江澤 克文(えざわ かつふみ) 昭和44(1969)年卒

中大杉並MCの第1期生

- 江澤先輩のマンドリンとの出会い、またそれまでの音楽経験がございましたらお聞かせを頂けますでしょうか -

 昔から音楽を好きで何か楽器をやりたかったのですが、入学した青山中学校には音楽部がありませんでした。そこで音楽の先生に相談しましたら、学校の備品として置いてあったトランペットをいつでも使って良いと言われまして、ずっと吹いておりました。
 教えてくれる先生はおらず、ドレミファソラシドも自分で見つけて、完全に自己流で簡単な曲を吹いていました。たった一人で仲間もおらず、放課後の音楽室や校庭の一角でトランペットとともに3年間過ごしておりました。

 中央大学杉並高等学校に入学した際に、青山中学校の先輩と相談しましたところ、音楽部に誘ってもらいました。当時の音楽部は男声コーラスだけだったのですが、どうやらコーラスでは部員が集まらないらしい。そこで「楽器にしよう」ということで導入したのがマンドリンでした。そういうことですので、私は中大杉並マンドリン倶楽部のまさに第1期生だったと言えるのでしょう。

 私は本音ではギターを弾きたかったのですが、先輩にマンドリンを持たされて「上手いじゃないか」とおだて褒められているうちにマンドリン奏者になったのでした。
 一緒に5~6人で始めたのですが、ギター以外のマンドリンパートは、それぞれ1stや2ndを担当したり、あるいはマンドラを担当したりと随分自由にやっておりましたので、マンドリン系の楽器はどれでも各自それなりに弾けるようになっていましたね。

 実は私は高校時代にも、大学の演奏会に出演しているんですよ。堀澤芳幸先輩(昭和39年/1964年卒)が当時、高校倶楽部の指導にいらしていたので、第2回・第3回定期演奏会にマンドラ奏者として出演させて頂いたのです。
 その後、高校を卒業して中央大学に進学と同時にCUMCに入部したのは、当然の流れでしたね。

- 現在の江澤先輩はどのような音楽活動をされておられますでしょうか -

 現在はヴェネルディ・マンドリンクラブに所属しており、主に指揮をしております。こちらに参加したもの堀澤先輩とのご縁です。

新入生が毎年100人!?

- それでは江澤先輩在学当時のCUMCの活動について、具体的にお聞かせを頂けますでしょうか -

 主な活動は春・秋に開催する定期演奏会に向けて、楽譜の手配、楽曲の練習が中心です。それ以外には依頼演奏などがあれば出向いて演奏する、といったことがありました。また白門祭では教室の机を片付けてスペースにして、選抜メンバーで演奏をしました。
 関西大学との交流も続いておりましたね。2年~4年に1回程度で不定期に、それぞれの学校の都合が合うタイミングで関西または東京で交歓演奏会を開催しておりました。もともと福家順一先輩(昭和38年/1963年卒)の双子の兄である福家恵一氏が関西大学に入学されていた縁ではじまり、その後も毎年というわけにはいきませんが、何年か一度に開催しましょうということで続けられていたと記憶しております。

 部員の人数は、あの頃はすごかったですね。新入生だけで毎年100人くらいは入ってきましたよ。しかし夏合宿の頃にはふるい落とされて20人くらいになっていました。合宿で本格的な練習になってくると、高校の時に音楽経験の無い新入生にとっては「これは、ついていけないな…」と感じたようで。ですから秋の定期演奏会には総勢80人くらいの部員が舞台に上がっていました。

指揮者は、よく卒業できたと思います(笑)

- 当時の定期演奏会はどのようなプログラム構成だったのでしょうか -

 当時はオリジナル曲とポピュラー曲の2ステージ構成でした。ポピュラー曲を入れるのは、そうすることでチケットが売れるのです。あの当時、チケットは一枚200円で販売しておりました。ホールの座席数が2000人弱ですと、部員一人当たり20枚のチケットノルマがあるのです。これは先輩であろうと新入部員であろうと、平等にです。販売しないと自腹を切ることになりますので、なんとか友達を頼って必死で販売しましたね。
 現在ももちろんそうでしょうけれど、ホールを借りてステージを開催すると大きな経費がかかりますから、チケット代でやり繰りする会計担当は随分と苦労をしていましたね。

- 定期演奏会の曲目はどういった流れや基準で選ばれたのでしょうか -

 当時の選曲は、すべて指揮者の独断で決定しておりました。コンマスも含めて全部員は、楽譜が配られるまで、今度の演奏会で何を演奏することになるのかわからなかったのです。

 だいたい2~3年生の頃には学年の雰囲気で、指揮者候補は決まってくるものでした。そうすると彼等はいろいろな大学の演奏会を聴きに行くようにして、これは私に合うなという曲を見つけてくるのです。そうしたら楽譜を用意するのですが、現在のようなマンドリン専門店は有るか無いかという時代でしたので、各大学に問い合わせをして、あるいは作曲家の先生を直接訪ねるなどして、楽譜を手配するのも大変だったと思いますよ。
 もちろんFinaleといった楽譜作成ソフトもありませんでしたから、写しの写しの写しを元にするような状況ですので、記譜の誤りが残ったまま楽譜が渡されるのは日常でした。間違った和音のまま練習をしているので、隣で演奏するパートを聴きながら「これは、間違っているな…」なんていうことはしょっちゅう感じておりました。

 ポピュラー曲については、指揮者自らが編曲をします。ですから、4年生になってから選曲や準備をするのではとても間に合わないのです。管楽器から打楽器まで含めて10パートくらいありますから、それを書き起こすだけでも大変な時間がかかります。指揮者は、それこそ大学の勉強をしている暇は無かったですね。よく卒業できたと思いますよ(笑)。

- 江澤先輩の代の指揮者は小林三郎先輩でしたね -

 ええ、彼も同じように苦労したと思います。

- 小林先輩が編曲された「中央大学校歌」の楽譜ですが、現在でも倶楽部で使用されています -

 現在でも使っているのですか? それ以前は別の方が編曲された楽譜が存在していたのですが、小林三郎君が優れた編曲をしてくれましたので、皆の賛同を得て昭和43年からこの編曲となりました。後輩もこの編曲が私達の倶楽部に合っていると望んでくれて、引き継いで頂きました。

TBS大学対抗バンド合戦、川淵先輩の存在

- 江澤先輩が活動されている中で、印象深いイベントなどはありましたでしょうか -

 指揮者に川淵隆弘先輩(昭和39年/1964年卒)という方がいらっしゃいました。この方は法学部で弁護士を目指していたのですが、非常に頭の良い方で、マンドリン倶楽部では指揮者として演奏をリードされている人物でした。
 1964年の「TBS大学対抗バンド合戦」に川淵先輩がCUMCを指揮して出演し、「特別賞」を受賞したのです。このイメージが非常に強く、川淵先輩がCUMCのレベルと質、それから選曲の傾向をグンと上げた方だと感じる理由です。優れた力量と才能を備える指揮者に出会うと、楽団がガラッと変わる瞬間を、私は目の前で見ましたね。
 それまでのCUMCは、明治大学や慶應大学と同じようなことを真似てチンチロチン(笑)とやっていたのが、この方が現れてから明治大学・慶應大学・早稲田大学とは違う『中央大学マンドリン倶楽部』になりました。それを創ったのが、この川淵先輩です。

- 「TBS大学対抗バンド合戦」とは、失礼ながらどういったイベントだったのでしょうか -

 これは本来、マンドリンが対象ではなかったのです。ジャズ、ハワイアン、タンゴといったポピュラー曲を演奏するバンドを対象としたラジオ番組企画でした。そこに川淵先輩がマンドリンで殴り込みをかけたわけなのです。
 通常はバンドですので椅子が10個程度で足りるのですが、「すみませんが椅子を80個くらい用意してください」と言われて、放送局の方は驚いたことでしょう。ともかく椅子と譜面台を揃えて頂き、演奏したら審査員の方が「素晴らしい演奏、素晴らしい編曲です」ということで特別賞となり、実際にラジオ放送もされました。演奏したのは、確か「引き潮」だったと思います。

 川淵先輩がいきなりCUMCのレベルを上げてしまい、音楽性や表現力を求められるようになってしまったので、その後の指揮者は大変だったことでしょう(笑)。
 CUMCの長い歴史の中には「この方はすごいな、立派だな」という指揮者が何人も現れますが、川淵先輩は私にとってその最初の方でした。先輩の言われた通りであるとか、そうではなくて、それ以上の力を持って楽団を変える指揮者が、何年かに一度CUMCには生まれてきますね。

 私と川淵先輩は5年違いでしたので、私が中央大学に入学した時には先輩は既にご卒業されていました。ご卒業後は法学を志して帰郷され、音楽活動はされていないと思います。
 どうして存じ上げているかといいますと、先ほどお話した通り、私は高校時代から大学のステージに出演していたからです。川淵先輩が指揮を振る前でマンドラを演奏して、「この方はすごいな…普通の指揮者ではないな!」と思っていたわけです。

- 定期演奏会以外の普段の活動について、もう少しおうかがいしてもよろしいでしょうか -

 当時の富坂キャンパスには練習場がありまして、音楽クラブ11団体がありましたが練習環境には恵まれていましたね。
 吹奏楽部などに比べて、室内楽的な楽団でしたから、対外的な活動というのは少なかったですね。ただ、演奏旅行というものは実施しておりました。中央大学卒業生の県人会というものが各地にありまして、何かイベントを開くというときに「音楽会」を開催して、地元の方に中央大学をPRしてくれたのです。
 そういうような経緯で私達を呼んでくれて、長崎や浜松、帯広など各地で演奏する機会を設けてくれました。各地の県人会からお声がかかると、電車に乗って演奏して帰ってくる、遠方ですと1泊してくる、という様子ですね。
 あるいは部員の中に地方出身の方がいると、その人が地元に帰って県人会にマンドリン倶楽部招請の相談をすることがありました。そこで賛同を得られれば、県人会の方々がしっかりと段取りをしてくれました。

鈴木静一先生と初めての接点

- 鈴木静一先生が指導者になられたのは、江澤先輩がご卒業された後のことだと思いますが… -

 これについては、私もひとつ思い出があるのです。
 藤本匡孝君(昭和47年/1972年卒)が、ある日私のもとを訪れまして、「鈴木静一先生のところに行きましょう」と言うのです。何故かと問うと、「これからは鈴木静一先生にCUMCを指導してもらいたいと思っています」と。明治大学には古賀政男先生、慶應大学には服部正先生と指導者がついているのに、中央大学に先生がつかないままではレベル向上に限界があり、世間の見る目も大学クラブの一つとしか見てもらえない、と藤本君は主張したのです。

 その当時の鈴木先生は映画音楽の仕事からも離れ、ご自宅で作曲活動をされている時期でした。そこで二人で先生にお電話を差し上げまして、「先生は学生の頃にマンドリンを演奏されていたと聞いておりますので、その当時からの様々なお話をうかがいたいです」と申し上げましたところ、「いいよ、来いよ」とおっしゃるのです。

 それで喜び勇んで、二人で先生のご自宅を訪問して、それは様々なお話を聞かせて頂きました。そして「CUMCにはプロの指導者という方がいらっしゃらず、ぜひ鈴木先生のご指導を仰ぎたいのです」と切り出しましたら、その場で「いいよ」とおっしゃって頂きまして、なんと富坂の練習場にいらして頂けたのです。部員も皆感激して、直立不動でお待ちしていましたね。
 いざ練習になると、やはりアマチュアですと指揮が気になるのでしょうね、少しだけ指揮を振って頂いたりしましたね。それが鈴木先生とCUMCの初めての接点でした。

 これにはまだ、いろいろな話がありまして。慶應大学も当時の鈴木先生と付き合いがありまして、「中央というところは指導者がいないので、もしその気がありましたら是非助けてあげて下さい」とわざわざ助言してくれた方もいたのです。というのは、CUMCも定期演奏会を重ねてきて徐々に名前が知れ渡るようになってくると、むしろ周囲の方達が心配になって、先生に声をかけてくれたと思うのです。
 お陰でCUMCには、鈴木先生の後もプロの指導者を招聘するという思想が身についた、と考えています。

- 大学同士でお互いに高め合っていこうというマインドは素晴らしいですね! -

 そうですね。学生のみですと、どうしても自己流で終わってしまいますけれど、プロが加わることで、音楽に対する考え方などを教えてくれますからね。

歴史は綿々と繋がれて

- 本日は江澤先輩にても、たくさんの史料をご用意頂けたようですが… -

 山野楽器の楽器資料室にてマンドリンの史料を調べたことがありまして、その際に発見した高橋三男氏の著した史料の写しがこちらにあります。この史料には中央大学という名前は出ないのですが、日本におけるマンドリンの歴史がまとめられており、現在でもとても参考になるのではないかと思います。
 特に注目すべきが、比留間賢八氏がヨーロッパ留学より帰国の際に、様々な楽器を日本に持ち帰ってきて、その中にギターとマンドリンがあったということ、ここが重要なところです。
 なぜ比留間賢八先生のお話かといいますと、比留間先生に娘さんがいらっしゃいまして、それが昭和のマンドリン奏者として広く活躍された比留間絹子女史でした。当時のラジオ等で多く耳にされたマンドリンの演奏は、竹内郁子先生か絹子先生のいずれかと言われていました。私がマンドリンを師事していた杉原里子先生は絹子先生のお弟子さんでしたので、こうして歴史が綿々と繋がっているのだなと感じた次第です。

- 最後に、現在のCUMCへ何かメッセージがありましたら、お聞かせ頂けますでしょうか。 -

 昨年、OB幹事会の場に現役の方がいらして頂けて、現在の活動などをご説明頂きました。2023年から法学部がキャンパス移転のため、それぞれのキャンパスで別れて活動しているとうかがいました。それを聞いて、これから一つの倶楽部として演奏会を開催するのは大変だなと思い、何かお手伝いできることがあれば、と考えているところです。
 マンドリンを好きな方達が集まって、一緒になって演奏会を持てることが理想だと思いますので、キャンパスを分けての練習は大変でしょうが、なんとか工夫して頑張って欲しいと思います。

(2023年7月5日 取材)