はじまりは、ビートルズ!
- 石田さんの音楽経験をお聞かせいただけますでしょうか -
私が最初に楽器に出会ったのは、中学生の頃にアコースティックギターが実家にありまして、好きだったアーティスト「ゆず」の弾き語りなどをしておりました。その後高校で軽音楽部に入部してバンド活動を3年間行っておりました。
もともとマンドリンという楽器は聞いたことがありまして、それこそゆずがライブで使用していたりして、楽器としては認知しておりましたね。ただ、フラットマンドリンの形で認識をしておりました。
中央大学に入学して、大学ではまた違った音楽に触れてみたいという想いがあり、本当はカントリー音楽のサークルがあれば入ってみたいと思っていたのです。ただ、探してみたのですが見つけることができず、その時に新歓ブースでマンドリン倶楽部を目にしたのです。
マンドリンの名前は知っていましたし、弦楽器がやりたかったこと、クラシックギターもあるということ、弦楽器のみでオーケストラを組むというのも面白そうだということで、自分から話を聞きたいと新歓のブースに行きました。よくあるのは、勧誘されてブースに連れられて行くというのがあると思うのですけれど、私の場合は逆でしたね。
実は本当は、コントラバスを志望しておりました。しかしながら他の新入生が先にいたようで空いておらず、ちょっと他の楽器を体験してみようということでマンドラの先輩に連れられて、その後は気付いたらマンドラになっていたという感じでした。ですから当初は、マンドラという楽器やパートにあまり深い思い入れは無かったように記憶しております。
小学校・中学校まで野球をしていたので、もともと音楽に興味は無く、当時の流行の曲を聴く程度でした。ただ、明確に音楽を好きになったきっかけがありまして。
2012年にロンドンオリンピックが開催されまして、その開会式でポール・マッカートニーが「Hey Jude」という曲を歌っていたんですね。もともと有名な曲で、CMなどでも耳にしていたことはあったのですが、開会式で聴いた時に改めてとても良い曲だと感じたのです。
ちょうど父親がビートルズ世代に当たりCDなどもありましたので、それをきっかけにビートルズを聴くようになり、誕生日プレゼントには「THE BEATLES 1」という有名な赤いジャケットのベスト盤を買ってもらったりして、それだけ好きになったビートルズ繋がりでいろいろな楽曲を聴くようになったというのが、私にとっての音楽との出会いですね。私の年代でビートルズから音楽にハマっていったというのも、なかなか珍しいと思いますけれど(笑)、今でもビートルズは好きですね。
- 卒業後の音楽活動についてもお聞かせください -
様々な団体でお世話になっているのですが、2023年の現時点では「Music Laboratory HAKU」に所属して演奏会に出演しました。今年は出演できないのですが「KSDマンドリンアンサンブル」および「マンドリーノ東京」に出演経験があります。それから私達の世代を中心に各大学の出身者が集って2年くらい前に立ち上がった「アンサンブル レゴラーレ」という指揮者のいないアンサンブル団体に所属しております。
鈴木静一先生の作品が大好きなので、今年は縁あって「鈴木静一展」にお声がけをいただいて参加させていただき、「鈴木静一メモリアルコンサート2023」にも出演させていただきました。「その団体ならではの良さ」「その団体でしか感じられないもの」というのがそれぞれにありますので、様々な場所で様々なタイプの音楽に触れてさせていただくことは、それは演奏の上で勉強になりますし、私自身もとても楽しいですね。
2020年 新型コロナ禍、その時
- 石田さんが4年生となった2020年は、新型コロナ禍に襲われた年でしたね -
そうですね、2020年の1月~2月頃に新型コロナが日本に到来したかな、という頃だったと思います。
今でも覚えておりますが2月頃、例年お呼びいただいておりましたグリナード永山の依頼演奏会が終了して、春の定期演奏会の練習が始まった頃のことでした。練習が終了して、部室にて4年生のミーティングを実施する直前にたまたまスマートフォンを確認したら、大学から「明後日から大学への入構を一切禁止します」というような通知があったのです。「えっ! 明後日!?」と私達一同困惑しまして。それも、いかなる理由も受け付けないという形でしたので。
- その情報はどういう形で得たのでしょうか -
当時のtwitter(現:X)にて、学友会公式のアカウントをフォローしていたのだと思います。それをたまたま目にして、もちろんミーティングはその内容になりました。
一番に大変だと思ったのは、部室においてあった楽器のことです。後輩の楽器も置かれておりましたし、無期限入構禁止ということでしたので、明日までに取りに来なければ、次にいつ取りに来られるかわからない。楽器を家に持ち帰りたい人は連絡をください、と連絡を急遽取り合いました。私は当時一人暮らしで大学近くに住んでおりましたので、後輩達の楽器を自宅に預かったりして、なんとか必要な楽器を持ち出すことができました。
今となっては大学側としても仕方のなかったことだとは思うのですが、あの時は本当に大学への怒りや悲しみを感じました。もう少し、どうにかならなかったのかな、という気持ちでした。
- 運よくツイートを確認できたから、対処できたということですよね。これがもし、確認したのが2日後であったら… -
そうです、本当にどうなっていたことか。当時、その通知を知らない学生もたくさんいたのではないかと思います。音楽研究会の他部会の方達も、本当に大変だったと思いますよ。
51年ぶりの定期演奏会中止
その後はずっとステイホームとなり、部活動のこともあまり考えられないまま4年生の春を迎えたのですが、状況はほとんど変わっておりませんでした。
とりあえず春の定期演奏会を6月に予定しておりましたので、それをどうするかという話になりました。話し合いは全てオンライン、LINE通話または時々zoomという環境でした。まだ2ヶ月位先のことなので、もしかしたら新型コロナ禍が終息して練習再開できるかもしれないという期待、また活動禁止前に合奏練習も少し実施できていたということもあり、演奏会開催に向けて準備は続けていたのですが。
ただ、日を追っても状況は変わらず悪くなるばかりで、これは春の定期演奏会開催は厳しいのではないかという流れになりました。規模の変更、曲数の変更なども考えたのですが、ただどうしても合奏練習ができないということで。
さらにネックになったのは、私達が開催したいと考えても、ホール側が開催NGという判断になってしまったらどうしようもないんですね。武蔵野市民文化会館の小ホールを予約しており、とても響きが良いホールで演奏できることを楽しみにしていたのですが。 その当時のホール側の判断がどうであったかは覚えていないのですが、最終的には春の定期演奏会は中止ということに決断せざるを得ない状況となりました。
その後も、例えば8月頃に延期して、規模・会場も変更しながら無観客でも開催するというような、様々な案を考えました。演奏会という形でなくとも、ミニコンサートのような何かしらの形でも秋の定期演奏会前に本番を踏みたいという想いがあったのですが、それも叶わずでした。コーチなども交えながら毎日のように話し合い、試行錯誤を続けておりましたが、本当に辛い日々でしたね。
同期も皆、辛かったと思います。直接会って話すのと、オンラインで話すというのは全く違うんですよね、表情や息遣いが読み取れないというのは。まさに音楽もそうだと思いますけれど。4年生同士もだんだんと気持ちが沈んでいった印象があり、話し合うこと自体が辛いものになっていましたね。楽器を弾くために倶楽部に入ったのに、私達は何をやっているんだろう… ということをとても感じていました。それは後輩達も、同様に辛かったことと思います。
演奏会が中止になったという記録を当時調べたのですが、学園紛争で中止となった1969年の第16回にまで遡るのですね。CUMCとしても歴史的な年に私達の代が直面してしまったと感じました。
- 通常は4月から新入生勧誘があると思うのですが、明らかに例年と様子が異なりますね -
新入生勧誘については、もちろん対面では何もできない状況でした。学友会が主導して、オンラインでのサークル紹介を実施しましたので、CUMCも参加をしました。1団体10分程度でサークルの紹介を行い、それを新入生が視聴するという形式でした。
正直、4年生は運営のことで新歓まで手が回らない状況で、3年生が主に活動してくれました。私としては、残念ながら全く手につきませんでした。
新歓というと、新入生と対面して「ちょっと楽器触ってみなよ」というのが基本の第一歩じゃないですか。それができず、画面上で「こんな楽器です」と紹介してもなかなか新入生には伝わらないですし。新入生の側も辛かったと思います。当時はもう、誰もが辛かったはずですね。
- 何もできないという厳しい時期、石田さんは普段何をして過ごされてましたでしょうか -
私自身はもう、アルバイトですね。卒論の準備は進めておりましたけれど、他の単位は既に履修し終えていましたので、今がチャンスと思って夜勤でアルバイトをしておりました。お金を貯める機会と思いましたが、使う機会も無いという複雑な状況で、今思えば昼夜逆転の不健全な生活になっていたかもしれません。夜勤ができた頃は、とにかく稼がないとという気持ちしか無かったです。
自宅では、マンドラの基礎練習に打ち込んでおりました。楽曲の練習をするにも、演奏する本番が決まっていない状況でしたので、それならオデル教則本の基礎練習でもやろうか、という感じでした。
アルバイト・楽器練習・話し合い…実際にできたことは、その3つではないでしょうか。
あとは、近くに住んでいる友達と銭湯に行って「黙浴」でリフレッシュしていました。それもコロナ禍中の数少ない楽しみでした。
活動再開、学内の全部会に先駆けて
夏頃まで同じような状況が続きましたが、ただ、どうしても演奏したいという気持ちは抑えられない状況でした。
その時に大学外の先輩から、オンライン配信でのアンサンブルコンサートを企画しているというお話を聞きました。ぜひ出演したいとお受けをしまして、同期2人と後輩1人を誘った四重奏で個人的なユニットを組んで学外で何回か練習して、7月にオンライン配信による本番を迎えました。現在でもYouTubeで、その時の演奏が視聴できるようです。それが久々の、誰かと一緒に演奏する本番の舞台でした。それがあったのが、自分の中でだいぶ救いになったと感じますね。そうまでしてでも、誰かとマンドリンを演奏したかったですね、当時は。
春の定期演奏会が開催できなかったので、秋の定期演奏会は絶対に開催すると4年生全員が決心して8月頃から準備を始めました。まず選曲からですが、春に決めていた選曲は一旦白紙にして考え直しました。ただ何より、活動再開ができなければ仕方がないですよね。
確か8月末くらいであったと思うのですが、大学からサークル活動再開申請の案内が出たのです。申請に当たっては条件があり、例えば食事を行わない、各自の距離を保つ、マスク着用・換気を行う、活動参加者全員の氏名リストを提出するなど、様々な項目がありました。その条件を満たして文書を提出し、審査が通過すれば活動を認めるという内容でした。
それにいち早く気付いた同期が尽力してくれて、無事に活動再開が受理されたのが9月下旬頃であったと思います。これは後々聞いた話ですが、活動再開を許可された第1号の部会は2団体のみで、その一つがCUMCであったとのことです。
活動再開できるとなって皆大喜びで、酒折文武監督からも「最初に再開されて誇りに思っています」という内容のメールを頂きました。
再開初回の練習はトップ合奏のような形で、学外の北野市民センターを借りての活動でした。2・3回後の練習から後輩達も合流してもらいました。久しぶりで、雰囲気がすっかり変わっている部員もおりましたね。
選曲の話に戻りますと、CUMCでは毎年鈴木静一先生の作品を必ず演奏してきており、自分達も鈴木静一作品を演奏して引退したいというのは譲れない気持ちでした。ただ、鈴木先生の作品を演奏するには管打楽器のエキストラを招聘すべきところですが、当時は管楽器の飛沫が問題視されていた時期で、管楽器を加えることができないという判断になってしまいました。そもそも練習期間が短く、出演をお願いするのが難しいという事情もありました。
弦楽器のみの編成であっても何とか鈴木先生の作品を演奏したいという中で検討して、最終的には「組曲「山の印象」」をやろうという形になりました。
また、春の定期演奏会で演奏する予定だった吉水秀徳作曲の「3 Dimensions」、これは楽譜も春の時点で行き渡っておりますし、春に多少は練習をしておりましたので、これにしようと。本当は鈴木静一作品を最後に演奏して引退したかったのですが、演奏会のバランスとしてこちらの方が良いのではないかというコーチのアドバイスなどもありまして、プログラムの最後としました。
そういうわけで演奏会は2部構成・前半2曲/後半2曲として、演奏曲も若干減らして弦楽器のみ編成ということに落ち着きました。
制限された状況、2つの革新
演奏曲目は決まったのですが、本番の日程は12月11日にめぐろパーシモンホールと決まっており、練習期間が2ヶ月半しか無いのです。例年であれば夏合宿も終わっており、ある程度弾けるようになっているはずの時期なのですが。なおかつ、久しぶりに楽器に触れたという後輩もいる状況でした。そこで2点、例年と変えたことがありました。
1点目は、先ほど申し上げた通り合宿ができないということで、それであれば「強化期間」という、例えば3日間連続で練習する期間を設けて、寝泊りはできませんが毎日練習場を夜間まで予約し、この期間はなるべく部員に参加してもらい集中して練習に取り組もうという期間を設けました。そのような期間を確か2回くらい設けたように記憶しております。
2点目は、本番を「オンライン配信」としました。これが画期的だったと自負しております。このアイディアも、同期の誰かから出たものだと思います。予算が10万円くらいでしたかね。YouTubeオンライン配信と同時にアーカイブも残るという、本当に前例のない初めての試みでした。大学の音楽サークルでそういったことを実施したというのも本当に早い時期でしたし、これについては多方面の方々からお褒めの言葉を頂きました。
何よりもオンライン配信としたことによって、会場にもお客様にご入場頂くことができたのですが、ステイホームや様々な事情で会場に来られないという方々からも、ご自宅の大画面TVで視聴頂けたというお話を聞くことができました。中には、海外からご覧頂いたというOBもいらっしゃったようで、オンライン配信のチャット欄がプチ同窓会になっていたみたいですね(笑)。映像のクオリティも高く、カメラの切り替えで演奏者や指揮者の表情もアップで見て取ることができて、本当に良い取り組みになったと思います。
こういったことを発想できた仲間がいて、それに賛同する同期全員で、何とかして自分達の音楽を少しでも多くの人に届けたいという想いがあったので、本当に良かったです。
今思えば、2ヶ月半の練習期間で、合宿も無く活動を様々に制限される中で、これだけのクオリティで演奏会を開催できたのは本当に当時の自分達を称えたいと思います。私達は秋の演奏会を開催できましたけれど、他の大学を眺めてみると、ほとんど軒並み中止だったんですね。CUMCの他には本当に数校のみであったと思います。
絶対に引退のステージは開催したい、という強い想いが実を結んだのではないかと今にして思います。
私達が試みた強化期間やオンライン配信について、翌年もまだ活動が制限される中で、後輩達も同じように継続してもらうことができたというのは、私達にとっても嬉しかったです。
- 翌年以降に繋がる行動になっていたというのは、間違いなくそう思います -
あの1年を乗り越えた”想い”
- 2020年という一年を過ごして、率直にどうでしたか? -
いや… もう、何をすればよいのかわからない、あまりに未曽有のこと過ぎて、誰も経験したことのない、誰にもわからないことでしたので…。ただ、そんな中でも何とかして、マンドリン音楽活動を皆で再開したいという強い気持ちがありました。
正直、心が折れそうになったことは何度もありました。先ほども申し上げました通り、活動はオンラインでの話し合いばかりなので、どんどん気分が沈んでいく日々で…。もう演奏会もいっそのこと、休憩無しで2曲でもできたら十分ではないか、鈴木静一作品も実現は厳しいのではないか、という話が同期から出始めて、それに賛同する声も多くありました。
それでも自分は、これまで3年間頑張ってきたことをここで妥協したくはないという想いが強く、また鈴木先生の作品は何かしらの形で演奏したいという想いもありました。
そこで、自分の本音というものを話したところ、それに賛同してもらえる同期も増え始めて、無事に実現することができまして。あの時もし自分が諦めていたら、全く違う形になっていたのではないかと思いますし、あの時本音を語れて良かったなと思います。それくらい、皆が沈んでいた時期はありました。
- 石田さんの想いがあったから、翌年にも繋ぐことができたということですね -
いやー(笑)、自分だけの想いではないのですけれど、それに賛同してくれたというのが大きくて。当時のその場では、なかなか意見というのも出づらく、本音も語りづらい雰囲気でした。
- わかります。オンライン会議って、何かが変なんですよね -
そう、何かが変なんですよ。思っているけれど言えないという部分が、皆に共通であって。
ただもう、大学4年生 最後・引退の演奏会は一回きりだぞ、と。自分自身が1年生から始めて育ってきて、また先輩方達が今まで本当に頑張ってきて、それだけは無駄にしたくないという想いがありましたね。本当にあの時、自分の気持ちに噓をつかなくて良かったなと思います。それを繋いでくれた後輩にも、感謝しかないです。
石田友也、鈴木静一愛を語る!
- 大事にしてくれたその強い想いは、もう少し具体的にお聞きしてしまいますと、鈴木静一作品への想いは、どこでいつから生まれたのでしょうか -
マンドリンを始めて様々な音楽や、様々な先輩方と出会い、自分達もあのように格好良く引退したいという想いがありました。その中でも自分の気持ちを大きく揺るがしたのが、やはり鈴木静一先生の作品であると思います。
最初の出会いは、1年生の秋の定期演奏会にて演奏した「大幻想曲「邪馬台(幻の国)」」でした。初めて聴いた時に、「すごい音楽だな…」と。主題が一度収まって、もう一度復帰してくるところ(※69小節目)から始まるチェロとギターの「ミシファシ、ミシファシ…」あれが、とにかくかっこいい! と。それに聴き惚れてしまいました。
先ほどお話したようにギターの経験はあったので、自分でもちょっとやってみたいと思い、夏合宿で先輩からギターをお借りして左手の押さえ方を教えてもらい、「うおぉ、これだー!」という感じで(笑)。「石田はあの時、合宿でミシファシやってたよね」というのは、当時の先輩や同期には有名な話だったと思いますよ(笑)。
当時はクラシックも聞いたことがなかったですし、1曲が3分~4分のポップスに馴染んでいた私としては、演奏時間20分だと聞いて「なんだ、それは!?」という感じでした。ところが聴いてみると、これがおもしろい。それが衝撃的な最初の出会いで、それからは完全にとりつかれましたね。
先輩からも、「大学から始めて、これだけのめり込む人間はなかなかいないぞ」ということで、こういう曲もあるから聴いてみろと、部室に保管してあるコムラードマンドリンアンサンブルのCDを貸してもらい、聴き漁っていました。没後十五年記念演奏会で出版された「鈴木静一 そのマンドリン音楽と生涯」の存在も知るや否や購入して、隅々まで読み漁りましたね。気が付けばどんどん、鈴木静一の創る世界観に魅了されてしまったようです。
マンドリンと出会って私の人生が大きく変わったと思うのですけれど、鈴木静一という作曲家に出会えたことも今の自分に与えている影響は大きいと思います。もちろんマンドリンに出会わなければ鈴木静一作品を知ることも無かったですし、あの時CUMCの新歓ブースを自ら訪れて本当に良かったなと今では思います。
もしも、ここに…?
- 最後に、ここにもし鈴木静一先生がいらっしゃったら、どんなお話をされたいですか? -
えーっ!? そんな絶対に有り得ないことを…? でも、一度お話をしてみたかったですよね。実際にお会いしたら、緊張で何を話してよいかわからなくなると思いますけれど…
でも、まずは感謝の気持ちを伝えますね。本当にいろいろな作品を生み出してくださったこと、そして今でも弾き継いで語り継いでいる人がいますよ、ということを伝えたいです。
それから個人的にお聞きしたいこととして、戦前・戦後で日本中に大きな価値観の変化があったと思います。それでは戦前の作品はどういう想いで作曲されていたのか、そして戦中・戦後も映画音楽に長く携わっておられたと思いますが、そこの話もお聞きしたいです。特に戦時中のことなどは文献を見てもなかなか出てこないので、例えば戦争映画の音楽にも携わっていたということで、どういった想いで戦争というものを見ていたのかということも気になります。純粋に作曲家の仕事として作っていたという面もあると思うのですけれど、その当時の日本の状況というものをどう捉えておられたのか、と。
ああ、そうです! 私がなぜここまで鈴木静一作品の虜になったかというと、大学で日本史学を専攻していたのが大きいのです。鈴木静一作品の題材には「歴史物」が多いじゃないですか。曲想にもロマンを感じるものがあり、歴史を感じ取れる作品が多いということで、そこに何かシンパシーを感じたという面が強かったです。歴史と音楽とマンドリンを繋げているのがおもしろいな、と。
私が日本史学専攻ではなかったら、そこまで鈴木静一作品に魅力を感じていたかというと、微妙だったかもしれません。それだけ、鈴木先生の歴史を題材とした作品に魅力を感じておりました。
(2023年8月24日 取材)