内容を音楽的に高めていく、ということです。これは管弦楽や吹奏楽の世界では、むしろ一般的なスタイルかと思います。そういった方針にしたのが、2000年の秋シーズンからなのです。

- 鳥居さんの代は人数が少なかったこともあり、指揮者を立てなかったのですよね。例えば常任指揮者というものを設けたのは、そういう経緯もあってということでしょうか -

 恐らく、そういったことも総合的に考えていらっしゃったのでしょうね。

- 以降の定期演奏会は、常任指揮者が必ず指揮をしたということでしょうか -

 以降は各学年に指揮者がいたこともあり、実態は必ずしもそうではなかったです。常任指揮者が指揮をするという選択肢もある、ということでしょうか。クラシックのコンサートとしてお客様に演奏をお聴き頂く上で、どういった人選が適切かということも都度判断するということですかね。
 例えば私達の代で言えば、指揮者を立てられない・指揮者を立てない方が望ましい、という状況であってもお客様に満足して演奏会をお聴き頂くためには、学生以外から指揮者を立てるという提案も必要だよね、という判断があったわけです。

- すると、この体制になってからは演奏会の取り組み方に大きな変化があったということでしょうか -

 大きな変化があったかというと、なかなか一言で説明するのが難しいのですが…
 一つには、私達の代の人数的な意味での不甲斐なさもあったのだと思います。そうなりますと、下の学年から抜擢しないと厳しいのではないか、そうは言っても学年の上下といった人間関係に配慮するべきではないか、というようなことを学生同士の中で判断・決定することに難しさはありますよね。
 そういった点について、我々の気持ちを汲んで頂いたところもあったのではないかと思います。外部の専門的な知識を持つ第三者から提案を示して頂くことが、当時の状況としてはCUMCとコーチの双方にとって理にかなった形だったと理解しております。

- このような指導体制の変遷は、現在CUMCに所属する学生にとっても参考になるかもしれないですね -

 現在の指導体制が最初から当たり前のものではなく、実はこういった変化を経て今の体制になっているということについては、もしかしたら参考になるかもしれませんね。

二度の”記念”を経験して

 本当にOB・OGやコーチなど、人に支えられ続けてきたのが私達だと感じております。私達の人数の少なさや技術の拙さについてカバーするために、口の悪い言い方で正直に申し上げるなら「利用をさせて頂いた」という想いもありました。
 ただ、そこにはもちろん尊敬や敬意もありましたし、親切なお気持ちを頂戴したからには無下にすることなく活かすことが最大の恩返しである、と少なくとも当時の私は考えておりました。

 第80回に関しましては、CUMCの音楽性において大事な部分を築いて頂いた鈴木静一先生の生誕百年を2001年に迎えるということで、メモリアルの意味合いを込めた演奏会にするのも良いのではないかと考えました。そういったことで、鈴木静一作品を3曲も並べてしまいました。アンコールの「祝宴」も含めると4曲ですね。

- 実はプログラム全曲が邦人作品というのも、すごいですね! -

 さすがに、やり過ぎですね(笑)。一回くらいやってみても良いのでは? と考えたのですが、今思えばちょっとコッテリし過ぎですかね。
 この選曲に関しても、音楽監督の指導がかなり入るようになりました。この曲で良いのか? この組み合わせで良いのか? といったことを話し合わせて頂きました。
 本当は「音楽物語「朱雀門」」などもやりたかったのですが、ナレーションを入れるとどうしてもナレーションがメインになってしまい、音楽性をトレーニングすることを考えるとこの時期には相応しくないだろうという判断がありました。
 その他にも曲の並べ方であるとか、敢えて学生ステージの指揮者にコンダクタートレーナーを選択するといった、CUMCの過去の演奏会に捉われないトリッキーな仕掛けを演出して頂きました。

- こちらに、2000年当時に鳥居さんがお作りになった第80回の企画案をお見せ頂いておりますが、当時からこういったものをまとめるのがお好きだったのですね -

 当時、暇だったんでしょうね(笑)。まあ、好きは好きだったということでしょう。これだけまとめても腰が重くて、具体的な打ち合わせは前年の12月末からようやく、という辺りがもうダメですよね(笑)。

- 当時、21歳くらいでしょうか? その頃から鳥居さんは鳥居さんだったのだ! と、こちらのレジュメを拝見して感じました -

 うーん… そう言われるとそうだな、と思います。昔から、こんなことばかりをやっていましたね。

- 実際のところ、記念演奏会の開催は大変でしたか? -

 率直に申し上げますと、私自身はあまり大変だとは感じませんでした。後輩の方がむしろ大変に感じていたかもしれません。2年前に60周年の開催経験があったということもありますし、OB・OGと一緒にやるということも特別に違和感はありませんでした。コーチ・OB・OGからも積極的に支えて頂けるという印象があったので、皆さんのお力を借りて楽しませて頂いたことの方が辛さよりも記憶に残っております。

 むしろ、その年の秋の方が厳しかった印象があります。学生主体の限られた人員で開催しなければいけないということもありましたし、当時はいわゆる「氷河期世代」で就職が厳しかった時期でもありました。就職活動で気持ちがすり減ったまま新歓活動についてもあまり力になれず、演奏面でも指揮者を立てられなかったという半端な責任感があって空回りすることが多かったように思います。
 合同ステージの感触を多く知っているが故のやりづらさ、というのも、もしかしたらあったのかもしれません。

- ご卒業されてからの音楽活動はいかがでしょうか -

 卒業してすぐに「クリスタルマンドリンアンサンブル」に所属して、2020年まで出演しております。また卒業の翌年に「ポルタビアンカマンドリーノ」が結成され、発足から2019年まで出演しております。他に「マンドリーノ東京」での出演、また近い世代で集まって高齢者施設や地域イベントでのアンサンブル活動を行っていた時期もあります。

必要な時に、役に立てる場に

- OBとなっても演奏活動を続けておられる一方で、現在はマンドリン専門店に勤務されておりますが、マンドリンをお仕事にされたいという想いがあったのでしょうか -

 転職して現在の勤務先に就職しているので、卒業してすぐにそういう想いがあったわけではないのですが。
 マンドリンというものが、私の情操的なものを大きく育ててくれたと思っております。内なる感情を引き出し表現するといったことは、音楽から学んだことも非常に多いです。そういったことを様々な方に体験・共有して頂く、それを仕事にしていくという生き方も良いのではないか、と。恩返しという言い方は大袈裟かもしれませんが、そういった想いを持って「マンドリン・クラシックギター専門店 株式会社イケガク」に現在も勤務しております。

- 現在のCUMCも、部員の減少や法学部キャンパスの移転等により厳しい状況に直面しております。時代の違いこそあれ、やはりCUMCの厳しい時期を共有している鳥居さんから、現在のCUMCへ投げ掛けたい言葉はございますでしょうか -

 いや、もう、ありのまま活動して頂ければよろしいと思いますが…

 実際、学業と両立しながらどこまで活動にエネルギーを使うかというのは、私達の時代とは違うので、難しいことがあると思うのです。私は今も父親から、「中央大学法学部”音楽学科”を卒業しやがった」と言われますから(笑)。

 皆さんそれぞれ自分達の「こうしたい」「ああしたい」という、あるべき姿があって、その生活の中に音楽がいてくれれば良いな、と思います。それがマンドリンという楽器を使用した合奏であれば、より良いですね、と。
 極端な話をするなら、もしかしたら5年後・10年後のCUMCは、現在のようなマンドリンオーケストラによる合奏で定期演奏会を開催している団体ではないかもしれません。私達の時代も、コンサートの形が変化したように。例えば衣装などが変化しているのも、それは時代の変化ということで理解しております。今の時代時代に応じた形で楽しんでいってもらえば良いかと思います。
 「伝統」というものは物事をスタートする時に基盤になってくれる有難いものですが、必ずしもそれにずっと捉われなくても良いのではないかと思っています。

- 時代に即したCUMCの在り方というものを模索して、私達OB・OGとしてはそれをできる限りサポートしていくということですね -

 そうですね。その中で、何か頼りたいということがあれば何とかするよ、と。目上の人達というのは、頼られることに意外と弱いんですよね。「そうか? しょうがねぇなぁ(笑)」という感じで。

 実は、これだけOB・OGと繋がりのあるマンドリンの学生団体というのも、現在では稀少なんですよね。それは決して悪いものではなく、大きなものだと思うのです。そこは私も含めたOB・OGの方も分をわきまえるべきですが、とは言え、何か力になれる時に力を発揮できるようなところに居たいとは思います。

(2023年8月24日 取材)

石田 友也(いしだ ゆうや) 令和3(2021)年卒

はじまりは、ビートルズ!

- 石田さんの音楽経験をお聞かせいただけますでしょうか -

 私が最初に楽器に出会ったのは、中学生の頃にアコースティックギターが実家にありまして、好きだったアーティスト「ゆず」の弾き語りなどをしておりました。その後高校で軽音楽部に入部してバンド活動を3年間行っておりました。
 もともとマンドリンという楽器は聞いたことがありまして、それこそゆずがライブで使用していたりして、楽器としては認知しておりましたね。ただ、フラットマンドリンの形で認識をしておりました。

 中央大学に入学して、大学ではまた違った音楽に触れてみたいという想いがあり、本当はカントリー音楽のサークルがあれば入ってみたいと思っていたのです。ただ、探してみたのですが見つけることができず、その時に新歓ブースでマンドリン倶楽部を目にしたのです。
 マンドリンの名前は知っていましたし、弦楽器がやりたかったこと、クラシックギターもあるということ、弦楽器のみでオーケストラを組むというのも面白そうだということで、自分から話を聞きたいと新歓のブースに行きました。よくあるのは、勧誘されてブースに連れられて行くというのがあると思うのですけれど、私の場合は逆でしたね。
 実は本当は、コントラバスを志望しておりました。しかしながら他の新入生が先にいたようで空いておらず、ちょっと他の楽器を体験してみようということでマンドラの先輩に連れられて、その後は気付いたらマンドラになっていたという感じでした。ですから当初は、マンドラという楽器やパートにあまり深い思い入れは無かったように記憶しております。

 小学校・中学校まで野球をしていたので、もともと音楽に興味は無く、当時の流行の曲を聴く程度でした。ただ、明確に音楽を好きになったきっかけがありまして。
 2012年にロンドンオリンピックが開催されまして、その開会式でポール・マッカートニーが「Hey Jude」という曲を歌っていたんですね。もともと有名な曲で、CMなどでも耳にしていたことはあったのですが、開会式で聴いた時に改めてとても良い曲だと感じたのです。
 ちょうど父親がビートルズ世代に当たりCDなどもありましたので、それをきっかけにビートルズを聴くようになり、誕生日プレゼントには「THE BEATLES 1」という有名な赤いジャケットのベスト盤を買ってもらったりして、それだけ好きになったビートルズ繋がりでいろいろな楽曲を聴くようになったというのが、私にとっての音楽との出会いですね。私の年代でビートルズから音楽にハマっていったというのも、なかなか珍しいと思いますけれど(笑)、今でもビートルズは好きですね。

- 卒業後の音楽活動についてもお聞かせください -

 様々な団体でお世話になっているのですが、2023年の現時点では「Music Laboratory HAKU」に所属して演奏会に出演しました。今年は出演できないのですが「KSDマンドリンアンサンブル」および「マンドリーノ東京」に出演経験があります。それから私達の世代を中心に各大学の出身者が集って2年くらい前に立ち上がった「アンサンブル レゴラーレ」という指揮者のいないアンサンブル団体に所属しております。
 鈴木静一先生の作品が大好きなので、今年は縁あって「鈴木静一展」にお声がけをいただいて参加させていただき、「鈴木静一メモリアルコンサート2023」にも出演させていただきました。「その団体ならではの良さ」「その団体でしか感じられないもの」というのがそれぞれにありますので、様々な場所で様々なタイプの音楽に触れてさせていただくことは、それは演奏の上で勉強になりますし、私自身もとても楽しいですね。

2020年 新型コロナ禍、その時

- 石田さんが4年生となった2020年は、新型コロナ禍に襲われた年でしたね -

 そうですね、2020年の1月~2月頃に新型コロナが日本に到来したかな、という頃だったと思います。
 今でも覚えておりますが2月頃、例年お呼びいただいておりましたグリナード永山の依頼演奏会が終了して、春の定期演奏会の練習が始まった頃のことでした。練習が終了して、部室にて4年生のミーティングを実施する直前にたまたまスマートフォンを確認したら、大学から「明後日から大学への入構を一切禁止します」というような通知があったのです。「えっ! 明後日!?」と私達一同困惑しまして。それも、いかなる理由も受け付けないという形でしたので。

- その情報はどういう形で得たのでしょうか -

 当時のtwitter(現:X)にて、学友会公式のアカウントをフォローしていたのだと思います。それをたまたま目にして、もちろんミーティングはその内容になりました。

 一番に大変だと思ったのは、部室においてあった楽器のことです。後輩の楽器も置かれておりましたし、無期限入構禁止ということでしたので、明日までに取りに来なければ、次にいつ取りに来られるかわからない。楽器を家に持ち帰りたい人は連絡をください、と連絡を急遽取り合いました。私は当時一人暮らしで大学近くに住んでおりましたので、後輩達の楽器を自宅に預かったりして、なんとか必要な楽器を持ち出すことができました。
 今となっては大学側としても仕方のなかったことだとは思うのですが、あの時は本当に大学への怒りや悲しみを感じました。もう少し、どうにかならなかったのかな、という気持ちでした。

- 運よくツイートを確認できたから、対処できたということですよね。これがもし、確認したのが2日後であったら… -

 そうです、本当にどうなっていたことか。当時、その通知を知らない学生もたくさんいたのではないかと思います。音楽研究会の他部会の方達も、本当に大変だったと思いますよ。

51年ぶりの定期演奏会中止

 その後はずっとステイホームとなり、部活動のこともあまり考えられないまま4年生の春を迎えたのですが、状況はほとんど変わっておりませんでした。

 とりあえず春の定期演奏会を6月に予定しておりましたので、それをどうするかという話になりました。話し合いは全てオンライン、LINE通話または時々zoomという環境でした。まだ2ヶ月位先のことなので、もしかしたら新型コロナ禍が終息して練習再開できるかもしれないという期待、また活動禁止前に合奏練習も少し実施できていたということもあり、演奏会開催に向けて準備は続けていたのですが。
 ただ、日を追っても状況は変わらず悪くなるばかりで、これは春の定期演奏会開催は厳しいのではないかという流れになりました。規模の変更、曲数の変更なども考えたのですが、ただどうしても合奏練習ができないということで。
 さらにネックになったのは、私達が開催したいと考えても、ホール側が開催NGという判断になってしまったらどうしようもないんですね。武蔵野市民文化会館の小ホールを予約しており、とても響きが良いホールで演奏できることを楽しみにしていたのですが。 その当時のホール側の判断がどうであったかは覚えていないのですが、最終的には春の定期演奏会は中止ということに決断せざるを得ない状況となりました。

 その後も、例えば8月頃に延期して、規模・会場も変更しながら無観客でも開催するというような、様々な案を考えました。演奏会という形でなくとも、ミニコンサートのような何かしらの形でも秋の定期演奏会前に本番を踏みたいという想いがあったのですが、それも叶わずでした。コーチなども交えながら毎日のように話し合い、試行錯誤を続けておりましたが、本当に辛い日々でしたね。
 同期も皆、辛かったと思います。直接会って話すのと、オンラインで話すというのは全く違うんですよね、表情や息遣いが読み取れないというのは。まさに音楽もそうだと思いますけれど。4年生同士もだんだんと気持ちが沈んでいった印象があり、話し合うこと自体が辛いものになっていましたね。楽器を弾くために倶楽部に入ったのに、私達は何をやっているんだろう… ということをとても感じていました。それは後輩達も、同様に辛かったことと思います。

 演奏会が中止になったという記録を当時調べたのですが、学園紛争で中止となった1969年の第16回にまで遡るのですね。CUMCとしても歴史的な年に私達の代が直面してしまったと感じました。

- 通常は4月から新入生勧誘があると思うのですが、明らかに例年と様子が異なりますね -

 新入生勧誘については、もちろん対面では何もできない状況でした。学友会が主導して、オンラインでのサークル紹介を実施しましたので、CUMCも参加をしました。1団体10分程度でサークルの紹介を行い、それを新入生が視聴するという形式でした。
 正直、4年生は運営のことで新歓まで手が回らない状況で、3年生が主に活動してくれました。私としては、残念ながら全く手につきませんでした。
 新歓というと、新入生と対面して「ちょっと楽器触ってみなよ」というのが基本の第一歩じゃないですか。それができず、画面上で「こんな楽器です」と紹介してもなかなか新入生には伝わらないですし。新入生の側も辛かったと思います。当時はもう、誰もが辛かったはずですね。

- 何もできないという厳しい時期、石田さんは普段何をして過ごされてましたでしょうか -

 私自身はもう、アルバイトですね。卒論の準備は進めておりましたけれど、他の単位は既に履修し終えていましたので、今がチャンスと思って夜勤でアルバイトをしておりました。お金を貯める機会と思いましたが、使う機会も無いという複雑な状況で、今思えば昼夜逆転の不健全な生活になっていたかもしれません。夜勤ができた頃は、とにかく稼がないとという気持ちしか無かったです。
 自宅では、マンドラの基礎練習に打ち込んでおりました。楽曲の練習をするにも、演奏する本番が決まっていない状況でしたので、それならオデル教則本の基礎練習でもやろうか、という感じでした。
 アルバイト・楽器練習・話し合い…実際にできたことは、その3つではないでしょうか。
 あとは、近くに住んでいる友達と銭湯に行って「黙浴」でリフレッシュしていました。それもコロナ禍中の数少ない楽しみでした。

活動再開、学内の全部会に先駆けて

 夏頃まで同じような状況が続きましたが、ただ、どうしても演奏したいという気持ちは抑えられない状況でした。
 その時に大学外の先輩から、オンライン配信でのアンサンブルコンサートを企画しているというお話を聞きました。ぜひ出演したいとお受けをしまして、同期2人と後輩1人を誘った四重奏で個人的なユニットを組んで学外で何回か練習して、7月にオンライン配信による本番を迎えました。現在でもYouTubeで、その時の演奏が視聴できるようです。それが久々の、誰かと一緒に演奏する本番の舞台でした。それがあったのが、自分の中でだいぶ救いになったと感じますね。そうまでしてでも、誰かとマンドリンを演奏したかったですね、当時は。

2020/7/19 (日)開催「第5回演奏会をしよう!LIVE」 より

 春の定期演奏会が開催できなかったので、秋の定期演奏会は絶対に開催すると4年生全員が決心して8月頃から準備を始めました。まず選曲からですが、春に決めていた選曲は一旦白紙にして考え直しました。ただ何より、活動再開ができなければ仕方がないですよね。
 確か8月末くらいであったと思うのですが、大学からサークル活動再開申請の案内が出たのです。申請に当たっては条件があり、例えば食事を行わない、各自の距離を保つ、マスク着用・換気を行う、活動参加者全員の氏名リストを提出するなど、様々な項目がありました。その条件を満たして文書を提出し、審査が通過すれば活動を認めるという内容でした。
 それにいち早く気付いた同期が尽力してくれて、無事に活動再開が受理されたのが9月下旬頃であったと思います。これは後々聞いた話ですが、活動再開を許可された第1号の部会は2団体のみで、その一つがCUMCであったとのことです。
 活動再開できるとなって皆大喜びで、酒折文武監督からも「最初に再開されて誇りに思っています」という内容のメールを頂きました。

 再開初回の練習はトップ合奏のような形で、学外の北野市民センターを借りての活動でした。2・3回後の練習から後輩達も合流してもらいました。久しぶりで、雰囲気がすっかり変わっている部員もおりましたね。

 選曲の話に戻りますと、CUMCでは毎年鈴木静一先生の作品を必ず演奏してきており、自分達も鈴木静一作品を演奏して引退したいというのは譲れない気持ちでした。ただ、鈴木先生の作品を演奏するには管打楽器のエキストラを招聘すべきところですが、当時は管楽器の飛沫が問題視されていた時期で、管楽器を加えることができないという判断になってしまいました。そもそも練習期間が短く、出演をお願いするのが難しいという事情もありました。
 弦楽器のみの編成であっても何とか鈴木先生の作品を演奏したいという中で検討して、最終的には「組曲「山の印象」」をやろうという形になりました。
 また、春の定期演奏会で演奏する予定だった吉水秀徳作曲の「3 Dimensions」、これは楽譜も春の時点で行き渡っておりますし、春に多少は練習をしておりましたので、これにしようと。本当は鈴木静一作品を最後に演奏して引退したかったのですが、演奏会のバランスとしてこちらの方が良いのではないかというコーチのアドバイスなどもありまして、プログラムの最後としました。
 そういうわけで演奏会は2部構成・前半2曲/後半2曲として、演奏曲も若干減らして弦楽器のみ編成ということに落ち着きました。

制限された状況、2つの革新

 演奏曲目は決まったのですが、本番の日程は12月11日にめぐろパーシモンホールと決まっており、練習期間が2ヶ月半しか無いのです。例年であれば夏合宿も終わっており、ある程度弾けるようになっているはずの時期なのですが。なおかつ、久しぶりに楽器に触れたという後輩もいる状況でした。そこで2点、例年と変えたことがありました。

 1点目は、先ほど申し上げた通り合宿ができないということで、それであれば「強化期間」という、例えば3日間連続で練習する期間を設けて、寝泊りはできませんが毎日練習場を夜間まで予約し、この期間はなるべく部員に参加してもらい集中して練習に取り組もうという期間を設けました。そのような期間を確か2回くらい設けたように記憶しております。

 2点目は、本番を「オンライン配信」としました。これが画期的だったと自負しております。このアイディアも、同期の誰かから出たものだと思います。予算が10万円くらいでしたかね。YouTubeオンライン配信と同時にアーカイブも残るという、本当に前例のない初めての試みでした。大学の音楽サークルでそういったことを実施したというのも本当に早い時期でしたし、これについては多方面の方々からお褒めの言葉を頂きました。
 何よりもオンライン配信としたことによって、会場にもお客様にご入場頂くことができたのですが、ステイホームや様々な事情で会場に来られないという方々からも、ご自宅の大画面TVで視聴頂けたというお話を聞くことができました。中には、海外からご覧頂いたというOBもいらっしゃったようで、オンライン配信のチャット欄がプチ同窓会になっていたみたいですね(笑)。映像のクオリティも高く、カメラの切り替えで演奏者や指揮者の表情もアップで見て取ることができて、本当に良い取り組みになったと思います。
 こういったことを発想できた仲間がいて、それに賛同する同期全員で、何とかして自分達の音楽を少しでも多くの人に届けたいという想いがあったので、本当に良かったです。

 今思えば、2ヶ月半の練習期間で、合宿も無く活動を様々に制限される中で、これだけのクオリティで演奏会を開催できたのは本当に当時の自分達を称えたいと思います。私達は秋の演奏会を開催できましたけれど、他の大学を眺めてみると、ほとんど軒並み中止だったんですね。CUMCの他には本当に数校のみであったと思います。
 絶対に引退のステージは開催したい、という強い想いが実を結んだのではないかと今にして思います。

 私達が試みた強化期間やオンライン配信について、翌年もまだ活動が制限される中で、後輩達も同じように継続してもらうことができたというのは、私達にとっても嬉しかったです。

- 翌年以降に繋がる行動になっていたというのは、間違いなくそう思います -

あの1年を乗り越えた”想い”

- 2020年という一年を過ごして、率直にどうでしたか? -

 いや… もう、何をすればよいのかわからない、あまりに未曽有のこと過ぎて、誰も経験したことのない、誰にもわからないことでしたので…。ただ、そんな中でも何とかして、マンドリン音楽活動を皆で再開したいという強い気持ちがありました。

 正直、心が折れそうになったことは何度もありました。先ほども申し上げました通り、活動はオンラインでの話し合いばかりなので、どんどん気分が沈んでいく日々で…。もう演奏会もいっそのこと、休憩無しで2曲でもできたら十分ではないか、鈴木静一作品も実現は厳しいのではないか、という話が同期から出始めて、それに賛同する声も多くありました。
 それでも自分は、これまで3年間頑張ってきたことをここで妥協したくはないという想いが強く、また鈴木先生の作品は何かしらの形で演奏したいという想いもありました。
 そこで、自分の本音というものを話したところ、それに賛同してもらえる同期も増え始めて、無事に実現することができまして。あの時もし自分が諦めていたら、全く違う形になっていたのではないかと思いますし、あの時本音を語れて良かったなと思います。それくらい、皆が沈んでいた時期はありました。

- 石田さんの想いがあったから、翌年にも繋ぐことができたということですね -

 いやー(笑)、自分だけの想いではないのですけれど、それに賛同してくれたというのが大きくて。当時のその場では、なかなか意見というのも出づらく、本音も語りづらい雰囲気でした。

- わかります。オンライン会議って、何かが変なんですよね -

 そう、何かが変なんですよ。思っているけれど言えないという部分が、皆に共通であって。
 ただもう、大学4年生 最後・引退の演奏会は一回きりだぞ、と。自分自身が1年生から始めて育ってきて、また先輩方達が今まで本当に頑張ってきて、それだけは無駄にしたくないという想いがありましたね。本当にあの時、自分の気持ちに噓をつかなくて良かったなと思います。それを繋いでくれた後輩にも、感謝しかないです。

石田友也、鈴木静一愛を語る!

- 大事にしてくれたその強い想いは、もう少し具体的にお聞きしてしまいますと、鈴木静一作品への想いは、どこでいつから生まれたのでしょうか -

 マンドリンを始めて様々な音楽や、様々な先輩方と出会い、自分達もあのように格好良く引退したいという想いがありました。その中でも自分の気持ちを大きく揺るがしたのが、やはり鈴木静一先生の作品であると思います。

 最初の出会いは、1年生の秋の定期演奏会にて演奏した「大幻想曲「邪馬台(幻の国)」」でした。初めて聴いた時に、「すごい音楽だな…」と。主題が一度収まって、もう一度復帰してくるところ(※69小節目)から始まるチェロとギターの「ミシファシ、ミシファシ…」あれが、とにかくかっこいい! と。それに聴き惚れてしまいました。
 先ほどお話したようにギターの経験はあったので、自分でもちょっとやってみたいと思い、夏合宿で先輩からギターをお借りして左手の押さえ方を教えてもらい、「うおぉ、これだー!」という感じで(笑)。「石田はあの時、合宿でミシファシやってたよね」というのは、当時の先輩や同期には有名な話だったと思いますよ(笑)。
 当時はクラシックも聞いたことがなかったですし、1曲が3分~4分のポップスに馴染んでいた私としては、演奏時間20分だと聞いて「なんだ、それは!?」という感じでした。ところが聴いてみると、これがおもしろい。それが衝撃的な最初の出会いで、それからは完全にとりつかれましたね。

 先輩からも、「大学から始めて、これだけのめり込む人間はなかなかいないぞ」ということで、こういう曲もあるから聴いてみろと、部室に保管してあるコムラードマンドリンアンサンブルのCDを貸してもらい、聴き漁っていました。没後十五年記念演奏会で出版された「鈴木静一 そのマンドリン音楽と生涯」の存在も知るや否や購入して、隅々まで読み漁りましたね。気が付けばどんどん、鈴木静一の創る世界観に魅了されてしまったようです。

 マンドリンと出会って私の人生が大きく変わったと思うのですけれど、鈴木静一という作曲家に出会えたことも今の自分に与えている影響は大きいと思います。もちろんマンドリンに出会わなければ鈴木静一作品を知ることも無かったですし、あの時CUMCの新歓ブースを自ら訪れて本当に良かったなと今では思います。

もしも、ここに…?

- 最後に、ここにもし鈴木静一先生がいらっしゃったら、どんなお話をされたいですか? -

 えーっ!? そんな絶対に有り得ないことを…? でも、一度お話をしてみたかったですよね。実際にお会いしたら、緊張で何を話してよいかわからなくなると思いますけれど…

 でも、まずは感謝の気持ちを伝えますね。本当にいろいろな作品を生み出してくださったこと、そして今でも弾き継いで語り継いでいる人がいますよ、ということを伝えたいです。

 それから個人的にお聞きしたいこととして、戦前・戦後で日本中に大きな価値観の変化があったと思います。それでは戦前の作品はどういう想いで作曲されていたのか、そして戦中・戦後も映画音楽に長く携わっておられたと思いますが、そこの話もお聞きしたいです。特に戦時中のことなどは文献を見てもなかなか出てこないので、例えば戦争映画の音楽にも携わっていたということで、どういった想いで戦争というものを見ていたのかということも気になります。純粋に作曲家の仕事として作っていたという面もあると思うのですけれど、その当時の日本の状況というものをどう捉えておられたのか、と。

 ああ、そうです! 私がなぜここまで鈴木静一作品の虜になったかというと、大学で日本史学を専攻していたのが大きいのです。鈴木静一作品の題材には「歴史物」が多いじゃないですか。曲想にもロマンを感じるものがあり、歴史を感じ取れる作品が多いということで、そこに何かシンパシーを感じたという面が強かったです。歴史と音楽とマンドリンを繋げているのがおもしろいな、と。
 私が日本史学専攻ではなかったら、そこまで鈴木静一作品に魅力を感じていたかというと、微妙だったかもしれません。それだけ、鈴木先生の歴史を題材とした作品に魅力を感じておりました。

(2023年8月24日 取材)

堀澤 芳幸(ほりさわ よしゆき) 昭和39(1964)年卒

中大杉並 音楽部の発足から

- 堀澤先輩の現在の音楽活動について、おうかがいいたします -

 地元・相模原の「マギーアンサンブル」ではベースを、また「ヴェネルディ・マンドリンクラブ」ではギターを担当しております。また、北区赤羽で慰問を専門に活動している「音夢の樹(ねむのき)楽団」に何度かギターで参加しておりましたが、現在は演奏会の受付・楽譜の提供等で応援をしております。
 なお中村恵一君(昭和44年/1969年卒)が発起人となった「アンサンブル・トレモロ」にもギターで参加をしておりましたが、活動場所が遠方になったこともあり参加を控えておりました。今年(2023年)10月の演奏会開催にあたり賛助出演の依頼がありましたが、自信がないですね(笑)。

- それでは堀澤先輩のマンドリン・ギターとの出会いについて、お聞かせいただけますでしょうか -

 高校に入学する前は、ハーモニカやウクレレを遊び半分で演奏しておりました。
 中央大学杉並高等学校に入学して1年次の9月後半でしょうか、音楽部が設立して入部しました。当時は指導者もおらず、部員が勝手にギターなどを演奏していたような状況でした。私個人としては、自宅近くのギター教室(高円寺)で個人レッスンを受けておりました。

- 中大杉並の音楽部は、どなたが立ち上げられたのでしょうか -

 音楽の菊池先生と、1学年上の番場先輩が責任者としてやっておられましたね。

- 具体的にはどういった活動をされていたのでしょうか -

 それが、音楽部といってもギターしかやっていなくて(笑)。指導者も誰もいないので、部員それぞれが好き勝手にギターをいじっていたという感じです。文化祭に出演もしましたが、部員が好きな曲を弾いて、来た方に勝手に聴いてもらうという感じでした。正直なところ、まだ音楽部という体をなしていないような状態でした。まだ、ギターマンドリン合奏という形になる前の話です。

まさかの、中大吹奏楽部に入部?

- 高校卒業して中央大学に入学後、CUMCに入部されたということですね -

 昭和35年に入学して、ギターしか弾けないにも関わらず、実は音楽研究会の吹奏楽部に入ってしまったんですね。しかしながら、部室には一度も行ったことが無かったのです(笑)。
 そうしているうちにクラスメイトが、マンドリン倶楽部に入ったから「お前も来いよ」と言われまして。マンドリンなど知らないまま彼について行って入部しましたが、しばらくしたら彼は辞めてしまいました。そして私の方だけが残って4年間を過ごしました。

- 大学ご卒業後の音楽活動は -

 卒業後すぐは仕事も忙しく、楽器に触れることはありませんでした。その後、同期の松村正と伊林徹夫がヴェネルディ・マンドリンクラブに入っていたので誘われたまま、現状に至っております。
 ヴェネルディ・マンドリンクラブは、私達が20代の頃から活動しているのですが、当時は130人くらいの人数で、有楽町のよみうりホールで演奏会を開催しておりました。昔、労音(全国勤労者音楽協議会)の中にマンドリン教室がありまして、そちらの卒業生が来られていたのです。130人のうち、70%くらいが女性なんですね。それもありまして、クラブ内での結婚というのが何組もありました。
 現在は、江澤克文君(昭和44年/1969年卒)が指揮を担当してくれております。また、井上達男君(昭和42年/1967年卒)や越薫君(昭和48年/1973年卒)、乾正治君(昭和48年/1973年卒)が来てくれて、一緒に活動しております。
 地元のマギーアンサンブルでは、最初はギターを担当していたのですが、ベースを担当していた方が辞められるという際に、たまたま私がマギーアンサンブルの合宿中にベースを遊びで触っていたことに目をつけられまして、ギターからベースにコンバートしました。皆さんに誘われて引っ張られて、そちらに引き寄せられていく感じでしたね(笑)。

- あちらこちらに、引く手あまたですね! -

 いえいえ、そんなことではなくて(笑)。

「中大杉並にマンクラを作ってこい!」

- 話題が前後しますが、中大杉並の音楽部がギターマンドリン合奏活動となった経緯についてお聞かせいただけますでしょうか -

 大学2年の時に、当時の部長である杉野好宏先輩(昭和37年/1962年卒)から「慶應・早稲田等の付属高校にはマンドリンクラブがあるのに、何故中央には無いのか。お前作ってこい。」と言われまして。
 そこで高校の菊池先生にお願いして、高校の文化祭に大学のマンドリン倶楽部が出演して、そこで演奏&ギター合奏によるPRをさせていただきました。
 その後、高校に機械製のマンドリンを何台か導入していただけることになりました。そうすると、誰かが教えなければいけないということになり、私の同期数名を連れて行って指導をしておりました。私も行ける時に訪問して、ギターとマンドリンのみで演奏できるような簡単な楽譜を用意して、少し指揮をしながら教えていましたね。中央大学附属高等学校が小金井市に開校してからも、夏休みなどに時々顔を出して指導しておりました。
 1回限りでしたが、CUMCの合宿を神奈川県栢山の二宮尊徳記念館にて行っていたのですが、そこに彼らを招いて、私達の先輩からも直接指導を受けてもらう機会を設けました。さすがに宿泊してもらうわけにもいきませんので、昼間の間だけでしたが。
 私が卒業して後も、大学から附属高校に指導に行ってもらう形が継続されていたようですね。私も附属高校のOB会長として関わらせていただきましたが、気が付けば部員も数倍になり、コンクールで文部科学大臣賞を受賞するまでになってしまいまして。

- その時に築いた指導の形が、実を結んだということでしょうか -

 いやいや、もう私の手に負えるところではないです(笑)。

演奏旅行中、本番舞台で居眠り!?

- 当時のCUMCの活動について、具体的にお聞かせいただけますでしょうか -

 入部して当初は、大学の文化祭への出演くらいでしょうか。それ以外は、部室でなんとなく練習をしているくらいの感じでしたね。
 ただ、私が1年次の時に第1回演奏会を新宿の山野音楽ホールで開催しました。本格的な音楽活動は、そこからがスタートですね。

 当時は「音楽研究会」という一つの部会でした。“マンドリン” “ハワイアン” “スウィング”など明確に分かれておりませんでした。
 谷啓(※トロンボーン奏者・コメディアン・中央大学音楽研究会OB)をご存じだと思いますが、彼がトロンボーンを吹いている写真があったのです。珍しいなと思って、見たことがあるのですけれど。ですので、その写真はきっとまだ音楽研究会のどこかにあるはずです。
 私がそのような写真を見るような様子でしたので、各部会がまだ明確に分かれていない状態で活動をしていた時期でした。

- 現在は吹奏楽部・管弦楽部・マンドリン倶楽部など明確に分かれて活動しておりますが、その当時はジャンルを渡り歩いて活動していた方もおられたということですかね -

 そうですね、恐らくあちらでもこちらでも、と活動していた部員がいたかもしれないですね。詳しくは把握しておりませんでしたが。

 また、2年次になってから、県人会の誘いを受けて演奏旅行に行きました。一番多かったのは浜松で、定期的に演奏会を開催しておりました。というのは、地元に中央大学のOBが多かったようなのですね。そのお陰で、毎年お呼びいただいておりました。その時はマンドリンだけでなく、ハワイアンなど様々な部会と一緒に行っておりました。
 浜松の三ヶ日で合宿をして、その後に先輩が在住されておられる岡崎で演奏、終演後そのまま夜行列車で名古屋まで行きました。宿泊するための費用も無く、名古屋駅のホームで野宿ではないですが一夜を過ごし、さらに翌日は四国の高松に渡りました。真夏の強行軍ですよ。疲労と睡眠不足で、本番の舞台で居眠りしておりました(笑)。もう目の前にお客様がいらっしゃるのにね。そんな様子のまま、九州までずっとですよ。
 飛行機などとんでもない時代ですので、移動は汽車ですよ。私はベースを運搬する担当になってしまったものですから、自分の荷物は1年生の山崎逸雄君(昭和40年/1965年卒)に持ってもらって、自分はベースだけを持って、ずっと抱えながら立って移動しておりました。汽車ですから、煤で真っ黒になってね(笑)。

- それは大変厳しい旅ですね(笑)。何日くらいの旅程だったのでしょうか -

 1週間くらいだったのではないでしょうか。四国からは熊本に渡って、長崎・佐世保と訪問したでしょうか。1大変なハードワークでしたよ。何せ、季節も夏ですからね。
 他には、沼津にも行きましたかね。沼津は1回だけだったでしょうか。
 そのような活動を、2年次・3年次と行いました。4年の時は北海道だったのですが、ちょうど就職試験と日程が被ってしまいまして、私は行けなかったのです。夏の北海道、本当は行きたかったのですけれど、仕方がないですね。

- 第2回演奏会からは、共立女子大学講堂での開催ということですね -

 第2回は有楽町の読売ホールで開催し、共立講堂は第3回からです2。共立講堂では以前から、音楽研究会のジョイントコンサートを開催していたのです。この頃から活動は、文化祭、ジョイントコンサート、定期演奏会の3つが主体となりました。

先輩は画家!? 写真家!?

 1年先輩に福家順一先輩(昭和38年/1963年卒)という方がいらっしゃいまして、その方には関西大学に入学した双子の兄弟がいらっしゃいました。そのご縁により、関西大学との交歓演奏会が実現するようになりました。福家先輩が4年生の時に、第1回の交歓演奏会が開催されるようになり、我々が大阪にまいりました。その翌年には東京で開催され、以後交代で開催されるようになりました。
 実は福家先輩は、現在プロの画家として活動されているのですよ。以前は太平洋展に出展されていたのですが、現在はパリに拠点を移されており、何度も受賞をされているのです。福家先輩から年賀状をいただいているのですが…

- えっ、これは…写真だと思ったのですが、これが絵ですか…! -

 はい、絵なんです。超写実画という表現を写真に撮ってハガキに印刷しているのです。

 もうお一人、中村守先輩(昭和38年/1963年卒)という方がいらっしゃいまして、プロの写真家なのです。私のFacebookにも載せておりますので、ご覧になっていただければわかると思います。最近は新型コロナの関係でうかがえていないのですが、毎年海老名の画廊に展示しているものですので、何度も鑑賞にうかがっております。

- 私達の先輩に、プロの写真家や画家の方がいらっしゃるとは驚きです。本当に様々な方がいらっしゃるのですね -

はい、皆様にもぜひお話を聞いてみていただければと思います。

TBS杯、審査員のペギー葉山氏も絶賛

- TBS杯対抗バンド合戦のことについてもおうかがいをしたいのですが -

 昭和38年の年末くらい、本当に卒業間際のことでした。実は経緯が詳しくわからないのですが。正直なところ、よくTBSも認めてくれたものだなと思います。
 バンド合戦ですから、いわゆる軽音楽を対象としたラジオ番組のはずなのです。ですから私達のようなオーケストラが出場すること自体が不思議なことですけれど、それを認めていただきまして。しかもオリジナル曲である「古戦場の秋(小池正夫 作曲)」まで弾いてしまったんです(笑)。この時、同期の指揮者である川淵隆弘が、審査員であるペギー葉山から絶賛されておりました。
 結局、優勝したのは中央大学スウィングクリスタルオーケストラでしたが、私達は特別賞を受賞しました。まあ、評価のしようがなかったのではないでしょうか(笑)?

- そう言われてしまいますと、「特別賞」というのも納得できますね(笑) -

 恐らく、出場自体が勘違いからの実現だと思いますよ(笑)。出場について、誰かが口を利いてくれたと思うのですが、今となっては定かではありません。

- 「古戦場の秋」以外には、どのような曲を演奏されたのでしょうか -

 覚えていないのですが、恐らく軽音楽・ポピュラー楽曲を演奏したと思います。

- そうすると、当時の録音なども当然残っていないということですかね -

そうだと思います。誰かがお持ちであれば良いのですが。

定期演奏会、年2回開催への決断

 ところで昭和38年、これは定期演奏会が年2回開催となった年なのです。それまで定期演奏会は年1回開催だったのですが、合宿の終了後に当時の私達3年生だけが喫茶店に集合して、喧々諤々の議論をしたのです。
 「どうする? ほかの大学は年2回開催しているぞ?」「私達だけ、なぜ年2回開催できないのか?」と。後輩の代は人数も少ないこともあり、「私達の代で実施しないとできないぞ! やろう!」ということで、年2回開催とした次第です。
 今日こちらにお持ちしたのが、第5回定期演奏会を収録したという8mmテープです。もう再生する機械も無く、実際に再生できるかもわからないのですが、もし何か機会がありましたらご覧いただきたいのですけれど。

- それではこちら、お預かりさせていただいてもよろしいでしょうか。どうなるかはわからないのですが -

 お願いします。テープ自体、どのような状態かもわからないのですが。

- 改めて、堀澤先輩の代が定期演奏会を年2回開催にされたということでお間違いないのですね。活動スケジュールをガラッと変えるということは、部員の中にも様々なご意見があったと思うのですが -

 やはり春は就職活動などがあり、部員の中にもだいぶ抵抗はありましたが、川淵や、もう故人となった風間俊昭などが強く主張しました。私達の同期は東京在住者が多かったことも大きかったと思います。

- 人数も多かった堀澤先輩の代が、推進力になったということですね -

 そうですね。その後の代になると、なかなか難しいと考えましたから。その甲斐もあってと言いますか、2011年には第100回の記念も開催できましたね。

- そうですね。今年(2023年)は第125回を迎えることにもなりました -

辞めたいんだけど、辞めさせてくれない(笑)

 また当時、OB会というものも存在はしたのですが、ほとんど活動していなかったのです。内山峰三郎先輩(昭和35年/1960年卒)が、事実上のOB会立ち上げをされたようなものです。その後、毎年に渡り幹事会が開催されて現在に至っておりますね。

- 皆様がご年齢を重ねても活動を続けていただいている、ということを知ってもらうというのも大事だと考えます -

 私が現在関わっている団体はほとんど、指揮者不在なのです。演奏しながら指揮をしているような状態で。

- もはや、達人ですね! -

 私達も80歳を超えていますので、もう手が動かないんですよ、本当に(笑)。もう辞めたいんだけれど、辞められないという状態でね。

- これまでお話をお聞きしまして、少なくとも堀澤先輩は辞められないな、と感じております。周囲の皆様が逃がしてくれそうもないですね -

 そうなんですよね(笑)。

- それでも、そういう方達で繋いできていただいている、ということも感じております。 -

 だけれども、誰かがそういうことをしないと、クラブが成り立たないですしね。

- 現在のCUMCに感じていることや、伝えたいことはございますでしょうか -

 それはもう、お任せです(笑)。そこまではおこがましくて、申せません。

- ありがとうございました。当時のお話を詳しくお聞きできる方も一部にはいらっしゃるのですが、その方に「繋ぐ方」の近況・動静がどうなっているのかが、これまでなかなか繋がらなくて苦労しておりました。それを今回、最後まで繋げるのが仕事の一つであると考えております。 -

 大変ですよね。最後にまとめ上げることが。

- 最終的には、現在の学生のモチベーションとなるようなものに、こういうことをやった結果に現在の皆様の活動があるのです、というところまで伝えられるようにするのが仕事と考えています -

 世代交代ができていくと、良いですね。OBから何人か応援に来てもらっているので、そういう形で続いていけるのが良いですね。

(2023年7月14日 取材)

  1. 演奏旅行訪問先について、追跡調査を受けて訂正(2024.1.18) ↩︎
  2. 第2回定期演奏会の開催会場について、追跡調査をうけて訂正(2024.1.18) ↩︎

江澤 克文(えざわ かつふみ) 昭和44(1969)年卒

中大杉並MCの第1期生

- 江澤先輩のマンドリンとの出会い、またそれまでの音楽経験がございましたらお聞かせを頂けますでしょうか -

 昔から音楽を好きで何か楽器をやりたかったのですが、入学した青山中学校には音楽部がありませんでした。そこで音楽の先生に相談しましたら、学校の備品として置いてあったトランペットをいつでも使って良いと言われまして、ずっと吹いておりました。
 教えてくれる先生はおらず、ドレミファソラシドも自分で見つけて、完全に自己流で簡単な曲を吹いていました。たった一人で仲間もおらず、放課後の音楽室や校庭の一角でトランペットとともに3年間過ごしておりました。

 中央大学杉並高等学校に入学した際に、青山中学校の先輩と相談しましたところ、音楽部に誘ってもらいました。当時の音楽部は男声コーラスだけだったのですが、どうやらコーラスでは部員が集まらないらしい。そこで「楽器にしよう」ということで導入したのがマンドリンでした。そういうことですので、私は中大杉並マンドリン倶楽部のまさに第1期生だったと言えるのでしょう。

 私は本音ではギターを弾きたかったのですが、先輩にマンドリンを持たされて「上手いじゃないか」とおだて褒められているうちにマンドリン奏者になったのでした。
 一緒に5~6人で始めたのですが、ギター以外のマンドリンパートは、それぞれ1stや2ndを担当したり、あるいはマンドラを担当したりと随分自由にやっておりましたので、マンドリン系の楽器はどれでも各自それなりに弾けるようになっていましたね。

 実は私は高校時代にも、大学の演奏会に出演しているんですよ。堀澤芳幸先輩(昭和39年/1964年卒)が当時、高校倶楽部の指導にいらしていたので、第2回・第3回定期演奏会にマンドラ奏者として出演させて頂いたのです。
 その後、高校を卒業して中央大学に進学と同時にCUMCに入部したのは、当然の流れでしたね。

- 現在の江澤先輩はどのような音楽活動をされておられますでしょうか -

 現在はヴェネルディ・マンドリンクラブに所属しており、主に指揮をしております。こちらに参加したもの堀澤先輩とのご縁です。

新入生が毎年100人!?

- それでは江澤先輩在学当時のCUMCの活動について、具体的にお聞かせを頂けますでしょうか -

 主な活動は春・秋に開催する定期演奏会に向けて、楽譜の手配、楽曲の練習が中心です。それ以外には依頼演奏などがあれば出向いて演奏する、といったことがありました。また白門祭では教室の机を片付けてスペースにして、選抜メンバーで演奏をしました。
 関西大学との交流も続いておりましたね。2年~4年に1回程度で不定期に、それぞれの学校の都合が合うタイミングで関西または東京で交歓演奏会を開催しておりました。もともと福家順一先輩(昭和38年/1963年卒)の双子の兄である福家恵一氏が関西大学に入学されていた縁ではじまり、その後も毎年というわけにはいきませんが、何年か一度に開催しましょうということで続けられていたと記憶しております。

 部員の人数は、あの頃はすごかったですね。新入生だけで毎年100人くらいは入ってきましたよ。しかし夏合宿の頃にはふるい落とされて20人くらいになっていました。合宿で本格的な練習になってくると、高校の時に音楽経験の無い新入生にとっては「これは、ついていけないな…」と感じたようで。ですから秋の定期演奏会には総勢80人くらいの部員が舞台に上がっていました。

指揮者は、よく卒業できたと思います(笑)

- 当時の定期演奏会はどのようなプログラム構成だったのでしょうか -

 当時はオリジナル曲とポピュラー曲の2ステージ構成でした。ポピュラー曲を入れるのは、そうすることでチケットが売れるのです。あの当時、チケットは一枚200円で販売しておりました。ホールの座席数が2000人弱ですと、部員一人当たり20枚のチケットノルマがあるのです。これは先輩であろうと新入部員であろうと、平等にです。販売しないと自腹を切ることになりますので、なんとか友達を頼って必死で販売しましたね。
 現在ももちろんそうでしょうけれど、ホールを借りてステージを開催すると大きな経費がかかりますから、チケット代でやり繰りする会計担当は随分と苦労をしていましたね。

- 定期演奏会の曲目はどういった流れや基準で選ばれたのでしょうか -

 当時の選曲は、すべて指揮者の独断で決定しておりました。コンマスも含めて全部員は、楽譜が配られるまで、今度の演奏会で何を演奏することになるのかわからなかったのです。

 だいたい2~3年生の頃には学年の雰囲気で、指揮者候補は決まってくるものでした。そうすると彼等はいろいろな大学の演奏会を聴きに行くようにして、これは私に合うなという曲を見つけてくるのです。そうしたら楽譜を用意するのですが、現在のようなマンドリン専門店は有るか無いかという時代でしたので、各大学に問い合わせをして、あるいは作曲家の先生を直接訪ねるなどして、楽譜を手配するのも大変だったと思いますよ。
 もちろんFinaleといった楽譜作成ソフトもありませんでしたから、写しの写しの写しを元にするような状況ですので、記譜の誤りが残ったまま楽譜が渡されるのは日常でした。間違った和音のまま練習をしているので、隣で演奏するパートを聴きながら「これは、間違っているな…」なんていうことはしょっちゅう感じておりました。

 ポピュラー曲については、指揮者自らが編曲をします。ですから、4年生になってから選曲や準備をするのではとても間に合わないのです。管楽器から打楽器まで含めて10パートくらいありますから、それを書き起こすだけでも大変な時間がかかります。指揮者は、それこそ大学の勉強をしている暇は無かったですね。よく卒業できたと思いますよ(笑)。

- 江澤先輩の代の指揮者は小林三郎先輩でしたね -

 ええ、彼も同じように苦労したと思います。

- 小林先輩が編曲された「中央大学校歌」の楽譜ですが、現在でも倶楽部で使用されています -

 現在でも使っているのですか? それ以前は別の方が編曲された楽譜が存在していたのですが、小林三郎君が優れた編曲をしてくれましたので、皆の賛同を得て昭和43年からこの編曲となりました。後輩もこの編曲が私達の倶楽部に合っていると望んでくれて、引き継いで頂きました。

TBS大学対抗バンド合戦、川淵先輩の存在

- 江澤先輩が活動されている中で、印象深いイベントなどはありましたでしょうか -

 指揮者に川淵隆弘先輩(昭和39年/1964年卒)という方がいらっしゃいました。この方は法学部で弁護士を目指していたのですが、非常に頭の良い方で、マンドリン倶楽部では指揮者として演奏をリードされている人物でした。
 1964年の「TBS大学対抗バンド合戦」に川淵先輩がCUMCを指揮して出演し、「特別賞」を受賞したのです。このイメージが非常に強く、川淵先輩がCUMCのレベルと質、それから選曲の傾向をグンと上げた方だと感じる理由です。優れた力量と才能を備える指揮者に出会うと、楽団がガラッと変わる瞬間を、私は目の前で見ましたね。
 それまでのCUMCは、明治大学や慶應大学と同じようなことを真似てチンチロチン(笑)とやっていたのが、この方が現れてから明治大学・慶應大学・早稲田大学とは違う『中央大学マンドリン倶楽部』になりました。それを創ったのが、この川淵先輩です。

- 「TBS大学対抗バンド合戦」とは、失礼ながらどういったイベントだったのでしょうか -

 これは本来、マンドリンが対象ではなかったのです。ジャズ、ハワイアン、タンゴといったポピュラー曲を演奏するバンドを対象としたラジオ番組企画でした。そこに川淵先輩がマンドリンで殴り込みをかけたわけなのです。
 通常はバンドですので椅子が10個程度で足りるのですが、「すみませんが椅子を80個くらい用意してください」と言われて、放送局の方は驚いたことでしょう。ともかく椅子と譜面台を揃えて頂き、演奏したら審査員の方が「素晴らしい演奏、素晴らしい編曲です」ということで特別賞となり、実際にラジオ放送もされました。演奏したのは、確か「引き潮」だったと思います。

 川淵先輩がいきなりCUMCのレベルを上げてしまい、音楽性や表現力を求められるようになってしまったので、その後の指揮者は大変だったことでしょう(笑)。
 CUMCの長い歴史の中には「この方はすごいな、立派だな」という指揮者が何人も現れますが、川淵先輩は私にとってその最初の方でした。先輩の言われた通りであるとか、そうではなくて、それ以上の力を持って楽団を変える指揮者が、何年かに一度CUMCには生まれてきますね。

 私と川淵先輩は5年違いでしたので、私が中央大学に入学した時には先輩は既にご卒業されていました。ご卒業後は法学を志して帰郷され、音楽活動はされていないと思います。
 どうして存じ上げているかといいますと、先ほどお話した通り、私は高校時代から大学のステージに出演していたからです。川淵先輩が指揮を振る前でマンドラを演奏して、「この方はすごいな…普通の指揮者ではないな!」と思っていたわけです。

- 定期演奏会以外の普段の活動について、もう少しおうかがいしてもよろしいでしょうか -

 当時の富坂キャンパスには練習場がありまして、音楽クラブ11団体がありましたが練習環境には恵まれていましたね。
 吹奏楽部などに比べて、室内楽的な楽団でしたから、対外的な活動というのは少なかったですね。ただ、演奏旅行というものは実施しておりました。中央大学卒業生の県人会というものが各地にありまして、何かイベントを開くというときに「音楽会」を開催して、地元の方に中央大学をPRしてくれたのです。
 そういうような経緯で私達を呼んでくれて、長崎や浜松、帯広など各地で演奏する機会を設けてくれました。各地の県人会からお声がかかると、電車に乗って演奏して帰ってくる、遠方ですと1泊してくる、という様子ですね。
 あるいは部員の中に地方出身の方がいると、その人が地元に帰って県人会にマンドリン倶楽部招請の相談をすることがありました。そこで賛同を得られれば、県人会の方々がしっかりと段取りをしてくれました。

鈴木静一先生と初めての接点

- 鈴木静一先生が指導者になられたのは、江澤先輩がご卒業された後のことだと思いますが… -

 これについては、私もひとつ思い出があるのです。
 藤本匡孝君(昭和47年/1972年卒)が、ある日私のもとを訪れまして、「鈴木静一先生のところに行きましょう」と言うのです。何故かと問うと、「これからは鈴木静一先生にCUMCを指導してもらいたいと思っています」と。明治大学には古賀政男先生、慶應大学には服部正先生と指導者がついているのに、中央大学に先生がつかないままではレベル向上に限界があり、世間の見る目も大学クラブの一つとしか見てもらえない、と藤本君は主張したのです。

 その当時の鈴木先生は映画音楽の仕事からも離れ、ご自宅で作曲活動をされている時期でした。そこで二人で先生にお電話を差し上げまして、「先生は学生の頃にマンドリンを演奏されていたと聞いておりますので、その当時からの様々なお話をうかがいたいです」と申し上げましたところ、「いいよ、来いよ」とおっしゃるのです。

 それで喜び勇んで、二人で先生のご自宅を訪問して、それは様々なお話を聞かせて頂きました。そして「CUMCにはプロの指導者という方がいらっしゃらず、ぜひ鈴木先生のご指導を仰ぎたいのです」と切り出しましたら、その場で「いいよ」とおっしゃって頂きまして、なんと富坂の練習場にいらして頂けたのです。部員も皆感激して、直立不動でお待ちしていましたね。
 いざ練習になると、やはりアマチュアですと指揮が気になるのでしょうね、少しだけ指揮を振って頂いたりしましたね。それが鈴木先生とCUMCの初めての接点でした。

 これにはまだ、いろいろな話がありまして。慶應大学も当時の鈴木先生と付き合いがありまして、「中央というところは指導者がいないので、もしその気がありましたら是非助けてあげて下さい」とわざわざ助言してくれた方もいたのです。というのは、CUMCも定期演奏会を重ねてきて徐々に名前が知れ渡るようになってくると、むしろ周囲の方達が心配になって、先生に声をかけてくれたと思うのです。
 お陰でCUMCには、鈴木先生の後もプロの指導者を招聘するという思想が身についた、と考えています。

- 大学同士でお互いに高め合っていこうというマインドは素晴らしいですね! -

 そうですね。学生のみですと、どうしても自己流で終わってしまいますけれど、プロが加わることで、音楽に対する考え方などを教えてくれますからね。

歴史は綿々と繋がれて

- 本日は江澤先輩にても、たくさんの史料をご用意頂けたようですが… -

 山野楽器の楽器資料室にてマンドリンの史料を調べたことがありまして、その際に発見した高橋三男氏の著した史料の写しがこちらにあります。この史料には中央大学という名前は出ないのですが、日本におけるマンドリンの歴史がまとめられており、現在でもとても参考になるのではないかと思います。
 特に注目すべきが、比留間賢八氏がヨーロッパ留学より帰国の際に、様々な楽器を日本に持ち帰ってきて、その中にギターとマンドリンがあったということ、ここが重要なところです。
 なぜ比留間賢八先生のお話かといいますと、比留間先生に娘さんがいらっしゃいまして、それが昭和のマンドリン奏者として広く活躍された比留間絹子女史でした。当時のラジオ等で多く耳にされたマンドリンの演奏は、竹内郁子先生か絹子先生のいずれかと言われていました。私がマンドリンを師事していた杉原里子先生は絹子先生のお弟子さんでしたので、こうして歴史が綿々と繋がっているのだなと感じた次第です。

- 最後に、現在のCUMCへ何かメッセージがありましたら、お聞かせ頂けますでしょうか。 -

 昨年、OB幹事会の場に現役の方がいらして頂けて、現在の活動などをご説明頂きました。2023年から法学部がキャンパス移転のため、それぞれのキャンパスで別れて活動しているとうかがいました。それを聞いて、これから一つの倶楽部として演奏会を開催するのは大変だなと思い、何かお手伝いできることがあれば、と考えているところです。
 マンドリンを好きな方達が集まって、一緒になって演奏会を持てることが理想だと思いますので、キャンパスを分けての練習は大変でしょうが、なんとか工夫して頑張って欲しいと思います。

(2023年7月5日 取材)