堀澤 芳幸(ほりさわ よしゆき) 昭和39(1964)年卒

中大杉並 音楽部の発足から

- 堀澤先輩の現在の音楽活動について、おうかがいいたします -

 地元・相模原の「マギーアンサンブル」ではベースを、また「ヴェネルディ・マンドリンクラブ」ではギターを担当しております。また、北区赤羽で慰問を専門に活動している「音夢の樹(ねむのき)楽団」に何度かギターで参加しておりましたが、現在は演奏会の受付・楽譜の提供等で応援をしております。
 なお中村恵一君(昭和44年/1969年卒)が発起人となった「アンサンブル・トレモロ」にもギターで参加をしておりましたが、活動場所が遠方になったこともあり参加を控えておりました。今年(2023年)10月の演奏会開催にあたり賛助出演の依頼がありましたが、自信がないですね(笑)。

- それでは堀澤先輩のマンドリン・ギターとの出会いについて、お聞かせいただけますでしょうか -

 高校に入学する前は、ハーモニカやウクレレを遊び半分で演奏しておりました。
 中央大学杉並高等学校に入学して1年次の9月後半でしょうか、音楽部が設立して入部しました。当時は指導者もおらず、部員が勝手にギターなどを演奏していたような状況でした。私個人としては、自宅近くのギター教室(高円寺)で個人レッスンを受けておりました。

- 中大杉並の音楽部は、どなたが立ち上げられたのでしょうか -

 音楽の菊池先生と、1学年上の番場先輩が責任者としてやっておられましたね。

- 具体的にはどういった活動をされていたのでしょうか -

 それが、音楽部といってもギターしかやっていなくて(笑)。指導者も誰もいないので、部員それぞれが好き勝手にギターをいじっていたという感じです。文化祭に出演もしましたが、部員が好きな曲を弾いて、来た方に勝手に聴いてもらうという感じでした。正直なところ、まだ音楽部という体をなしていないような状態でした。まだ、ギターマンドリン合奏という形になる前の話です。

まさかの、中大吹奏楽部に入部?

- 高校卒業して中央大学に入学後、CUMCに入部されたということですね -

 昭和35年に入学して、ギターしか弾けないにも関わらず、実は音楽研究会の吹奏楽部に入ってしまったんですね。しかしながら、部室には一度も行ったことが無かったのです(笑)。
 そうしているうちにクラスメイトが、マンドリン倶楽部に入ったから「お前も来いよ」と言われまして。マンドリンなど知らないまま彼について行って入部しましたが、しばらくしたら彼は辞めてしまいました。そして私の方だけが残って4年間を過ごしました。

- 大学ご卒業後の音楽活動は -

 卒業後すぐは仕事も忙しく、楽器に触れることはありませんでした。その後、同期の松村正と伊林徹夫がヴェネルディ・マンドリンクラブに入っていたので誘われたまま、現状に至っております。
 ヴェネルディ・マンドリンクラブは、私達が20代の頃から活動しているのですが、当時は130人くらいの人数で、有楽町のよみうりホールで演奏会を開催しておりました。昔、労音(全国勤労者音楽協議会)の中にマンドリン教室がありまして、そちらの卒業生が来られていたのです。130人のうち、70%くらいが女性なんですね。それもありまして、クラブ内での結婚というのが何組もありました。
 現在は、江澤克文君(昭和44年/1969年卒)が指揮を担当してくれております。また、井上達男君(昭和42年/1967年卒)や越薫君(昭和48年/1973年卒)、乾正治君(昭和48年/1973年卒)が来てくれて、一緒に活動しております。
 地元のマギーアンサンブルでは、最初はギターを担当していたのですが、ベースを担当していた方が辞められるという際に、たまたま私がマギーアンサンブルの合宿中にベースを遊びで触っていたことに目をつけられまして、ギターからベースにコンバートしました。皆さんに誘われて引っ張られて、そちらに引き寄せられていく感じでしたね(笑)。

- あちらこちらに、引く手あまたですね! -

 いえいえ、そんなことではなくて(笑)。

「中大杉並にマンクラを作ってこい!」

- 話題が前後しますが、中大杉並の音楽部がギターマンドリン合奏活動となった経緯についてお聞かせいただけますでしょうか -

 大学2年の時に、当時の部長である杉野好宏先輩(昭和37年/1962年卒)から「慶應・早稲田等の付属高校にはマンドリンクラブがあるのに、何故中央には無いのか。お前作ってこい。」と言われまして。
 そこで高校の菊池先生にお願いして、高校の文化祭に大学のマンドリン倶楽部が出演して、そこで演奏&ギター合奏によるPRをさせていただきました。
 その後、高校に機械製のマンドリンを何台か導入していただけることになりました。そうすると、誰かが教えなければいけないということになり、私の同期数名を連れて行って指導をしておりました。私も行ける時に訪問して、ギターとマンドリンのみで演奏できるような簡単な楽譜を用意して、少し指揮をしながら教えていましたね。中央大学附属高等学校が小金井市に開校してからも、夏休みなどに時々顔を出して指導しておりました。
 1回限りでしたが、CUMCの合宿を神奈川県栢山の二宮尊徳記念館にて行っていたのですが、そこに彼らを招いて、私達の先輩からも直接指導を受けてもらう機会を設けました。さすがに宿泊してもらうわけにもいきませんので、昼間の間だけでしたが。
 私が卒業して後も、大学から附属高校に指導に行ってもらう形が継続されていたようですね。私も附属高校のOB会長として関わらせていただきましたが、気が付けば部員も数倍になり、コンクールで文部科学大臣賞を受賞するまでになってしまいまして。

- その時に築いた指導の形が、実を結んだということでしょうか -

 いやいや、もう私の手に負えるところではないです(笑)。

演奏旅行中、本番舞台で居眠り!?

- 当時のCUMCの活動について、具体的にお聞かせいただけますでしょうか -

 入部して当初は、大学の文化祭への出演くらいでしょうか。それ以外は、部室でなんとなく練習をしているくらいの感じでしたね。
 ただ、私が1年次の時に第1回演奏会を新宿の山野音楽ホールで開催しました。本格的な音楽活動は、そこからがスタートですね。

 当時は「音楽研究会」という一つの部会でした。“マンドリン” “ハワイアン” “スウィング”など明確に分かれておりませんでした。
 谷啓(※トロンボーン奏者・コメディアン・中央大学音楽研究会OB)をご存じだと思いますが、彼がトロンボーンを吹いている写真があったのです。珍しいなと思って、見たことがあるのですけれど。ですので、その写真はきっとまだ音楽研究会のどこかにあるはずです。
 私がそのような写真を見るような様子でしたので、各部会がまだ明確に分かれていない状態で活動をしていた時期でした。

- 現在は吹奏楽部・管弦楽部・マンドリン倶楽部など明確に分かれて活動しておりますが、その当時はジャンルを渡り歩いて活動していた方もおられたということですかね -

 そうですね、恐らくあちらでもこちらでも、と活動していた部員がいたかもしれないですね。詳しくは把握しておりませんでしたが。

 また、2年次になってから、県人会の誘いを受けて演奏旅行に行きました。一番多かったのは浜松で、定期的に演奏会を開催しておりました。というのは、地元に中央大学のOBが多かったようなのですね。そのお陰で、毎年お呼びいただいておりました。その時はマンドリンだけでなく、ハワイアンなど様々な部会と一緒に行っておりました。
 浜松の三ヶ日で合宿をして、その後に先輩が在住されておられる岡崎で演奏、終演後そのまま夜行列車で名古屋まで行きました。宿泊するための費用も無く、名古屋駅のホームで野宿ではないですが一夜を過ごし、さらに翌日は四国の高松に渡りました。真夏の強行軍ですよ。疲労と睡眠不足で、本番の舞台で居眠りしておりました(笑)。もう目の前にお客様がいらっしゃるのにね。そんな様子のまま、九州までずっとですよ。
 飛行機などとんでもない時代ですので、移動は汽車ですよ。私はベースを運搬する担当になってしまったものですから、自分の荷物は1年生の山崎逸雄君(昭和40年/1965年卒)に持ってもらって、自分はベースだけを持って、ずっと抱えながら立って移動しておりました。汽車ですから、煤で真っ黒になってね(笑)。

- それは大変厳しい旅ですね(笑)。何日くらいの旅程だったのでしょうか -

 1週間くらいだったのではないでしょうか。四国からは熊本に渡って、長崎・佐世保と訪問したでしょうか。1大変なハードワークでしたよ。何せ、季節も夏ですからね。
 他には、沼津にも行きましたかね。沼津は1回だけだったでしょうか。
 そのような活動を、2年次・3年次と行いました。4年の時は北海道だったのですが、ちょうど就職試験と日程が被ってしまいまして、私は行けなかったのです。夏の北海道、本当は行きたかったのですけれど、仕方がないですね。

- 第2回演奏会からは、共立女子大学講堂での開催ということですね -

 第2回は有楽町の読売ホールで開催し、共立講堂は第3回からです2。共立講堂では以前から、音楽研究会のジョイントコンサートを開催していたのです。この頃から活動は、文化祭、ジョイントコンサート、定期演奏会の3つが主体となりました。

先輩は画家!? 写真家!?

 1年先輩に福家順一先輩(昭和38年/1963年卒)という方がいらっしゃいまして、その方には関西大学に入学した双子の兄弟がいらっしゃいました。そのご縁により、関西大学との交歓演奏会が実現するようになりました。福家先輩が4年生の時に、第1回の交歓演奏会が開催されるようになり、我々が大阪にまいりました。その翌年には東京で開催され、以後交代で開催されるようになりました。
 実は福家先輩は、現在プロの画家として活動されているのですよ。以前は太平洋展に出展されていたのですが、現在はパリに拠点を移されており、何度も受賞をされているのです。福家先輩から年賀状をいただいているのですが…

- えっ、これは…写真だと思ったのですが、これが絵ですか…! -

 はい、絵なんです。超写実画という表現を写真に撮ってハガキに印刷しているのです。

 もうお一人、中村守先輩(昭和38年/1963年卒)という方がいらっしゃいまして、プロの写真家なのです。私のFacebookにも載せておりますので、ご覧になっていただければわかると思います。最近は新型コロナの関係でうかがえていないのですが、毎年海老名の画廊に展示しているものですので、何度も鑑賞にうかがっております。

- 私達の先輩に、プロの写真家や画家の方がいらっしゃるとは驚きです。本当に様々な方がいらっしゃるのですね -

はい、皆様にもぜひお話を聞いてみていただければと思います。

TBS杯、審査員のペギー葉山氏も絶賛

- TBS杯対抗バンド合戦のことについてもおうかがいをしたいのですが -

 昭和38年の年末くらい、本当に卒業間際のことでした。実は経緯が詳しくわからないのですが。正直なところ、よくTBSも認めてくれたものだなと思います。
 バンド合戦ですから、いわゆる軽音楽を対象としたラジオ番組のはずなのです。ですから私達のようなオーケストラが出場すること自体が不思議なことですけれど、それを認めていただきまして。しかもオリジナル曲である「古戦場の秋(小池正夫 作曲)」まで弾いてしまったんです(笑)。この時、同期の指揮者である川淵隆弘が、審査員であるペギー葉山から絶賛されておりました。
 結局、優勝したのは中央大学スウィングクリスタルオーケストラでしたが、私達は特別賞を受賞しました。まあ、評価のしようがなかったのではないでしょうか(笑)?

- そう言われてしまいますと、「特別賞」というのも納得できますね(笑) -

 恐らく、出場自体が勘違いからの実現だと思いますよ(笑)。出場について、誰かが口を利いてくれたと思うのですが、今となっては定かではありません。

- 「古戦場の秋」以外には、どのような曲を演奏されたのでしょうか -

 覚えていないのですが、恐らく軽音楽・ポピュラー楽曲を演奏したと思います。

- そうすると、当時の録音なども当然残っていないということですかね -

そうだと思います。誰かがお持ちであれば良いのですが。

定期演奏会、年2回開催への決断

 ところで昭和38年、これは定期演奏会が年2回開催となった年なのです。それまで定期演奏会は年1回開催だったのですが、合宿の終了後に当時の私達3年生だけが喫茶店に集合して、喧々諤々の議論をしたのです。
 「どうする? ほかの大学は年2回開催しているぞ?」「私達だけ、なぜ年2回開催できないのか?」と。後輩の代は人数も少ないこともあり、「私達の代で実施しないとできないぞ! やろう!」ということで、年2回開催とした次第です。
 今日こちらにお持ちしたのが、第5回定期演奏会を収録したという8mmテープです。もう再生する機械も無く、実際に再生できるかもわからないのですが、もし何か機会がありましたらご覧いただきたいのですけれど。

- それではこちら、お預かりさせていただいてもよろしいでしょうか。どうなるかはわからないのですが -

 お願いします。テープ自体、どのような状態かもわからないのですが。

- 改めて、堀澤先輩の代が定期演奏会を年2回開催にされたということでお間違いないのですね。活動スケジュールをガラッと変えるということは、部員の中にも様々なご意見があったと思うのですが -

 やはり春は就職活動などがあり、部員の中にもだいぶ抵抗はありましたが、川淵や、もう故人となった風間俊昭などが強く主張しました。私達の同期は東京在住者が多かったことも大きかったと思います。

- 人数も多かった堀澤先輩の代が、推進力になったということですね -

 そうですね。その後の代になると、なかなか難しいと考えましたから。その甲斐もあってと言いますか、2011年には第100回の記念も開催できましたね。

- そうですね。今年(2023年)は第125回を迎えることにもなりました -

辞めたいんだけど、辞めさせてくれない(笑)

 また当時、OB会というものも存在はしたのですが、ほとんど活動していなかったのです。内山峰三郎先輩(昭和35年/1960年卒)が、事実上のOB会立ち上げをされたようなものです。その後、毎年に渡り幹事会が開催されて現在に至っておりますね。

- 皆様がご年齢を重ねても活動を続けていただいている、ということを知ってもらうというのも大事だと考えます -

 私が現在関わっている団体はほとんど、指揮者不在なのです。演奏しながら指揮をしているような状態で。

- もはや、達人ですね! -

 私達も80歳を超えていますので、もう手が動かないんですよ、本当に(笑)。もう辞めたいんだけれど、辞められないという状態でね。

- これまでお話をお聞きしまして、少なくとも堀澤先輩は辞められないな、と感じております。周囲の皆様が逃がしてくれそうもないですね -

 そうなんですよね(笑)。

- それでも、そういう方達で繋いできていただいている、ということも感じております。 -

 だけれども、誰かがそういうことをしないと、クラブが成り立たないですしね。

- 現在のCUMCに感じていることや、伝えたいことはございますでしょうか -

 それはもう、お任せです(笑)。そこまではおこがましくて、申せません。

- ありがとうございました。当時のお話を詳しくお聞きできる方も一部にはいらっしゃるのですが、その方に「繋ぐ方」の近況・動静がどうなっているのかが、これまでなかなか繋がらなくて苦労しておりました。それを今回、最後まで繋げるのが仕事の一つであると考えております。 -

 大変ですよね。最後にまとめ上げることが。

- 最終的には、現在の学生のモチベーションとなるようなものに、こういうことをやった結果に現在の皆様の活動があるのです、というところまで伝えられるようにするのが仕事と考えています -

 世代交代ができていくと、良いですね。OBから何人か応援に来てもらっているので、そういう形で続いていけるのが良いですね。

(2023年7月14日 取材)

  1. 演奏旅行訪問先について、追跡調査を受けて訂正(2024.1.18) ↩︎
  2. 第2回定期演奏会の開催会場について、追跡調査をうけて訂正(2024.1.18) ↩︎