右・ゲストインタビュアー 竹垣健一(昭和37年/1962年卒)
大講堂の屋根裏から響く音に誘われて
- 内山先輩がCUMCに入部された時のお話からおうかがいしてよろしいでしょうか -
昭和31年、中央大学経済学部に入学し、同年に中央大学マンドリン倶楽部に入部しました。 漠然と合唱部に入部を希望しておりましたが、講堂で昼休みを過ごしているときに2階隅の屋根裏から楽器の音が聞こえたのです。そのマンドリンの音に心惹かれて、そのままに入部をしました。
楽器経験のない私が初めて見た、当時の先輩方が演奏する様は完璧で、部員数13人とOB三浦寿也先輩(昭和31年/1956年卒)が居られることを追々に知りました。皆が一騎当千の強者達で、個性豊かな達人ばかりと記憶しております。
同期新入生の入部数は恐らく15名くらいだったような気がします。マンドリンやギター等の楽器経験者は、知る限りでは2名ほどでした。
当時は「タンゴ」が全盛の時代で、先輩達の毎日集まる場所は三省堂裏のタンゴ喫茶「ミロンガ ヌオーバ」でした。現在もあると思います。1
卒業まで継続した同期は12名でした。翌年より、徐々に入部者が増加しました。
合宿は1日3食で「300円」!?
私達の入部から、戦後最初の合宿が始まったと思っております。1学年時の合宿先は、当時4年生の馬場牧人先輩(昭和32年/1957年卒)の故郷である福島市飯坂温泉の「千石湯」付の旅館で、ご当地のボーイスカウト長の家で夏の1週間を過ごしました。1日3食付きで300円の時代でした。大きな温泉で、当時は混浴でした。
2学年時の合宿は、当時4年生の斎藤三郎先輩(昭和33年/1958年卒)が経営する、宇都宮市雀の宿の旅館でした。当時は自衛隊の宿所に指定されていた場所でした。練習場である小学校までは相当な距離があったと覚えております。宿泊代は同じく、1日300円でした。
3学年時は西伊豆の戸田温泉の旅館で1泊360円でした。私が電話で300円に交渉するも相当に難色を示され、結果360円となりました。その時に新入部した1年生の入部数が40名を超えたと覚えております。
最終の4学年時は再び福島・千石湯の旅館で合宿、そして福島県人会主催のマンドリン倶楽部演奏会を持つに至りました。その際の指揮者は三浦寿也先輩でした。
私は小学校時代から仲間を集めることが好きだったので、大学入学時もその癖が出て、まずはマンクラ同期生を集めて、麻雀やソフトボールなどをして遊びまわり、仲間としてまとめました。
4年生の時は部長を佐藤利春、指揮を飯高彰に依頼して、私はマネージャーのようなことをやっていました。そして昭和35年になんとか卒業しました。
以来、学友会の二沢、合唱団の石井、ハワイアンの北島、ブラスバンドの北沢という諸先輩の知遇を得ることになりました。
OB会の立ち上げ、OB会長としての活動
- ご卒業後のCUMCとの関りについて、お聞きさせていただけますでしょうか -
卒業後は、年1回のOB会の集まり・名簿の作成などに携わり、昭和38年に本格的な?OB名簿「白門・M OB発会記念」を作り始め、翌39年に完成し会員へ届けました。それ以降は発行していないので、名簿は昭和39年の方まででした。恐らく会則は、倶楽部の戸棚に入っていたと思われる古い書式を参考にしたと思います。
私の知る範囲で、最初のOB会長は矢部博先輩(昭和32年/1957年卒)にお願いしたと思います。若くして亡くなられた矢部先輩の次に務めた木口光忠先輩(昭和34年/1959年卒)も早世し、長谷川壮之介先輩(昭和34年/1959年卒)にお願いをしましたが、最後は私が引き受けることになりました。
その間、何年かに一度に開催して現役支援も兼ねた懇親会、箱根でOBゴルフ会、後年に箱根でOB懇親会を開きました。この時の会に、卒年が離れた後輩の江澤克文君(昭和44年/1969年卒)が特別参加をしてくれました。たぶん、新しくマンドリン俱楽部OB会を作ろうとお考えになって、往時のマンクラ状況を知るための同行参加であったのではないかと思います。
昭和40年以降は現役との接触が段々と無くなったために、OB会名簿は発行しませんでした。故に私の作ったOB会名簿は昭和39年卒の方々までなのです。
- その後OB会会則が発効されたのが昭和57年でしたので、その間の20年近くにわたり内山先輩がOB会長をなさっておられたのですね -
マンドリンのことは一日も忘れることなく
話が戻りますが、中大講堂では年に何回か、昼の休憩時に音楽研究会の発表会が開催され、我等がマンクラも登壇するのです。1年生だった私も参加するのですが、先輩からはなんと「お前ら1年生は、音を出すな!」と。要するに、弾き真似です(笑)。その時、昼の大講堂舞台へ立ったのが、思えば私のマンクラ生活の始まりでした。
その講堂での倶楽部生活も、昭和32年に練習場が文京区富坂に移転することになりました。カマボコと呼ばれて当時親しまれた、富坂の練習場ですね。
当時は私も父親から「大学には遊びに行っているのか!」と怒られておりましたが、やはりクラブ生活というものは学生にとって大切なものではないかと思います。
89年生きてきて様々なことがありましたが、マンドリンのことは一日も忘れることがありません。
(2024年5月14日 取材)
- 「ミロンガ ヌオーバ」は2022年12月に閉店、2023年2月に同じく神田神保町に移転して再開。 ↩︎