石田 友也(いしだ ゆうや) 令和3(2021)年卒

はじまりは、ビートルズ!

- 石田さんの音楽経験をお聞かせいただけますでしょうか -

 私が最初に楽器に出会ったのは、中学生の頃にアコースティックギターが実家にありまして、好きだったアーティスト「ゆず」の弾き語りなどをしておりました。その後高校で軽音楽部に入部してバンド活動を3年間行っておりました。
 もともとマンドリンという楽器は聞いたことがありまして、それこそゆずがライブで使用していたりして、楽器としては認知しておりましたね。ただ、フラットマンドリンの形で認識をしておりました。

 中央大学に入学して、大学ではまた違った音楽に触れてみたいという想いがあり、本当はカントリー音楽のサークルがあれば入ってみたいと思っていたのです。ただ、探してみたのですが見つけることができず、その時に新歓ブースでマンドリン倶楽部を目にしたのです。
 マンドリンの名前は知っていましたし、弦楽器がやりたかったこと、クラシックギターもあるということ、弦楽器のみでオーケストラを組むというのも面白そうだということで、自分から話を聞きたいと新歓のブースに行きました。よくあるのは、勧誘されてブースに連れられて行くというのがあると思うのですけれど、私の場合は逆でしたね。
 実は本当は、コントラバスを志望しておりました。しかしながら他の新入生が先にいたようで空いておらず、ちょっと他の楽器を体験してみようということでマンドラの先輩に連れられて、その後は気付いたらマンドラになっていたという感じでした。ですから当初は、マンドラという楽器やパートにあまり深い思い入れは無かったように記憶しております。

 小学校・中学校まで野球をしていたので、もともと音楽に興味は無く、当時の流行の曲を聴く程度でした。ただ、明確に音楽を好きになったきっかけがありまして。
 2012年にロンドンオリンピックが開催されまして、その開会式でポール・マッカートニーが「Hey Jude」という曲を歌っていたんですね。もともと有名な曲で、CMなどでも耳にしていたことはあったのですが、開会式で聴いた時に改めてとても良い曲だと感じたのです。
 ちょうど父親がビートルズ世代に当たりCDなどもありましたので、それをきっかけにビートルズを聴くようになり、誕生日プレゼントには「THE BEATLES 1」という有名な赤いジャケットのベスト盤を買ってもらったりして、それだけ好きになったビートルズ繋がりでいろいろな楽曲を聴くようになったというのが、私にとっての音楽との出会いですね。私の年代でビートルズから音楽にハマっていったというのも、なかなか珍しいと思いますけれど(笑)、今でもビートルズは好きですね。

- 卒業後の音楽活動についてもお聞かせください -

 様々な団体でお世話になっているのですが、2023年の現時点では「Music Laboratory HAKU」に所属して演奏会に出演しました。今年は出演できないのですが「KSDマンドリンアンサンブル」および「マンドリーノ東京」に出演経験があります。それから私達の世代を中心に各大学の出身者が集って2年くらい前に立ち上がった「アンサンブル レゴラーレ」という指揮者のいないアンサンブル団体に所属しております。
 鈴木静一先生の作品が大好きなので、今年は縁あって「鈴木静一展」にお声がけをいただいて参加させていただき、「鈴木静一メモリアルコンサート2023」にも出演させていただきました。「その団体ならではの良さ」「その団体でしか感じられないもの」というのがそれぞれにありますので、様々な場所で様々なタイプの音楽に触れてさせていただくことは、それは演奏の上で勉強になりますし、私自身もとても楽しいですね。

2020年 新型コロナ禍、その時

- 石田さんが4年生となった2020年は、新型コロナ禍に襲われた年でしたね -

 そうですね、2020年の1月~2月頃に新型コロナが日本に到来したかな、という頃だったと思います。
 今でも覚えておりますが2月頃、例年お呼びいただいておりましたグリナード永山の依頼演奏会が終了して、春の定期演奏会の練習が始まった頃のことでした。練習が終了して、部室にて4年生のミーティングを実施する直前にたまたまスマートフォンを確認したら、大学から「明後日から大学への入構を一切禁止します」というような通知があったのです。「えっ! 明後日!?」と私達一同困惑しまして。それも、いかなる理由も受け付けないという形でしたので。

- その情報はどういう形で得たのでしょうか -

 当時のtwitter(現:X)にて、学友会公式のアカウントをフォローしていたのだと思います。それをたまたま目にして、もちろんミーティングはその内容になりました。

 一番に大変だと思ったのは、部室においてあった楽器のことです。後輩の楽器も置かれておりましたし、無期限入構禁止ということでしたので、明日までに取りに来なければ、次にいつ取りに来られるかわからない。楽器を家に持ち帰りたい人は連絡をください、と連絡を急遽取り合いました。私は当時一人暮らしで大学近くに住んでおりましたので、後輩達の楽器を自宅に預かったりして、なんとか必要な楽器を持ち出すことができました。
 今となっては大学側としても仕方のなかったことだとは思うのですが、あの時は本当に大学への怒りや悲しみを感じました。もう少し、どうにかならなかったのかな、という気持ちでした。

- 運よくツイートを確認できたから、対処できたということですよね。これがもし、確認したのが2日後であったら… -

 そうです、本当にどうなっていたことか。当時、その通知を知らない学生もたくさんいたのではないかと思います。音楽研究会の他部会の方達も、本当に大変だったと思いますよ。

51年ぶりの定期演奏会中止

 その後はずっとステイホームとなり、部活動のこともあまり考えられないまま4年生の春を迎えたのですが、状況はほとんど変わっておりませんでした。

 とりあえず春の定期演奏会を6月に予定しておりましたので、それをどうするかという話になりました。話し合いは全てオンライン、LINE通話または時々zoomという環境でした。まだ2ヶ月位先のことなので、もしかしたら新型コロナ禍が終息して練習再開できるかもしれないという期待、また活動禁止前に合奏練習も少し実施できていたということもあり、演奏会開催に向けて準備は続けていたのですが。
 ただ、日を追っても状況は変わらず悪くなるばかりで、これは春の定期演奏会開催は厳しいのではないかという流れになりました。規模の変更、曲数の変更なども考えたのですが、ただどうしても合奏練習ができないということで。
 さらにネックになったのは、私達が開催したいと考えても、ホール側が開催NGという判断になってしまったらどうしようもないんですね。武蔵野市民文化会館の小ホールを予約しており、とても響きが良いホールで演奏できることを楽しみにしていたのですが。 その当時のホール側の判断がどうであったかは覚えていないのですが、最終的には春の定期演奏会は中止ということに決断せざるを得ない状況となりました。

 その後も、例えば8月頃に延期して、規模・会場も変更しながら無観客でも開催するというような、様々な案を考えました。演奏会という形でなくとも、ミニコンサートのような何かしらの形でも秋の定期演奏会前に本番を踏みたいという想いがあったのですが、それも叶わずでした。コーチなども交えながら毎日のように話し合い、試行錯誤を続けておりましたが、本当に辛い日々でしたね。
 同期も皆、辛かったと思います。直接会って話すのと、オンラインで話すというのは全く違うんですよね、表情や息遣いが読み取れないというのは。まさに音楽もそうだと思いますけれど。4年生同士もだんだんと気持ちが沈んでいった印象があり、話し合うこと自体が辛いものになっていましたね。楽器を弾くために倶楽部に入ったのに、私達は何をやっているんだろう… ということをとても感じていました。それは後輩達も、同様に辛かったことと思います。

 演奏会が中止になったという記録を当時調べたのですが、学園紛争で中止となった1969年の第16回にまで遡るのですね。CUMCとしても歴史的な年に私達の代が直面してしまったと感じました。

- 通常は4月から新入生勧誘があると思うのですが、明らかに例年と様子が異なりますね -

 新入生勧誘については、もちろん対面では何もできない状況でした。学友会が主導して、オンラインでのサークル紹介を実施しましたので、CUMCも参加をしました。1団体10分程度でサークルの紹介を行い、それを新入生が視聴するという形式でした。
 正直、4年生は運営のことで新歓まで手が回らない状況で、3年生が主に活動してくれました。私としては、残念ながら全く手につきませんでした。
 新歓というと、新入生と対面して「ちょっと楽器触ってみなよ」というのが基本の第一歩じゃないですか。それができず、画面上で「こんな楽器です」と紹介してもなかなか新入生には伝わらないですし。新入生の側も辛かったと思います。当時はもう、誰もが辛かったはずですね。

- 何もできないという厳しい時期、石田さんは普段何をして過ごされてましたでしょうか -

 私自身はもう、アルバイトですね。卒論の準備は進めておりましたけれど、他の単位は既に履修し終えていましたので、今がチャンスと思って夜勤でアルバイトをしておりました。お金を貯める機会と思いましたが、使う機会も無いという複雑な状況で、今思えば昼夜逆転の不健全な生活になっていたかもしれません。夜勤ができた頃は、とにかく稼がないとという気持ちしか無かったです。
 自宅では、マンドラの基礎練習に打ち込んでおりました。楽曲の練習をするにも、演奏する本番が決まっていない状況でしたので、それならオデル教則本の基礎練習でもやろうか、という感じでした。
 アルバイト・楽器練習・話し合い…実際にできたことは、その3つではないでしょうか。
 あとは、近くに住んでいる友達と銭湯に行って「黙浴」でリフレッシュしていました。それもコロナ禍中の数少ない楽しみでした。

活動再開、学内の全部会に先駆けて

 夏頃まで同じような状況が続きましたが、ただ、どうしても演奏したいという気持ちは抑えられない状況でした。
 その時に大学外の先輩から、オンライン配信でのアンサンブルコンサートを企画しているというお話を聞きました。ぜひ出演したいとお受けをしまして、同期2人と後輩1人を誘った四重奏で個人的なユニットを組んで学外で何回か練習して、7月にオンライン配信による本番を迎えました。現在でもYouTubeで、その時の演奏が視聴できるようです。それが久々の、誰かと一緒に演奏する本番の舞台でした。それがあったのが、自分の中でだいぶ救いになったと感じますね。そうまでしてでも、誰かとマンドリンを演奏したかったですね、当時は。

2020/7/19 (日)開催「第5回演奏会をしよう!LIVE」 より

 春の定期演奏会が開催できなかったので、秋の定期演奏会は絶対に開催すると4年生全員が決心して8月頃から準備を始めました。まず選曲からですが、春に決めていた選曲は一旦白紙にして考え直しました。ただ何より、活動再開ができなければ仕方がないですよね。
 確か8月末くらいであったと思うのですが、大学からサークル活動再開申請の案内が出たのです。申請に当たっては条件があり、例えば食事を行わない、各自の距離を保つ、マスク着用・換気を行う、活動参加者全員の氏名リストを提出するなど、様々な項目がありました。その条件を満たして文書を提出し、審査が通過すれば活動を認めるという内容でした。
 それにいち早く気付いた同期が尽力してくれて、無事に活動再開が受理されたのが9月下旬頃であったと思います。これは後々聞いた話ですが、活動再開を許可された第1号の部会は2団体のみで、その一つがCUMCであったとのことです。
 活動再開できるとなって皆大喜びで、酒折文武監督からも「最初に再開されて誇りに思っています」という内容のメールを頂きました。

 再開初回の練習はトップ合奏のような形で、学外の北野市民センターを借りての活動でした。2・3回後の練習から後輩達も合流してもらいました。久しぶりで、雰囲気がすっかり変わっている部員もおりましたね。

 選曲の話に戻りますと、CUMCでは毎年鈴木静一先生の作品を必ず演奏してきており、自分達も鈴木静一作品を演奏して引退したいというのは譲れない気持ちでした。ただ、鈴木先生の作品を演奏するには管打楽器のエキストラを招聘すべきところですが、当時は管楽器の飛沫が問題視されていた時期で、管楽器を加えることができないという判断になってしまいました。そもそも練習期間が短く、出演をお願いするのが難しいという事情もありました。
 弦楽器のみの編成であっても何とか鈴木先生の作品を演奏したいという中で検討して、最終的には「組曲「山の印象」」をやろうという形になりました。
 また、春の定期演奏会で演奏する予定だった吉水秀徳作曲の「3 Dimensions」、これは楽譜も春の時点で行き渡っておりますし、春に多少は練習をしておりましたので、これにしようと。本当は鈴木静一作品を最後に演奏して引退したかったのですが、演奏会のバランスとしてこちらの方が良いのではないかというコーチのアドバイスなどもありまして、プログラムの最後としました。
 そういうわけで演奏会は2部構成・前半2曲/後半2曲として、演奏曲も若干減らして弦楽器のみ編成ということに落ち着きました。

制限された状況、2つの革新

 演奏曲目は決まったのですが、本番の日程は12月11日にめぐろパーシモンホールと決まっており、練習期間が2ヶ月半しか無いのです。例年であれば夏合宿も終わっており、ある程度弾けるようになっているはずの時期なのですが。なおかつ、久しぶりに楽器に触れたという後輩もいる状況でした。そこで2点、例年と変えたことがありました。

 1点目は、先ほど申し上げた通り合宿ができないということで、それであれば「強化期間」という、例えば3日間連続で練習する期間を設けて、寝泊りはできませんが毎日練習場を夜間まで予約し、この期間はなるべく部員に参加してもらい集中して練習に取り組もうという期間を設けました。そのような期間を確か2回くらい設けたように記憶しております。

 2点目は、本番を「オンライン配信」としました。これが画期的だったと自負しております。このアイディアも、同期の誰かから出たものだと思います。予算が10万円くらいでしたかね。YouTubeオンライン配信と同時にアーカイブも残るという、本当に前例のない初めての試みでした。大学の音楽サークルでそういったことを実施したというのも本当に早い時期でしたし、これについては多方面の方々からお褒めの言葉を頂きました。
 何よりもオンライン配信としたことによって、会場にもお客様にご入場頂くことができたのですが、ステイホームや様々な事情で会場に来られないという方々からも、ご自宅の大画面TVで視聴頂けたというお話を聞くことができました。中には、海外からご覧頂いたというOBもいらっしゃったようで、オンライン配信のチャット欄がプチ同窓会になっていたみたいですね(笑)。映像のクオリティも高く、カメラの切り替えで演奏者や指揮者の表情もアップで見て取ることができて、本当に良い取り組みになったと思います。
 こういったことを発想できた仲間がいて、それに賛同する同期全員で、何とかして自分達の音楽を少しでも多くの人に届けたいという想いがあったので、本当に良かったです。

 今思えば、2ヶ月半の練習期間で、合宿も無く活動を様々に制限される中で、これだけのクオリティで演奏会を開催できたのは本当に当時の自分達を称えたいと思います。私達は秋の演奏会を開催できましたけれど、他の大学を眺めてみると、ほとんど軒並み中止だったんですね。CUMCの他には本当に数校のみであったと思います。
 絶対に引退のステージは開催したい、という強い想いが実を結んだのではないかと今にして思います。

 私達が試みた強化期間やオンライン配信について、翌年もまだ活動が制限される中で、後輩達も同じように継続してもらうことができたというのは、私達にとっても嬉しかったです。

- 翌年以降に繋がる行動になっていたというのは、間違いなくそう思います -

あの1年を乗り越えた”想い”

- 2020年という一年を過ごして、率直にどうでしたか? -

 いや… もう、何をすればよいのかわからない、あまりに未曽有のこと過ぎて、誰も経験したことのない、誰にもわからないことでしたので…。ただ、そんな中でも何とかして、マンドリン音楽活動を皆で再開したいという強い気持ちがありました。

 正直、心が折れそうになったことは何度もありました。先ほども申し上げました通り、活動はオンラインでの話し合いばかりなので、どんどん気分が沈んでいく日々で…。もう演奏会もいっそのこと、休憩無しで2曲でもできたら十分ではないか、鈴木静一作品も実現は厳しいのではないか、という話が同期から出始めて、それに賛同する声も多くありました。
 それでも自分は、これまで3年間頑張ってきたことをここで妥協したくはないという想いが強く、また鈴木先生の作品は何かしらの形で演奏したいという想いもありました。
 そこで、自分の本音というものを話したところ、それに賛同してもらえる同期も増え始めて、無事に実現することができまして。あの時もし自分が諦めていたら、全く違う形になっていたのではないかと思いますし、あの時本音を語れて良かったなと思います。それくらい、皆が沈んでいた時期はありました。

- 石田さんの想いがあったから、翌年にも繋ぐことができたということですね -

 いやー(笑)、自分だけの想いではないのですけれど、それに賛同してくれたというのが大きくて。当時のその場では、なかなか意見というのも出づらく、本音も語りづらい雰囲気でした。

- わかります。オンライン会議って、何かが変なんですよね -

 そう、何かが変なんですよ。思っているけれど言えないという部分が、皆に共通であって。
 ただもう、大学4年生 最後・引退の演奏会は一回きりだぞ、と。自分自身が1年生から始めて育ってきて、また先輩方達が今まで本当に頑張ってきて、それだけは無駄にしたくないという想いがありましたね。本当にあの時、自分の気持ちに噓をつかなくて良かったなと思います。それを繋いでくれた後輩にも、感謝しかないです。

石田友也、鈴木静一愛を語る!

- 大事にしてくれたその強い想いは、もう少し具体的にお聞きしてしまいますと、鈴木静一作品への想いは、どこでいつから生まれたのでしょうか -

 マンドリンを始めて様々な音楽や、様々な先輩方と出会い、自分達もあのように格好良く引退したいという想いがありました。その中でも自分の気持ちを大きく揺るがしたのが、やはり鈴木静一先生の作品であると思います。

 最初の出会いは、1年生の秋の定期演奏会にて演奏した「大幻想曲「邪馬台(幻の国)」」でした。初めて聴いた時に、「すごい音楽だな…」と。主題が一度収まって、もう一度復帰してくるところ(※69小節目)から始まるチェロとギターの「ミシファシ、ミシファシ…」あれが、とにかくかっこいい! と。それに聴き惚れてしまいました。
 先ほどお話したようにギターの経験はあったので、自分でもちょっとやってみたいと思い、夏合宿で先輩からギターをお借りして左手の押さえ方を教えてもらい、「うおぉ、これだー!」という感じで(笑)。「石田はあの時、合宿でミシファシやってたよね」というのは、当時の先輩や同期には有名な話だったと思いますよ(笑)。
 当時はクラシックも聞いたことがなかったですし、1曲が3分~4分のポップスに馴染んでいた私としては、演奏時間20分だと聞いて「なんだ、それは!?」という感じでした。ところが聴いてみると、これがおもしろい。それが衝撃的な最初の出会いで、それからは完全にとりつかれましたね。

 先輩からも、「大学から始めて、これだけのめり込む人間はなかなかいないぞ」ということで、こういう曲もあるから聴いてみろと、部室に保管してあるコムラードマンドリンアンサンブルのCDを貸してもらい、聴き漁っていました。没後十五年記念演奏会で出版された「鈴木静一 そのマンドリン音楽と生涯」の存在も知るや否や購入して、隅々まで読み漁りましたね。気が付けばどんどん、鈴木静一の創る世界観に魅了されてしまったようです。

 マンドリンと出会って私の人生が大きく変わったと思うのですけれど、鈴木静一という作曲家に出会えたことも今の自分に与えている影響は大きいと思います。もちろんマンドリンに出会わなければ鈴木静一作品を知ることも無かったですし、あの時CUMCの新歓ブースを自ら訪れて本当に良かったなと今では思います。

もしも、ここに…?

- 最後に、ここにもし鈴木静一先生がいらっしゃったら、どんなお話をされたいですか? -

 えーっ!? そんな絶対に有り得ないことを…? でも、一度お話をしてみたかったですよね。実際にお会いしたら、緊張で何を話してよいかわからなくなると思いますけれど…

 でも、まずは感謝の気持ちを伝えますね。本当にいろいろな作品を生み出してくださったこと、そして今でも弾き継いで語り継いでいる人がいますよ、ということを伝えたいです。

 それから個人的にお聞きしたいこととして、戦前・戦後で日本中に大きな価値観の変化があったと思います。それでは戦前の作品はどういう想いで作曲されていたのか、そして戦中・戦後も映画音楽に長く携わっておられたと思いますが、そこの話もお聞きしたいです。特に戦時中のことなどは文献を見てもなかなか出てこないので、例えば戦争映画の音楽にも携わっていたということで、どういった想いで戦争というものを見ていたのかということも気になります。純粋に作曲家の仕事として作っていたという面もあると思うのですけれど、その当時の日本の状況というものをどう捉えておられたのか、と。

 ああ、そうです! 私がなぜここまで鈴木静一作品の虜になったかというと、大学で日本史学を専攻していたのが大きいのです。鈴木静一作品の題材には「歴史物」が多いじゃないですか。曲想にもロマンを感じるものがあり、歴史を感じ取れる作品が多いということで、そこに何かシンパシーを感じたという面が強かったです。歴史と音楽とマンドリンを繋げているのがおもしろいな、と。
 私が日本史学専攻ではなかったら、そこまで鈴木静一作品に魅力を感じていたかというと、微妙だったかもしれません。それだけ、鈴木先生の歴史を題材とした作品に魅力を感じておりました。

(2023年8月24日 取材)

堀澤 芳幸(ほりさわ よしゆき) 昭和39(1964)年卒

中大杉並 音楽部の発足から

- 堀澤先輩の現在の音楽活動について、おうかがいいたします -

 地元・相模原の「マギーアンサンブル」ではベースを、また「ヴェネルディ・マンドリンクラブ」ではギターを担当しております。また、北区赤羽で慰問を専門に活動している「音夢の樹(ねむのき)楽団」に何度かギターで参加しておりましたが、現在は演奏会の受付・楽譜の提供等で応援をしております。
 なお中村恵一君(昭和44年/1969年卒)が発起人となった「アンサンブル・トレモロ」にもギターで参加をしておりましたが、活動場所が遠方になったこともあり参加を控えておりました。今年(2023年)10月の演奏会開催にあたり賛助出演の依頼がありましたが、自信がないですね(笑)。

- それでは堀澤先輩のマンドリン・ギターとの出会いについて、お聞かせいただけますでしょうか -

 高校に入学する前は、ハーモニカやウクレレを遊び半分で演奏しておりました。
 中央大学杉並高等学校に入学して1年次の9月後半でしょうか、音楽部が設立して入部しました。当時は指導者もおらず、部員が勝手にギターなどを演奏していたような状況でした。私個人としては、自宅近くのギター教室(高円寺)で個人レッスンを受けておりました。

- 中大杉並の音楽部は、どなたが立ち上げられたのでしょうか -

 音楽の菊池先生と、1学年上の番場先輩が責任者としてやっておられましたね。

- 具体的にはどういった活動をされていたのでしょうか -

 それが、音楽部といってもギターしかやっていなくて(笑)。指導者も誰もいないので、部員それぞれが好き勝手にギターをいじっていたという感じです。文化祭に出演もしましたが、部員が好きな曲を弾いて、来た方に勝手に聴いてもらうという感じでした。正直なところ、まだ音楽部という体をなしていないような状態でした。まだ、ギターマンドリン合奏という形になる前の話です。

まさかの、中大吹奏楽部に入部?

- 高校卒業して中央大学に入学後、CUMCに入部されたということですね -

 昭和35年に入学して、ギターしか弾けないにも関わらず、実は音楽研究会の吹奏楽部に入ってしまったんですね。しかしながら、部室には一度も行ったことが無かったのです(笑)。
 そうしているうちにクラスメイトが、マンドリン倶楽部に入ったから「お前も来いよ」と言われまして。マンドリンなど知らないまま彼について行って入部しましたが、しばらくしたら彼は辞めてしまいました。そして私の方だけが残って4年間を過ごしました。

- 大学ご卒業後の音楽活動は -

 卒業後すぐは仕事も忙しく、楽器に触れることはありませんでした。その後、同期の松村正と伊林徹夫がヴェネルディ・マンドリンクラブに入っていたので誘われたまま、現状に至っております。
 ヴェネルディ・マンドリンクラブは、私達が20代の頃から活動しているのですが、当時は130人くらいの人数で、有楽町のよみうりホールで演奏会を開催しておりました。昔、労音(全国勤労者音楽協議会)の中にマンドリン教室がありまして、そちらの卒業生が来られていたのです。130人のうち、70%くらいが女性なんですね。それもありまして、クラブ内での結婚というのが何組もありました。
 現在は、江澤克文君(昭和44年/1969年卒)が指揮を担当してくれております。また、井上達男君(昭和42年/1967年卒)や越薫君(昭和48年/1973年卒)、乾正治君(昭和48年/1973年卒)が来てくれて、一緒に活動しております。
 地元のマギーアンサンブルでは、最初はギターを担当していたのですが、ベースを担当していた方が辞められるという際に、たまたま私がマギーアンサンブルの合宿中にベースを遊びで触っていたことに目をつけられまして、ギターからベースにコンバートしました。皆さんに誘われて引っ張られて、そちらに引き寄せられていく感じでしたね(笑)。

- あちらこちらに、引く手あまたですね! -

 いえいえ、そんなことではなくて(笑)。

「中大杉並にマンクラを作ってこい!」

- 話題が前後しますが、中大杉並の音楽部がギターマンドリン合奏活動となった経緯についてお聞かせいただけますでしょうか -

 大学2年の時に、当時の部長である杉野好宏先輩(昭和37年/1962年卒)から「慶應・早稲田等の付属高校にはマンドリンクラブがあるのに、何故中央には無いのか。お前作ってこい。」と言われまして。
 そこで高校の菊池先生にお願いして、高校の文化祭に大学のマンドリン倶楽部が出演して、そこで演奏&ギター合奏によるPRをさせていただきました。
 その後、高校に機械製のマンドリンを何台か導入していただけることになりました。そうすると、誰かが教えなければいけないということになり、私の同期数名を連れて行って指導をしておりました。私も行ける時に訪問して、ギターとマンドリンのみで演奏できるような簡単な楽譜を用意して、少し指揮をしながら教えていましたね。中央大学附属高等学校が小金井市に開校してからも、夏休みなどに時々顔を出して指導しておりました。
 1回限りでしたが、CUMCの合宿を神奈川県栢山の二宮尊徳記念館にて行っていたのですが、そこに彼らを招いて、私達の先輩からも直接指導を受けてもらう機会を設けました。さすがに宿泊してもらうわけにもいきませんので、昼間の間だけでしたが。
 私が卒業して後も、大学から附属高校に指導に行ってもらう形が継続されていたようですね。私も附属高校のOB会長として関わらせていただきましたが、気が付けば部員も数倍になり、コンクールで文部科学大臣賞を受賞するまでになってしまいまして。

- その時に築いた指導の形が、実を結んだということでしょうか -

 いやいや、もう私の手に負えるところではないです(笑)。

演奏旅行中、本番舞台で居眠り!?

- 当時のCUMCの活動について、具体的にお聞かせいただけますでしょうか -

 入部して当初は、大学の文化祭への出演くらいでしょうか。それ以外は、部室でなんとなく練習をしているくらいの感じでしたね。
 ただ、私が1年次の時に第1回演奏会を新宿の山野音楽ホールで開催しました。本格的な音楽活動は、そこからがスタートですね。

 当時は「音楽研究会」という一つの部会でした。“マンドリン” “ハワイアン” “スウィング”など明確に分かれておりませんでした。
 谷啓(※トロンボーン奏者・コメディアン・中央大学音楽研究会OB)をご存じだと思いますが、彼がトロンボーンを吹いている写真があったのです。珍しいなと思って、見たことがあるのですけれど。ですので、その写真はきっとまだ音楽研究会のどこかにあるはずです。
 私がそのような写真を見るような様子でしたので、各部会がまだ明確に分かれていない状態で活動をしていた時期でした。

- 現在は吹奏楽部・管弦楽部・マンドリン倶楽部など明確に分かれて活動しておりますが、その当時はジャンルを渡り歩いて活動していた方もおられたということですかね -

 そうですね、恐らくあちらでもこちらでも、と活動していた部員がいたかもしれないですね。詳しくは把握しておりませんでしたが。

 また、2年次になってから、県人会の誘いを受けて演奏旅行に行きました。一番多かったのは浜松で、定期的に演奏会を開催しておりました。というのは、地元に中央大学のOBが多かったようなのですね。そのお陰で、毎年お呼びいただいておりました。その時はマンドリンだけでなく、ハワイアンなど様々な部会と一緒に行っておりました。
 浜松の三ヶ日で合宿をして、その後に先輩が在住されておられる岡崎で演奏、終演後そのまま夜行列車で名古屋まで行きました。宿泊するための費用も無く、名古屋駅のホームで野宿ではないですが一夜を過ごし、さらに翌日は四国の高松に渡りました。真夏の強行軍ですよ。疲労と睡眠不足で、本番の舞台で居眠りしておりました(笑)。もう目の前にお客様がいらっしゃるのにね。そんな様子のまま、九州までずっとですよ。
 飛行機などとんでもない時代ですので、移動は汽車ですよ。私はベースを運搬する担当になってしまったものですから、自分の荷物は1年生の山崎逸雄君(昭和40年/1965年卒)に持ってもらって、自分はベースだけを持って、ずっと抱えながら立って移動しておりました。汽車ですから、煤で真っ黒になってね(笑)。

- それは大変厳しい旅ですね(笑)。何日くらいの旅程だったのでしょうか -

 1週間くらいだったのではないでしょうか。四国からは熊本に渡って、長崎・佐世保と訪問したでしょうか。1大変なハードワークでしたよ。何せ、季節も夏ですからね。
 他には、沼津にも行きましたかね。沼津は1回だけだったでしょうか。
 そのような活動を、2年次・3年次と行いました。4年の時は北海道だったのですが、ちょうど就職試験と日程が被ってしまいまして、私は行けなかったのです。夏の北海道、本当は行きたかったのですけれど、仕方がないですね。

- 第2回演奏会からは、共立女子大学講堂での開催ということですね -

 第2回は有楽町の読売ホールで開催し、共立講堂は第3回からです2。共立講堂では以前から、音楽研究会のジョイントコンサートを開催していたのです。この頃から活動は、文化祭、ジョイントコンサート、定期演奏会の3つが主体となりました。

先輩は画家!? 写真家!?

 1年先輩に福家順一先輩(昭和38年/1963年卒)という方がいらっしゃいまして、その方には関西大学に入学した双子の兄弟がいらっしゃいました。そのご縁により、関西大学との交歓演奏会が実現するようになりました。福家先輩が4年生の時に、第1回の交歓演奏会が開催されるようになり、我々が大阪にまいりました。その翌年には東京で開催され、以後交代で開催されるようになりました。
 実は福家先輩は、現在プロの画家として活動されているのですよ。以前は太平洋展に出展されていたのですが、現在はパリに拠点を移されており、何度も受賞をされているのです。福家先輩から年賀状をいただいているのですが…

- えっ、これは…写真だと思ったのですが、これが絵ですか…! -

 はい、絵なんです。超写実画という表現を写真に撮ってハガキに印刷しているのです。

 もうお一人、中村守先輩(昭和38年/1963年卒)という方がいらっしゃいまして、プロの写真家なのです。私のFacebookにも載せておりますので、ご覧になっていただければわかると思います。最近は新型コロナの関係でうかがえていないのですが、毎年海老名の画廊に展示しているものですので、何度も鑑賞にうかがっております。

- 私達の先輩に、プロの写真家や画家の方がいらっしゃるとは驚きです。本当に様々な方がいらっしゃるのですね -

はい、皆様にもぜひお話を聞いてみていただければと思います。

TBS杯、審査員のペギー葉山氏も絶賛

- TBS杯対抗バンド合戦のことについてもおうかがいをしたいのですが -

 昭和38年の年末くらい、本当に卒業間際のことでした。実は経緯が詳しくわからないのですが。正直なところ、よくTBSも認めてくれたものだなと思います。
 バンド合戦ですから、いわゆる軽音楽を対象としたラジオ番組のはずなのです。ですから私達のようなオーケストラが出場すること自体が不思議なことですけれど、それを認めていただきまして。しかもオリジナル曲である「古戦場の秋(小池正夫 作曲)」まで弾いてしまったんです(笑)。この時、同期の指揮者である川淵隆弘が、審査員であるペギー葉山から絶賛されておりました。
 結局、優勝したのは中央大学スウィングクリスタルオーケストラでしたが、私達は特別賞を受賞しました。まあ、評価のしようがなかったのではないでしょうか(笑)?

- そう言われてしまいますと、「特別賞」というのも納得できますね(笑) -

 恐らく、出場自体が勘違いからの実現だと思いますよ(笑)。出場について、誰かが口を利いてくれたと思うのですが、今となっては定かではありません。

- 「古戦場の秋」以外には、どのような曲を演奏されたのでしょうか -

 覚えていないのですが、恐らく軽音楽・ポピュラー楽曲を演奏したと思います。

- そうすると、当時の録音なども当然残っていないということですかね -

そうだと思います。誰かがお持ちであれば良いのですが。

定期演奏会、年2回開催への決断

 ところで昭和38年、これは定期演奏会が年2回開催となった年なのです。それまで定期演奏会は年1回開催だったのですが、合宿の終了後に当時の私達3年生だけが喫茶店に集合して、喧々諤々の議論をしたのです。
 「どうする? ほかの大学は年2回開催しているぞ?」「私達だけ、なぜ年2回開催できないのか?」と。後輩の代は人数も少ないこともあり、「私達の代で実施しないとできないぞ! やろう!」ということで、年2回開催とした次第です。
 今日こちらにお持ちしたのが、第5回定期演奏会を収録したという8mmテープです。もう再生する機械も無く、実際に再生できるかもわからないのですが、もし何か機会がありましたらご覧いただきたいのですけれど。

- それではこちら、お預かりさせていただいてもよろしいでしょうか。どうなるかはわからないのですが -

 お願いします。テープ自体、どのような状態かもわからないのですが。

- 改めて、堀澤先輩の代が定期演奏会を年2回開催にされたということでお間違いないのですね。活動スケジュールをガラッと変えるということは、部員の中にも様々なご意見があったと思うのですが -

 やはり春は就職活動などがあり、部員の中にもだいぶ抵抗はありましたが、川淵や、もう故人となった風間俊昭などが強く主張しました。私達の同期は東京在住者が多かったことも大きかったと思います。

- 人数も多かった堀澤先輩の代が、推進力になったということですね -

 そうですね。その後の代になると、なかなか難しいと考えましたから。その甲斐もあってと言いますか、2011年には第100回の記念も開催できましたね。

- そうですね。今年(2023年)は第125回を迎えることにもなりました -

辞めたいんだけど、辞めさせてくれない(笑)

 また当時、OB会というものも存在はしたのですが、ほとんど活動していなかったのです。内山峰三郎先輩(昭和35年/1960年卒)が、事実上のOB会立ち上げをされたようなものです。その後、毎年に渡り幹事会が開催されて現在に至っておりますね。

- 皆様がご年齢を重ねても活動を続けていただいている、ということを知ってもらうというのも大事だと考えます -

 私が現在関わっている団体はほとんど、指揮者不在なのです。演奏しながら指揮をしているような状態で。

- もはや、達人ですね! -

 私達も80歳を超えていますので、もう手が動かないんですよ、本当に(笑)。もう辞めたいんだけれど、辞められないという状態でね。

- これまでお話をお聞きしまして、少なくとも堀澤先輩は辞められないな、と感じております。周囲の皆様が逃がしてくれそうもないですね -

 そうなんですよね(笑)。

- それでも、そういう方達で繋いできていただいている、ということも感じております。 -

 だけれども、誰かがそういうことをしないと、クラブが成り立たないですしね。

- 現在のCUMCに感じていることや、伝えたいことはございますでしょうか -

 それはもう、お任せです(笑)。そこまではおこがましくて、申せません。

- ありがとうございました。当時のお話を詳しくお聞きできる方も一部にはいらっしゃるのですが、その方に「繋ぐ方」の近況・動静がどうなっているのかが、これまでなかなか繋がらなくて苦労しておりました。それを今回、最後まで繋げるのが仕事の一つであると考えております。 -

 大変ですよね。最後にまとめ上げることが。

- 最終的には、現在の学生のモチベーションとなるようなものに、こういうことをやった結果に現在の皆様の活動があるのです、というところまで伝えられるようにするのが仕事と考えています -

 世代交代ができていくと、良いですね。OBから何人か応援に来てもらっているので、そういう形で続いていけるのが良いですね。

(2023年7月14日 取材)

  1. 演奏旅行訪問先について、追跡調査を受けて訂正(2024.1.18) ↩︎
  2. 第2回定期演奏会の開催会場について、追跡調査をうけて訂正(2024.1.18) ↩︎

江澤 克文(えざわ かつふみ) 昭和44(1969)年卒

中大杉並MCの第1期生

- 江澤先輩のマンドリンとの出会い、またそれまでの音楽経験がございましたらお聞かせを頂けますでしょうか -

 昔から音楽を好きで何か楽器をやりたかったのですが、入学した青山中学校には音楽部がありませんでした。そこで音楽の先生に相談しましたら、学校の備品として置いてあったトランペットをいつでも使って良いと言われまして、ずっと吹いておりました。
 教えてくれる先生はおらず、ドレミファソラシドも自分で見つけて、完全に自己流で簡単な曲を吹いていました。たった一人で仲間もおらず、放課後の音楽室や校庭の一角でトランペットとともに3年間過ごしておりました。

 中央大学杉並高等学校に入学した際に、青山中学校の先輩と相談しましたところ、音楽部に誘ってもらいました。当時の音楽部は男声コーラスだけだったのですが、どうやらコーラスでは部員が集まらないらしい。そこで「楽器にしよう」ということで導入したのがマンドリンでした。そういうことですので、私は中大杉並マンドリン倶楽部のまさに第1期生だったと言えるのでしょう。

 私は本音ではギターを弾きたかったのですが、先輩にマンドリンを持たされて「上手いじゃないか」とおだて褒められているうちにマンドリン奏者になったのでした。
 一緒に5~6人で始めたのですが、ギター以外のマンドリンパートは、それぞれ1stや2ndを担当したり、あるいはマンドラを担当したりと随分自由にやっておりましたので、マンドリン系の楽器はどれでも各自それなりに弾けるようになっていましたね。

 実は私は高校時代にも、大学の演奏会に出演しているんですよ。堀澤芳幸先輩(昭和39年/1964年卒)が当時、高校倶楽部の指導にいらしていたので、第2回・第3回定期演奏会にマンドラ奏者として出演させて頂いたのです。
 その後、高校を卒業して中央大学に進学と同時にCUMCに入部したのは、当然の流れでしたね。

- 現在の江澤先輩はどのような音楽活動をされておられますでしょうか -

 現在はヴェネルディ・マンドリンクラブに所属しており、主に指揮をしております。こちらに参加したもの堀澤先輩とのご縁です。

新入生が毎年100人!?

- それでは江澤先輩在学当時のCUMCの活動について、具体的にお聞かせを頂けますでしょうか -

 主な活動は春・秋に開催する定期演奏会に向けて、楽譜の手配、楽曲の練習が中心です。それ以外には依頼演奏などがあれば出向いて演奏する、といったことがありました。また白門祭では教室の机を片付けてスペースにして、選抜メンバーで演奏をしました。
 関西大学との交流も続いておりましたね。2年~4年に1回程度で不定期に、それぞれの学校の都合が合うタイミングで関西または東京で交歓演奏会を開催しておりました。もともと福家順一先輩(昭和38年/1963年卒)の双子の兄である福家恵一氏が関西大学に入学されていた縁ではじまり、その後も毎年というわけにはいきませんが、何年か一度に開催しましょうということで続けられていたと記憶しております。

 部員の人数は、あの頃はすごかったですね。新入生だけで毎年100人くらいは入ってきましたよ。しかし夏合宿の頃にはふるい落とされて20人くらいになっていました。合宿で本格的な練習になってくると、高校の時に音楽経験の無い新入生にとっては「これは、ついていけないな…」と感じたようで。ですから秋の定期演奏会には総勢80人くらいの部員が舞台に上がっていました。

指揮者は、よく卒業できたと思います(笑)

- 当時の定期演奏会はどのようなプログラム構成だったのでしょうか -

 当時はオリジナル曲とポピュラー曲の2ステージ構成でした。ポピュラー曲を入れるのは、そうすることでチケットが売れるのです。あの当時、チケットは一枚200円で販売しておりました。ホールの座席数が2000人弱ですと、部員一人当たり20枚のチケットノルマがあるのです。これは先輩であろうと新入部員であろうと、平等にです。販売しないと自腹を切ることになりますので、なんとか友達を頼って必死で販売しましたね。
 現在ももちろんそうでしょうけれど、ホールを借りてステージを開催すると大きな経費がかかりますから、チケット代でやり繰りする会計担当は随分と苦労をしていましたね。

- 定期演奏会の曲目はどういった流れや基準で選ばれたのでしょうか -

 当時の選曲は、すべて指揮者の独断で決定しておりました。コンマスも含めて全部員は、楽譜が配られるまで、今度の演奏会で何を演奏することになるのかわからなかったのです。

 だいたい2~3年生の頃には学年の雰囲気で、指揮者候補は決まってくるものでした。そうすると彼等はいろいろな大学の演奏会を聴きに行くようにして、これは私に合うなという曲を見つけてくるのです。そうしたら楽譜を用意するのですが、現在のようなマンドリン専門店は有るか無いかという時代でしたので、各大学に問い合わせをして、あるいは作曲家の先生を直接訪ねるなどして、楽譜を手配するのも大変だったと思いますよ。
 もちろんFinaleといった楽譜作成ソフトもありませんでしたから、写しの写しの写しを元にするような状況ですので、記譜の誤りが残ったまま楽譜が渡されるのは日常でした。間違った和音のまま練習をしているので、隣で演奏するパートを聴きながら「これは、間違っているな…」なんていうことはしょっちゅう感じておりました。

 ポピュラー曲については、指揮者自らが編曲をします。ですから、4年生になってから選曲や準備をするのではとても間に合わないのです。管楽器から打楽器まで含めて10パートくらいありますから、それを書き起こすだけでも大変な時間がかかります。指揮者は、それこそ大学の勉強をしている暇は無かったですね。よく卒業できたと思いますよ(笑)。

- 江澤先輩の代の指揮者は小林三郎先輩でしたね -

 ええ、彼も同じように苦労したと思います。

- 小林先輩が編曲された「中央大学校歌」の楽譜ですが、現在でも倶楽部で使用されています -

 現在でも使っているのですか? それ以前は別の方が編曲された楽譜が存在していたのですが、小林三郎君が優れた編曲をしてくれましたので、皆の賛同を得て昭和43年からこの編曲となりました。後輩もこの編曲が私達の倶楽部に合っていると望んでくれて、引き継いで頂きました。

TBS大学対抗バンド合戦、川淵先輩の存在

- 江澤先輩が活動されている中で、印象深いイベントなどはありましたでしょうか -

 指揮者に川淵隆弘先輩(昭和39年/1964年卒)という方がいらっしゃいました。この方は法学部で弁護士を目指していたのですが、非常に頭の良い方で、マンドリン倶楽部では指揮者として演奏をリードされている人物でした。
 1964年の「TBS大学対抗バンド合戦」に川淵先輩がCUMCを指揮して出演し、「特別賞」を受賞したのです。このイメージが非常に強く、川淵先輩がCUMCのレベルと質、それから選曲の傾向をグンと上げた方だと感じる理由です。優れた力量と才能を備える指揮者に出会うと、楽団がガラッと変わる瞬間を、私は目の前で見ましたね。
 それまでのCUMCは、明治大学や慶應大学と同じようなことを真似てチンチロチン(笑)とやっていたのが、この方が現れてから明治大学・慶應大学・早稲田大学とは違う『中央大学マンドリン倶楽部』になりました。それを創ったのが、この川淵先輩です。

- 「TBS大学対抗バンド合戦」とは、失礼ながらどういったイベントだったのでしょうか -

 これは本来、マンドリンが対象ではなかったのです。ジャズ、ハワイアン、タンゴといったポピュラー曲を演奏するバンドを対象としたラジオ番組企画でした。そこに川淵先輩がマンドリンで殴り込みをかけたわけなのです。
 通常はバンドですので椅子が10個程度で足りるのですが、「すみませんが椅子を80個くらい用意してください」と言われて、放送局の方は驚いたことでしょう。ともかく椅子と譜面台を揃えて頂き、演奏したら審査員の方が「素晴らしい演奏、素晴らしい編曲です」ということで特別賞となり、実際にラジオ放送もされました。演奏したのは、確か「引き潮」だったと思います。

 川淵先輩がいきなりCUMCのレベルを上げてしまい、音楽性や表現力を求められるようになってしまったので、その後の指揮者は大変だったことでしょう(笑)。
 CUMCの長い歴史の中には「この方はすごいな、立派だな」という指揮者が何人も現れますが、川淵先輩は私にとってその最初の方でした。先輩の言われた通りであるとか、そうではなくて、それ以上の力を持って楽団を変える指揮者が、何年かに一度CUMCには生まれてきますね。

 私と川淵先輩は5年違いでしたので、私が中央大学に入学した時には先輩は既にご卒業されていました。ご卒業後は法学を志して帰郷され、音楽活動はされていないと思います。
 どうして存じ上げているかといいますと、先ほどお話した通り、私は高校時代から大学のステージに出演していたからです。川淵先輩が指揮を振る前でマンドラを演奏して、「この方はすごいな…普通の指揮者ではないな!」と思っていたわけです。

- 定期演奏会以外の普段の活動について、もう少しおうかがいしてもよろしいでしょうか -

 当時の富坂キャンパスには練習場がありまして、音楽クラブ11団体がありましたが練習環境には恵まれていましたね。
 吹奏楽部などに比べて、室内楽的な楽団でしたから、対外的な活動というのは少なかったですね。ただ、演奏旅行というものは実施しておりました。中央大学卒業生の県人会というものが各地にありまして、何かイベントを開くというときに「音楽会」を開催して、地元の方に中央大学をPRしてくれたのです。
 そういうような経緯で私達を呼んでくれて、長崎や浜松、帯広など各地で演奏する機会を設けてくれました。各地の県人会からお声がかかると、電車に乗って演奏して帰ってくる、遠方ですと1泊してくる、という様子ですね。
 あるいは部員の中に地方出身の方がいると、その人が地元に帰って県人会にマンドリン倶楽部招請の相談をすることがありました。そこで賛同を得られれば、県人会の方々がしっかりと段取りをしてくれました。

鈴木静一先生と初めての接点

- 鈴木静一先生が指導者になられたのは、江澤先輩がご卒業された後のことだと思いますが… -

 これについては、私もひとつ思い出があるのです。
 藤本匡孝君(昭和47年/1972年卒)が、ある日私のもとを訪れまして、「鈴木静一先生のところに行きましょう」と言うのです。何故かと問うと、「これからは鈴木静一先生にCUMCを指導してもらいたいと思っています」と。明治大学には古賀政男先生、慶應大学には服部正先生と指導者がついているのに、中央大学に先生がつかないままではレベル向上に限界があり、世間の見る目も大学クラブの一つとしか見てもらえない、と藤本君は主張したのです。

 その当時の鈴木先生は映画音楽の仕事からも離れ、ご自宅で作曲活動をされている時期でした。そこで二人で先生にお電話を差し上げまして、「先生は学生の頃にマンドリンを演奏されていたと聞いておりますので、その当時からの様々なお話をうかがいたいです」と申し上げましたところ、「いいよ、来いよ」とおっしゃるのです。

 それで喜び勇んで、二人で先生のご自宅を訪問して、それは様々なお話を聞かせて頂きました。そして「CUMCにはプロの指導者という方がいらっしゃらず、ぜひ鈴木先生のご指導を仰ぎたいのです」と切り出しましたら、その場で「いいよ」とおっしゃって頂きまして、なんと富坂の練習場にいらして頂けたのです。部員も皆感激して、直立不動でお待ちしていましたね。
 いざ練習になると、やはりアマチュアですと指揮が気になるのでしょうね、少しだけ指揮を振って頂いたりしましたね。それが鈴木先生とCUMCの初めての接点でした。

 これにはまだ、いろいろな話がありまして。慶應大学も当時の鈴木先生と付き合いがありまして、「中央というところは指導者がいないので、もしその気がありましたら是非助けてあげて下さい」とわざわざ助言してくれた方もいたのです。というのは、CUMCも定期演奏会を重ねてきて徐々に名前が知れ渡るようになってくると、むしろ周囲の方達が心配になって、先生に声をかけてくれたと思うのです。
 お陰でCUMCには、鈴木先生の後もプロの指導者を招聘するという思想が身についた、と考えています。

- 大学同士でお互いに高め合っていこうというマインドは素晴らしいですね! -

 そうですね。学生のみですと、どうしても自己流で終わってしまいますけれど、プロが加わることで、音楽に対する考え方などを教えてくれますからね。

歴史は綿々と繋がれて

- 本日は江澤先輩にても、たくさんの史料をご用意頂けたようですが… -

 山野楽器の楽器資料室にてマンドリンの史料を調べたことがありまして、その際に発見した高橋三男氏の著した史料の写しがこちらにあります。この史料には中央大学という名前は出ないのですが、日本におけるマンドリンの歴史がまとめられており、現在でもとても参考になるのではないかと思います。
 特に注目すべきが、比留間賢八氏がヨーロッパ留学より帰国の際に、様々な楽器を日本に持ち帰ってきて、その中にギターとマンドリンがあったということ、ここが重要なところです。
 なぜ比留間賢八先生のお話かといいますと、比留間先生に娘さんがいらっしゃいまして、それが昭和のマンドリン奏者として広く活躍された比留間絹子女史でした。当時のラジオ等で多く耳にされたマンドリンの演奏は、竹内郁子先生か絹子先生のいずれかと言われていました。私がマンドリンを師事していた杉原里子先生は絹子先生のお弟子さんでしたので、こうして歴史が綿々と繋がっているのだなと感じた次第です。

- 最後に、現在のCUMCへ何かメッセージがありましたら、お聞かせ頂けますでしょうか。 -

 昨年、OB幹事会の場に現役の方がいらして頂けて、現在の活動などをご説明頂きました。2023年から法学部がキャンパス移転のため、それぞれのキャンパスで別れて活動しているとうかがいました。それを聞いて、これから一つの倶楽部として演奏会を開催するのは大変だなと思い、何かお手伝いできることがあれば、と考えているところです。
 マンドリンを好きな方達が集まって、一緒になって演奏会を持てることが理想だと思いますので、キャンパスを分けての練習は大変でしょうが、なんとか工夫して頑張って欲しいと思います。

(2023年7月5日 取材)