鳥居 良次(とりい りょうじ) 平成14(2002)年卒

押しに負けて、人生が決まった!?

- 鳥居さんがマンドリンと出会ったきっかけからお聞かせください -

 中央大学附属高等学校に入学しまして、マンドリン倶楽部(当時の音楽部)に入部したのが具体的なマンドリンとの出会いでした。
 これは入部した後に気付いたのですが、たまたま自宅に中大附属の第25回定期演奏会C Dがあったようでした。私の兄も中大附属出身でしたので、付き合いで定期演奏会に行ったときに購入してきたのだと思います。ただ、入部前に私がそのC Dを聴いていたことはなかったと思います。ですので、具体的にマンドリンという楽器や音を認識したのは高校1年の5月くらいのことであったと思います。

- 入部のきっかけはあったのでしょうか? -

 実際のところは、先輩に勧誘されて連れてこられたという感じですね。
 どちらかというと本当は、ホルンを吹きたかったのですよ。タイミングが違っていたら、きっと吹奏楽部に入部していたのではないかと思うのですが。

 音楽を聴くこと自体は嫌いではありませんでしたが、中学までは専門的に楽器に触れることはなく、音楽の授業程度でした。中学校では卓球部に所属しておりましたが、あまりやる気のない部員でした。

 高校の運動部は自分の体力レベルではキツいだろうし、音楽系の部活もアリかな、ホルンの響きというのがどうも肌に合っていたらしく、なんとなくやってみたいな…と考えているうちに、教室で昼食をとっていた時に当時2年生の先輩がやってきて「君、暇そうだったらちょっと来ない?」という勢いに負けて、フラフラとついていったという感じでした。
 図書館の地下1階にピロティと呼ばれる広いスペースがありまして、そこで昼練習をしているところに連れて行かれました。そこで初めて「ああ、弦楽器なのか」と間近でマンドリンを目にしたのでした。最初の印象としては「軽くて小さいな」「弦楽器だから、肺活量がなくても大丈夫だな」という、極めて現実的なことでした。

- ホルンを選んでいたら、肺活量のことは大変でしたよね -

 そう! しかも実は、管楽器でも音を出すのが一番難しいんでしょう? 後々、ウインドオーケストラのマンドリンエキストラとして舞台に乗ったことがあるのですが、ホルンの方が一番叩かれていましたね(笑)。こちらはテレビやラジオから流れてくるプロの音でしか知らなかったわけだから、「ああ、ホルンというのはこんなものなのだな」と思っていたのですが、「アマチュアのホルン奏者というのはこんなに大変なんだ!」ということを認識しました。

- 失礼ながら、今では鳥居さんがホルンを吹いているイメージがとても持てないです(笑) -

 そうでしょう? あの時の自分の選択は、神懸っていた(笑)と思いますよ。
 今言うと失礼なことですけれど、必ずしもメジャーなものではないマンドリンという楽器をやってみるのも、他人と違ったことをするという意味でアリかな、とその時は思いまして。
 そして、マンドリン系楽器にもマンドラやマンドロンチェロなどいくつかパートがあるということでしたが、「重くて大きくて、運び辛そうだな」という大変に不純な理由でマンドリンを選びました。

- それでは、マンドリンを選んだことに特にこだわりがあったということでは無かったのですね -

 はい、全くナシでした。まあ、そういう人の方が多いのではないでしょうか。こだわりがあって選んだ方には失礼ですが、少なくとも私にとっては音楽をするための楽器の中で、たまたま出会ったのがマンドリンであったという感じでした。

- 大学でもマンドリンを続けようと思った理由などはありましたか? -

 無い、というのが正直なところでしょうか。自然と、続けるんだろうな、というような。附属高校から始めて大学で続けた方のうち、多くがそうだったのではないかと思うのです。
 もちろん、マンドリン以外のものに興味を持つとか、「こんな先輩達や音楽とは関わりたくない!」と思うことがあっても良いわけですが。私はそこまで嫌いになることはなく、むしろ好きだったわけですね。高校3年間で、他人より好きになる程度には打ち込みましたし、自分で言うのもなんですが他人より楽しんで弾ける程度の技術は身に着けることができたかな、とは思ってはいました。

- それでは、高校生活の3年間が鳥居さんにとっては大きかったですか -

 大きかったというより、原点ですかね。そこで、人生が半分くらい決まったようなものでした(笑)。

歴史的な人数縮小期に

- ちなみに当時の中大附属は男子校でしたね -

 はい、男子のみ1学年500人の頃でした。

- そうすると大学は共学ですので当然女子学生もいるわけですが、当時の人数比はどうだったのでしょうか -

 学年にもよるので難しいのですが… 全体としては男子が多かったです。何故かというと、中大附属から内部進学してくる比率も多かったので、マンドリン倶楽部に入部する経験者というと、まず中大附属の男子学生、となりますね。

- 他の高校でマンドリンを経験して入部された方や、大学で始められた方はいらっしゃいましたか? -

 はい、いました。先輩方には前橋女子、川越東、浦和第一女子などいらっしゃいましたし、大学で始められた方もいました。ただもちろん、中大附属からという比率も多かったです。

 私の代はそもそも、人数が最終的に少なかったのです。卒業した時は5人でしたが、一番減った時は3人にまでなりました。珍しいパターンだと思うのですが3年生の時に、短大から中央大学に編入学した方で新たに3人入部して頂いたのです。

- そういうことがあったのですか? 最近では聞いたことがないですね! -

 そうでしょう? 短大自体が、既に少ないですからね。それも内2人は未経験からで、その2人とも卒業まで2年間続けて頂きました。それでももちろん学年ではとても全パートを揃えることができませんでしたし、少なかったですね。

- それは厳しいですね。先輩後輩の人数も少なかったのですか? -

 そんなことはないです… と言いたいところなのですが、2年上の代は最終的に1人でした。私達の代も少なかったことがあり、当時はCUMCの歴史的にも人数が最も縮小していた頃だったのではないかと思います。

- 鳥居さんが高校生の頃にご覧になったCUMCは、もっと人数が多かったということですかね -

 そうですね。ですから、私も大学で入部したらこれくらいの人数で大規模にやるんだろうな、と勝手にイメージは膨らましていましたね。

- 実際に入部してみたら人数の少ない状況だったと… こんなことを申してはなんですが、廃部の危機などは感じていらっしゃいましたか? -

 はい。実際に皆、意識はしておりましたし、そういう話もしておりました。

- そうでしたか… そう考えると、現在CUMCが継続しているということは鳥居さんにとっては… -

 おかしな話ですけれど、現在の現役の方々に対して、逆に私自身は極端には危機感を感じてないというか(苦笑)。これだけ人数の少なかった代でも続いたので、皆さんもこれから頑張れば大丈夫ですよ! と言うと、とても無責任な発言だと思うのですけれどね。

- そうですね。人数規模だけで言えば、現在以上に厳しい時期だと言えますね -

 この話、長くなってもよろしいんですかね… 私が大学2年・春のパンフレットをお持ちしておりますが、ご覧になりますか? ステージメンバー、だいぶキュッとコンパクトになっているでしょう?

- ああ、キュッとしてますし… 首席奏者のほとんどが下級生で、2プルト・3プルトが組めないパートばかりですね -

 ちなみにこのパンフレットも部員数が少ないことから出費を節約するために、紙だけを購入して自前のプリンターで印刷しているのです。

第76回定期演奏会パンフレット

- 曲目を拝見しますと、それでも第2部はそれなりに人数が必要そうなプログラムですね -

 そうですね、よくやりましたよね。「組曲「樺太の旅より」」は、それでも鈴木静一作品の中でもエキストラの必要人数が少なく、なおかつ難易度が極端に高いものを避けて、という方針で選ばれたはずです。吉水秀徳の「2つの動機」も、どうにかできるかな、と。

- それでもエキストラを加えて、楽譜通り演奏したのですね。この人数で、現在のCUMCが選曲したら… -

 怒られますよね(笑)。ただ、演奏自体の評判は意外に高かったですね。当時、部員全体の必死感もあったのかと思います。
 演奏会会場は府中の森芸術劇場ウィーンホールです。併設するどりーむホールではなくウィーンホールですので、武蔵野市民文化会館の小ホールと同じくらいのサイズ感です。
 これも以前の人数規模でしたらウィーンホールなどは使用しなかったでしょうし、私が入部する前後くらいから人数が少なくなった影響で、むしろウィーンホールでも丁度良いという判断になったのでしょう。ウィーンホールの豊かな残響を味方にできたのも、結果的には大きかったと思います。

60周年記念、当時のOBとの距離感

- 第77回定期演奏会(創部60周年記念演奏会)を鳥居さんは2年生の時に経験されているのですね -

 こちらも当時のプログラムをお持ちしておりますが、第2部をOB・OG合同記念ステージという形としております。前半の第1部は、学生+一部OB・OGによるステージです。
 ご覧の通り、本当にたくさんのOB・OGにご出演を頂きました。合同ステージはパートにもよりますが、6割~8割がOB・OGですね。

第77回定期演奏会(創部60周年記念演奏会) OB・OG合同ステージ

- これは、当時の部員数が少なかったから、という意図もあったのでしょうか? -

 この当時、自分の口から言うのもなんですが、OB・OGとの距離感が短かく、比較的仲が良かったように思います。
 私の話をしますと、1年生の秋頃にOBの方から「平山城址公園でサッカーをするから来ないか?」という感じで声をかけられまして。いざ行ってみたら、学生は自分一人で他は全員OBなんですが。「なんだ、この集まりは?」と思いながらも、そのままサッカーしたり、食事を奢ってもらったりしました。年代の近いOBで、顔や名前は存じている方ばかりでしたからね。
 何故存じ上げているかということについて一応説明が必要かもしれませんが、当時の中大附属ではOBにコーチとして指導をして頂く体制でした。その年の大学3年生の指揮者的な立場の方が中心になり、もちろんその他のパートや学年の方にも手伝って頂いて、中大附属に教えに来るというスタイルでした。
 ですから高校当時の私も、大学ではこういう方が活動されているのだなということは認識しておりました。また大学になると、OB・OGの方がよく合宿に遊びに来てくれるじゃないですか、コーチという立場ではなく。そこで一層交流を深め、間近で演奏を聴くことで、「こんなすごい方・こんな面白い方だったのか!」と距離感を縮めさせて頂く機会になりましたね。

- OB・OGの方からしても、現役生が非常に少ない中で、少しでも何かしたいという気持ちがあったのではないでしょうか -

 恐らく、そういう想いはお持ちだったと思いますよ。責任感といったものもあったかもしれませんしね。
 それは私の立場でも切実に感じますので、今も仕事として行っております「新入生勧誘セミナー」などには力が入ります。当時も、下の学年を教え育てるということについて、個人的には頑張ったつもりではおります。後輩達もお陰様でそれなりの人数が続けてくれましたが、3年下の学年についてはあまり力になれなかったという心残りはあります。

80回記念、コーチ体制の変更

- 4年生の時にも、再び記念演奏会を開催しておりますね -

 開催しないといけないという決まりはないんですけれどね(笑)。ただ、そういう雰囲気もありますし… 自分達が4年生の時に第80回を迎えるということは、当然意識しましたね。

- この時も創部60周年記念と同様に、第1部を現役ステージ・第2部を合同ステージという形式だったのでしょうか -

 この回は、少々特殊な形をとっておりますね。
 1曲目・オープニングの「大学祝典曲「栄光への道」」は合同演奏なのです。そして学生+一部のOB・OGにて、2曲目・吉水秀徳「プレリュード3」、3曲目・藤掛廣幸「星空のコンチェルト」です。そして「星空のコンチェルト」については当時のコンダクタートレーナーである柄本卓也先輩(平成8年(1996年)卒)に指揮をして頂きました。
 第2部については鈴木静一「楽詩「雪の造型」」、「交響譚詩「火の山」」2曲とも合同演奏の形をとっております。指揮は、常任指揮者であった前野一隆先輩(平成2年(1990年)卒)、コンサートマスターは音楽技術顧問のプロマンドリニスト・青山忠先輩(昭和57年(1982)年卒)です。

第80回記念定期演奏会~鈴木静一先生生誕百年記念~ OB・OG合同ステージ

- トレーナー、常任指揮者、音楽技術顧問… 失礼ながら、私には聞き慣れない役職ですね -

 そうですね、ここも説明が必要ですね。ちょうどこの前年の秋から、コーチ体制が変わったということがありました。それまでは総合コーチに桐朋学園大学講師の合田香先生、技術コーチに青山先生、アシスタントコーチに前野先輩という体制で10年近く続けて頂いていたのです。
 大きく変わった点としては、合田先生が音楽監督という役職になり、先ほど申し上げた音楽技術顧問・青山先生、常任指揮者・前野先輩、ここに新たにコンダクタートレーナー・柄本先輩と、テクニカルトレーナー・酒折文武先輩(平成10年(1998年)卒)が加わって頂きました。

 これまでは、学生が決定したプログラムやイベントについて音楽的にコーチングするという形でした。音楽監督に就任頂くことで、選曲等も含めた音楽的な面での運営全般に関して直接的に指導して頂くという形になりました。具体的には選曲のバランスであるとか、この人数・このホールでどういったプログラムに並べるべきであるか、各楽曲について首席奏者に誰が就くか、といったことを音楽的な見地から指示をして頂くということです。
 合田先生をはじめとするコーチの方々に、CUMCの倶楽部活動へより深く手を入れて頂くことで、活動内容を音楽的に高めていく、ということです。これは管弦楽や吹奏楽の世界では、むしろ一般的なスタイルかと思います。そういった方針にしたのが、2000年の秋シーズンからなのです。

- 鳥居さんの代は人数が少なかったこともあり、指揮者を立てなかったのですよね。例えば常任指揮者というものを設けたのは、そういう経緯もあってということでしょうか -

 恐らく、そういったことも総合的に考えていらっしゃったのでしょうね。

- 以降の定期演奏会は、常任指揮者が必ず指揮をしたということでしょうか -

 以降は各学年に指揮者がいたこともあり、実態は必ずしもそうではなかったです。常任指揮者が指揮をするという選択肢もある、ということでしょうか。クラシックのコンサートとしてお客様に演奏をお聴き頂く上で、どういった人選が適切かということも都度判断するということですかね。
 例えば私達の代で言えば、指揮者を立てられない・指揮者を立てない方が望ましい、という状況であってもお客様に満足して演奏会をお聴き頂くためには、学生以外から指揮者を立てるという提案も必要だよね、という判断があったわけです。

- すると、この体制になってからは演奏会の取り組み方に大きな変化があったということでしょうか -

 大きな変化があったかというと、なかなか一言で説明するのが難しいのですが…
 一つには、私達の代の人数的な意味での不甲斐なさもあったのだと思います。そうなりますと、下の学年から抜擢しないと厳しいのではないか、そうは言っても学年の上下といった人間関係に配慮するべきではないか、というようなことを学生同士の中で判断・決定することに難しさはありますよね。
 そういった点について、我々の気持ちを汲んで頂いたところもあったのではないかと思います。外部の専門的な知識を持つ第三者から提案を示して頂くことが、当時の状況としてはCUMCとコーチの双方にとって理にかなった形だったと理解しております。

- このような指導体制の変遷は、現在CUMCに所属する学生にとっても参考になるかもしれないですね -

 現在の指導体制が最初から当たり前のものではなく、実はこういった変化を経て今の体制になっているということについては、もしかしたら参考になるかもしれませんね。

二度の”記念”を経験して

 本当にOB・OGやコーチなど、人に支えられ続けてきたのが私達だと感じております。私達の人数の少なさや技術の拙さについてカバーするために、口の悪い言い方で正直に申し上げるなら「利用をさせて頂いた」という想いもありました。
 ただ、そこにはもちろん尊敬や敬意もありましたし、親切なお気持ちを頂戴したからには無下にすることなく活かすことが最大の恩返しである、と少なくとも当時の私は考えておりました。

 第80回に関しましては、CUMCの音楽性において大事な部分を築いて頂いた鈴木静一先生の生誕百年を2001年に迎えるということで、メモリアルの意味合いを込めた演奏会にするのも良いのではないかと考えました。そういったことで、鈴木静一作品を3曲も並べてしまいました。アンコールの「祝宴」も含めると4曲ですね。

- 実はプログラム全曲が邦人作品というのも、すごいですね! -

 さすがに、やり過ぎですね(笑)。一回くらいやってみても良いのでは? と考えたのですが、今思えばちょっとコッテリし過ぎですかね。
 この選曲に関しても、音楽監督の指導がかなり入るようになりました。この曲で良いのか? この組み合わせで良いのか? といったことを話し合わせて頂きました。
 本当は「音楽物語「朱雀門」」などもやりたかったのですが、ナレーションを入れるとどうしてもナレーションがメインになってしまい、音楽性をトレーニングすることを考えるとこの時期には相応しくないだろうという判断がありました。
 その他にも曲の並べ方であるとか、敢えて学生ステージの指揮者にコンダクタートレーナーを選択するといった、CUMCの過去の演奏会に捉われないトリッキーな仕掛けを演出して頂きました。

- こちらに、2000年当時に鳥居さんがお作りになった第80回の企画案をお見せ頂いておりますが、当時からこういったものをまとめるのがお好きだったのですね -

 当時、暇だったんでしょうね(笑)。まあ、好きは好きだったということでしょう。これだけまとめても腰が重くて、具体的な打ち合わせは前年の12月末からようやく、という辺りがもうダメですよね(笑)。

- 当時、21歳くらいでしょうか? その頃から鳥居さんは鳥居さんだったのだ! と、こちらのレジュメを拝見して感じました -

 うーん… そう言われるとそうだな、と思います。昔から、こんなことばかりをやっていましたね。

- 実際のところ、記念演奏会の開催は大変でしたか? -

 率直に申し上げますと、私自身はあまり大変だとは感じませんでした。後輩の方がむしろ大変に感じていたかもしれません。2年前に60周年の開催経験があったということもありますし、OB・OGと一緒にやるということも特別に違和感はありませんでした。コーチ・OB・OGからも積極的に支えて頂けるという印象があったので、皆さんのお力を借りて楽しませて頂いたことの方が辛さよりも記憶に残っております。

 むしろ、その年の秋の方が厳しかった印象があります。学生主体の限られた人員で開催しなければいけないということもありましたし、当時はいわゆる「氷河期世代」で就職が厳しかった時期でもありました。就職活動で気持ちがすり減ったまま新歓活動についてもあまり力になれず、演奏面でも指揮者を立てられなかったという半端な責任感があって空回りすることが多かったように思います。
 合同ステージの感触を多く知っているが故のやりづらさ、というのも、もしかしたらあったのかもしれません。

- ご卒業されてからの音楽活動はいかがでしょうか -

 卒業してすぐに「クリスタルマンドリンアンサンブル」に所属して、2020年まで出演しております。また卒業の翌年に「ポルタビアンカマンドリーノ」が結成され、発足から2019年まで出演しております。他に「マンドリーノ東京」での出演、また近い世代で集まって高齢者施設や地域イベントでのアンサンブル活動を行っていた時期もあります。

必要な時に、役に立てる場に

- OBとなっても演奏活動を続けておられる一方で、現在はマンドリン専門店に勤務されておりますが、マンドリンをお仕事にされたいという想いがあったのでしょうか -

 転職して現在の勤務先に就職しているので、卒業してすぐにそういう想いがあったわけではないのですが。
 マンドリンというものが、私の情操的なものを大きく育ててくれたと思っております。内なる感情を引き出し表現するといったことは、音楽から学んだことも非常に多いです。そういったことを様々な方に体験・共有して頂く、それを仕事にしていくという生き方も良いのではないか、と。恩返しという言い方は大袈裟かもしれませんが、そういった想いを持って「マンドリン・クラシックギター専門店 株式会社イケガク」に現在も勤務しております。

- 現在のCUMCも、部員の減少や法学部キャンパスの移転等により厳しい状況に直面しております。時代の違いこそあれ、やはりCUMCの厳しい時期を共有している鳥居さんから、現在のCUMCへ投げ掛けたい言葉はございますでしょうか -

 いや、もう、ありのまま活動して頂ければよろしいと思いますが…

 実際、学業と両立しながらどこまで活動にエネルギーを使うかというのは、私達の時代とは違うので、難しいことがあると思うのです。私は今も父親から、「中央大学法学部”音楽学科”を卒業しやがった」と言われますから(笑)。

 皆さんそれぞれ自分達の「こうしたい」「ああしたい」という、あるべき姿があって、その生活の中に音楽がいてくれれば良いな、と思います。それがマンドリンという楽器を使用した合奏であれば、より良いですね、と。
 極端な話をするなら、もしかしたら5年後・10年後のCUMCは、現在のようなマンドリンオーケストラによる合奏で定期演奏会を開催している団体ではないかもしれません。私達の時代も、コンサートの形が変化したように。例えば衣装などが変化しているのも、それは時代の変化ということで理解しております。今の時代時代に応じた形で楽しんでいってもらえば良いかと思います。
 「伝統」というものは物事をスタートする時に基盤になってくれる有難いものですが、必ずしもそれにずっと捉われなくても良いのではないかと思っています。

- 時代に即したCUMCの在り方というものを模索して、私達OB・OGとしてはそれをできる限りサポートしていくということですね -

 そうですね。その中で、何か頼りたいということがあれば何とかするよ、と。目上の人達というのは、頼られることに意外と弱いんですよね。「そうか? しょうがねぇなぁ(笑)」という感じで。

 実は、これだけOB・OGと繋がりのあるマンドリンの学生団体というのも、現在では稀少なんですよね。それは決して悪いものではなく、大きなものだと思うのです。そこは私も含めたOB・OGの方も分をわきまえるべきですが、とは言え、何か力になれる時に力を発揮できるようなところに居たいとは思います。

(2023年8月24日 取材)

石田 友也(いしだ ゆうや) 令和3(2021)年卒

はじまりは、ビートルズ!

- 石田さんの音楽経験をお聞かせいただけますでしょうか -

 私が最初に楽器に出会ったのは、中学生の頃にアコースティックギターが実家にありまして、好きだったアーティスト「ゆず」の弾き語りなどをしておりました。その後高校で軽音楽部に入部してバンド活動を3年間行っておりました。
 もともとマンドリンという楽器は聞いたことがありまして、それこそゆずがライブで使用していたりして、楽器としては認知しておりましたね。ただ、フラットマンドリンの形で認識をしておりました。

 中央大学に入学して、大学ではまた違った音楽に触れてみたいという想いがあり、本当はカントリー音楽のサークルがあれば入ってみたいと思っていたのです。ただ、探してみたのですが見つけることができず、その時に新歓ブースでマンドリン倶楽部を目にしたのです。
 マンドリンの名前は知っていましたし、弦楽器がやりたかったこと、クラシックギターもあるということ、弦楽器のみでオーケストラを組むというのも面白そうだということで、自分から話を聞きたいと新歓のブースに行きました。よくあるのは、勧誘されてブースに連れられて行くというのがあると思うのですけれど、私の場合は逆でしたね。
 実は本当は、コントラバスを志望しておりました。しかしながら他の新入生が先にいたようで空いておらず、ちょっと他の楽器を体験してみようということでマンドラの先輩に連れられて、その後は気付いたらマンドラになっていたという感じでした。ですから当初は、マンドラという楽器やパートにあまり深い思い入れは無かったように記憶しております。

 小学校・中学校まで野球をしていたので、もともと音楽に興味は無く、当時の流行の曲を聴く程度でした。ただ、明確に音楽を好きになったきっかけがありまして。
 2012年にロンドンオリンピックが開催されまして、その開会式でポール・マッカートニーが「Hey Jude」という曲を歌っていたんですね。もともと有名な曲で、CMなどでも耳にしていたことはあったのですが、開会式で聴いた時に改めてとても良い曲だと感じたのです。
 ちょうど父親がビートルズ世代に当たりCDなどもありましたので、それをきっかけにビートルズを聴くようになり、誕生日プレゼントには「THE BEATLES 1」という有名な赤いジャケットのベスト盤を買ってもらったりして、それだけ好きになったビートルズ繋がりでいろいろな楽曲を聴くようになったというのが、私にとっての音楽との出会いですね。私の年代でビートルズから音楽にハマっていったというのも、なかなか珍しいと思いますけれど(笑)、今でもビートルズは好きですね。

- 卒業後の音楽活動についてもお聞かせください -

 様々な団体でお世話になっているのですが、2023年の現時点では「Music Laboratory HAKU」に所属して演奏会に出演しました。今年は出演できないのですが「KSDマンドリンアンサンブル」および「マンドリーノ東京」に出演経験があります。それから私達の世代を中心に各大学の出身者が集って2年くらい前に立ち上がった「アンサンブル レゴラーレ」という指揮者のいないアンサンブル団体に所属しております。
 鈴木静一先生の作品が大好きなので、今年は縁あって「鈴木静一展」にお声がけをいただいて参加させていただき、「鈴木静一メモリアルコンサート2023」にも出演させていただきました。「その団体ならではの良さ」「その団体でしか感じられないもの」というのがそれぞれにありますので、様々な場所で様々なタイプの音楽に触れてさせていただくことは、それは演奏の上で勉強になりますし、私自身もとても楽しいですね。

2020年 新型コロナ禍、その時

- 石田さんが4年生となった2020年は、新型コロナ禍に襲われた年でしたね -

 そうですね、2020年の1月~2月頃に新型コロナが日本に到来したかな、という頃だったと思います。
 今でも覚えておりますが2月頃、例年お呼びいただいておりましたグリナード永山の依頼演奏会が終了して、春の定期演奏会の練習が始まった頃のことでした。練習が終了して、部室にて4年生のミーティングを実施する直前にたまたまスマートフォンを確認したら、大学から「明後日から大学への入構を一切禁止します」というような通知があったのです。「えっ! 明後日!?」と私達一同困惑しまして。それも、いかなる理由も受け付けないという形でしたので。

- その情報はどういう形で得たのでしょうか -

 当時のtwitter(現:X)にて、学友会公式のアカウントをフォローしていたのだと思います。それをたまたま目にして、もちろんミーティングはその内容になりました。

 一番に大変だと思ったのは、部室においてあった楽器のことです。後輩の楽器も置かれておりましたし、無期限入構禁止ということでしたので、明日までに取りに来なければ、次にいつ取りに来られるかわからない。楽器を家に持ち帰りたい人は連絡をください、と連絡を急遽取り合いました。私は当時一人暮らしで大学近くに住んでおりましたので、後輩達の楽器を自宅に預かったりして、なんとか必要な楽器を持ち出すことができました。
 今となっては大学側としても仕方のなかったことだとは思うのですが、あの時は本当に大学への怒りや悲しみを感じました。もう少し、どうにかならなかったのかな、という気持ちでした。

- 運よくツイートを確認できたから、対処できたということですよね。これがもし、確認したのが2日後であったら… -

 そうです、本当にどうなっていたことか。当時、その通知を知らない学生もたくさんいたのではないかと思います。音楽研究会の他部会の方達も、本当に大変だったと思いますよ。

51年ぶりの定期演奏会中止

 その後はずっとステイホームとなり、部活動のこともあまり考えられないまま4年生の春を迎えたのですが、状況はほとんど変わっておりませんでした。

 とりあえず春の定期演奏会を6月に予定しておりましたので、それをどうするかという話になりました。話し合いは全てオンライン、LINE通話または時々zoomという環境でした。まだ2ヶ月位先のことなので、もしかしたら新型コロナ禍が終息して練習再開できるかもしれないという期待、また活動禁止前に合奏練習も少し実施できていたということもあり、演奏会開催に向けて準備は続けていたのですが。
 ただ、日を追っても状況は変わらず悪くなるばかりで、これは春の定期演奏会開催は厳しいのではないかという流れになりました。規模の変更、曲数の変更なども考えたのですが、ただどうしても合奏練習ができないということで。
 さらにネックになったのは、私達が開催したいと考えても、ホール側が開催NGという判断になってしまったらどうしようもないんですね。武蔵野市民文化会館の小ホールを予約しており、とても響きが良いホールで演奏できることを楽しみにしていたのですが。 その当時のホール側の判断がどうであったかは覚えていないのですが、最終的には春の定期演奏会は中止ということに決断せざるを得ない状況となりました。

 その後も、例えば8月頃に延期して、規模・会場も変更しながら無観客でも開催するというような、様々な案を考えました。演奏会という形でなくとも、ミニコンサートのような何かしらの形でも秋の定期演奏会前に本番を踏みたいという想いがあったのですが、それも叶わずでした。コーチなども交えながら毎日のように話し合い、試行錯誤を続けておりましたが、本当に辛い日々でしたね。
 同期も皆、辛かったと思います。直接会って話すのと、オンラインで話すというのは全く違うんですよね、表情や息遣いが読み取れないというのは。まさに音楽もそうだと思いますけれど。4年生同士もだんだんと気持ちが沈んでいった印象があり、話し合うこと自体が辛いものになっていましたね。楽器を弾くために倶楽部に入ったのに、私達は何をやっているんだろう… ということをとても感じていました。それは後輩達も、同様に辛かったことと思います。

 演奏会が中止になったという記録を当時調べたのですが、学園紛争で中止となった1969年の第16回にまで遡るのですね。CUMCとしても歴史的な年に私達の代が直面してしまったと感じました。

- 通常は4月から新入生勧誘があると思うのですが、明らかに例年と様子が異なりますね -

 新入生勧誘については、もちろん対面では何もできない状況でした。学友会が主導して、オンラインでのサークル紹介を実施しましたので、CUMCも参加をしました。1団体10分程度でサークルの紹介を行い、それを新入生が視聴するという形式でした。
 正直、4年生は運営のことで新歓まで手が回らない状況で、3年生が主に活動してくれました。私としては、残念ながら全く手につきませんでした。
 新歓というと、新入生と対面して「ちょっと楽器触ってみなよ」というのが基本の第一歩じゃないですか。それができず、画面上で「こんな楽器です」と紹介してもなかなか新入生には伝わらないですし。新入生の側も辛かったと思います。当時はもう、誰もが辛かったはずですね。

- 何もできないという厳しい時期、石田さんは普段何をして過ごされてましたでしょうか -

 私自身はもう、アルバイトですね。卒論の準備は進めておりましたけれど、他の単位は既に履修し終えていましたので、今がチャンスと思って夜勤でアルバイトをしておりました。お金を貯める機会と思いましたが、使う機会も無いという複雑な状況で、今思えば昼夜逆転の不健全な生活になっていたかもしれません。夜勤ができた頃は、とにかく稼がないとという気持ちしか無かったです。
 自宅では、マンドラの基礎練習に打ち込んでおりました。楽曲の練習をするにも、演奏する本番が決まっていない状況でしたので、それならオデル教則本の基礎練習でもやろうか、という感じでした。
 アルバイト・楽器練習・話し合い…実際にできたことは、その3つではないでしょうか。
 あとは、近くに住んでいる友達と銭湯に行って「黙浴」でリフレッシュしていました。それもコロナ禍中の数少ない楽しみでした。

活動再開、学内の全部会に先駆けて

 夏頃まで同じような状況が続きましたが、ただ、どうしても演奏したいという気持ちは抑えられない状況でした。
 その時に大学外の先輩から、オンライン配信でのアンサンブルコンサートを企画しているというお話を聞きました。ぜひ出演したいとお受けをしまして、同期2人と後輩1人を誘った四重奏で個人的なユニットを組んで学外で何回か練習して、7月にオンライン配信による本番を迎えました。現在でもYouTubeで、その時の演奏が視聴できるようです。それが久々の、誰かと一緒に演奏する本番の舞台でした。それがあったのが、自分の中でだいぶ救いになったと感じますね。そうまでしてでも、誰かとマンドリンを演奏したかったですね、当時は。

2020/7/19 (日)開催「第5回演奏会をしよう!LIVE」 より

 春の定期演奏会が開催できなかったので、秋の定期演奏会は絶対に開催すると4年生全員が決心して8月頃から準備を始めました。まず選曲からですが、春に決めていた選曲は一旦白紙にして考え直しました。ただ何より、活動再開ができなければ仕方がないですよね。
 確か8月末くらいであったと思うのですが、大学からサークル活動再開申請の案内が出たのです。申請に当たっては条件があり、例えば食事を行わない、各自の距離を保つ、マスク着用・換気を行う、活動参加者全員の氏名リストを提出するなど、様々な項目がありました。その条件を満たして文書を提出し、審査が通過すれば活動を認めるという内容でした。
 それにいち早く気付いた同期が尽力してくれて、無事に活動再開が受理されたのが9月下旬頃であったと思います。これは後々聞いた話ですが、活動再開を許可された第1号の部会は2団体のみで、その一つがCUMCであったとのことです。
 活動再開できるとなって皆大喜びで、酒折文武監督からも「最初に再開されて誇りに思っています」という内容のメールを頂きました。

 再開初回の練習はトップ合奏のような形で、学外の北野市民センターを借りての活動でした。2・3回後の練習から後輩達も合流してもらいました。久しぶりで、雰囲気がすっかり変わっている部員もおりましたね。

 選曲の話に戻りますと、CUMCでは毎年鈴木静一先生の作品を必ず演奏してきており、自分達も鈴木静一作品を演奏して引退したいというのは譲れない気持ちでした。ただ、鈴木先生の作品を演奏するには管打楽器のエキストラを招聘すべきところですが、当時は管楽器の飛沫が問題視されていた時期で、管楽器を加えることができないという判断になってしまいました。そもそも練習期間が短く、出演をお願いするのが難しいという事情もありました。
 弦楽器のみの編成であっても何とか鈴木先生の作品を演奏したいという中で検討して、最終的には「組曲「山の印象」」をやろうという形になりました。
 また、春の定期演奏会で演奏する予定だった吉水秀徳作曲の「3 Dimensions」、これは楽譜も春の時点で行き渡っておりますし、春に多少は練習をしておりましたので、これにしようと。本当は鈴木静一作品を最後に演奏して引退したかったのですが、演奏会のバランスとしてこちらの方が良いのではないかというコーチのアドバイスなどもありまして、プログラムの最後としました。
 そういうわけで演奏会は2部構成・前半2曲/後半2曲として、演奏曲も若干減らして弦楽器のみ編成ということに落ち着きました。

制限された状況、2つの革新

 演奏曲目は決まったのですが、本番の日程は12月11日にめぐろパーシモンホールと決まっており、練習期間が2ヶ月半しか無いのです。例年であれば夏合宿も終わっており、ある程度弾けるようになっているはずの時期なのですが。なおかつ、久しぶりに楽器に触れたという後輩もいる状況でした。そこで2点、例年と変えたことがありました。

 1点目は、先ほど申し上げた通り合宿ができないということで、それであれば「強化期間」という、例えば3日間連続で練習する期間を設けて、寝泊りはできませんが毎日練習場を夜間まで予約し、この期間はなるべく部員に参加してもらい集中して練習に取り組もうという期間を設けました。そのような期間を確か2回くらい設けたように記憶しております。

 2点目は、本番を「オンライン配信」としました。これが画期的だったと自負しております。このアイディアも、同期の誰かから出たものだと思います。予算が10万円くらいでしたかね。YouTubeオンライン配信と同時にアーカイブも残るという、本当に前例のない初めての試みでした。大学の音楽サークルでそういったことを実施したというのも本当に早い時期でしたし、これについては多方面の方々からお褒めの言葉を頂きました。
 何よりもオンライン配信としたことによって、会場にもお客様にご入場頂くことができたのですが、ステイホームや様々な事情で会場に来られないという方々からも、ご自宅の大画面TVで視聴頂けたというお話を聞くことができました。中には、海外からご覧頂いたというOBもいらっしゃったようで、オンライン配信のチャット欄がプチ同窓会になっていたみたいですね(笑)。映像のクオリティも高く、カメラの切り替えで演奏者や指揮者の表情もアップで見て取ることができて、本当に良い取り組みになったと思います。
 こういったことを発想できた仲間がいて、それに賛同する同期全員で、何とかして自分達の音楽を少しでも多くの人に届けたいという想いがあったので、本当に良かったです。

 今思えば、2ヶ月半の練習期間で、合宿も無く活動を様々に制限される中で、これだけのクオリティで演奏会を開催できたのは本当に当時の自分達を称えたいと思います。私達は秋の演奏会を開催できましたけれど、他の大学を眺めてみると、ほとんど軒並み中止だったんですね。CUMCの他には本当に数校のみであったと思います。
 絶対に引退のステージは開催したい、という強い想いが実を結んだのではないかと今にして思います。

 私達が試みた強化期間やオンライン配信について、翌年もまだ活動が制限される中で、後輩達も同じように継続してもらうことができたというのは、私達にとっても嬉しかったです。

- 翌年以降に繋がる行動になっていたというのは、間違いなくそう思います -

あの1年を乗り越えた”想い”

- 2020年という一年を過ごして、率直にどうでしたか? -

 いや… もう、何をすればよいのかわからない、あまりに未曽有のこと過ぎて、誰も経験したことのない、誰にもわからないことでしたので…。ただ、そんな中でも何とかして、マンドリン音楽活動を皆で再開したいという強い気持ちがありました。

 正直、心が折れそうになったことは何度もありました。先ほども申し上げました通り、活動はオンラインでの話し合いばかりなので、どんどん気分が沈んでいく日々で…。もう演奏会もいっそのこと、休憩無しで2曲でもできたら十分ではないか、鈴木静一作品も実現は厳しいのではないか、という話が同期から出始めて、それに賛同する声も多くありました。
 それでも自分は、これまで3年間頑張ってきたことをここで妥協したくはないという想いが強く、また鈴木先生の作品は何かしらの形で演奏したいという想いもありました。
 そこで、自分の本音というものを話したところ、それに賛同してもらえる同期も増え始めて、無事に実現することができまして。あの時もし自分が諦めていたら、全く違う形になっていたのではないかと思いますし、あの時本音を語れて良かったなと思います。それくらい、皆が沈んでいた時期はありました。

- 石田さんの想いがあったから、翌年にも繋ぐことができたということですね -

 いやー(笑)、自分だけの想いではないのですけれど、それに賛同してくれたというのが大きくて。当時のその場では、なかなか意見というのも出づらく、本音も語りづらい雰囲気でした。

- わかります。オンライン会議って、何かが変なんですよね -

 そう、何かが変なんですよ。思っているけれど言えないという部分が、皆に共通であって。
 ただもう、大学4年生 最後・引退の演奏会は一回きりだぞ、と。自分自身が1年生から始めて育ってきて、また先輩方達が今まで本当に頑張ってきて、それだけは無駄にしたくないという想いがありましたね。本当にあの時、自分の気持ちに噓をつかなくて良かったなと思います。それを繋いでくれた後輩にも、感謝しかないです。

石田友也、鈴木静一愛を語る!

- 大事にしてくれたその強い想いは、もう少し具体的にお聞きしてしまいますと、鈴木静一作品への想いは、どこでいつから生まれたのでしょうか -

 マンドリンを始めて様々な音楽や、様々な先輩方と出会い、自分達もあのように格好良く引退したいという想いがありました。その中でも自分の気持ちを大きく揺るがしたのが、やはり鈴木静一先生の作品であると思います。

 最初の出会いは、1年生の秋の定期演奏会にて演奏した「大幻想曲「邪馬台(幻の国)」」でした。初めて聴いた時に、「すごい音楽だな…」と。主題が一度収まって、もう一度復帰してくるところ(※69小節目)から始まるチェロとギターの「ミシファシ、ミシファシ…」あれが、とにかくかっこいい! と。それに聴き惚れてしまいました。
 先ほどお話したようにギターの経験はあったので、自分でもちょっとやってみたいと思い、夏合宿で先輩からギターをお借りして左手の押さえ方を教えてもらい、「うおぉ、これだー!」という感じで(笑)。「石田はあの時、合宿でミシファシやってたよね」というのは、当時の先輩や同期には有名な話だったと思いますよ(笑)。
 当時はクラシックも聞いたことがなかったですし、1曲が3分~4分のポップスに馴染んでいた私としては、演奏時間20分だと聞いて「なんだ、それは!?」という感じでした。ところが聴いてみると、これがおもしろい。それが衝撃的な最初の出会いで、それからは完全にとりつかれましたね。

 先輩からも、「大学から始めて、これだけのめり込む人間はなかなかいないぞ」ということで、こういう曲もあるから聴いてみろと、部室に保管してあるコムラードマンドリンアンサンブルのCDを貸してもらい、聴き漁っていました。没後十五年記念演奏会で出版された「鈴木静一 そのマンドリン音楽と生涯」の存在も知るや否や購入して、隅々まで読み漁りましたね。気が付けばどんどん、鈴木静一の創る世界観に魅了されてしまったようです。

 マンドリンと出会って私の人生が大きく変わったと思うのですけれど、鈴木静一という作曲家に出会えたことも今の自分に与えている影響は大きいと思います。もちろんマンドリンに出会わなければ鈴木静一作品を知ることも無かったですし、あの時CUMCの新歓ブースを自ら訪れて本当に良かったなと今では思います。

もしも、ここに…?

- 最後に、ここにもし鈴木静一先生がいらっしゃったら、どんなお話をされたいですか? -

 えーっ!? そんな絶対に有り得ないことを…? でも、一度お話をしてみたかったですよね。実際にお会いしたら、緊張で何を話してよいかわからなくなると思いますけれど…

 でも、まずは感謝の気持ちを伝えますね。本当にいろいろな作品を生み出してくださったこと、そして今でも弾き継いで語り継いでいる人がいますよ、ということを伝えたいです。

 それから個人的にお聞きしたいこととして、戦前・戦後で日本中に大きな価値観の変化があったと思います。それでは戦前の作品はどういう想いで作曲されていたのか、そして戦中・戦後も映画音楽に長く携わっておられたと思いますが、そこの話もお聞きしたいです。特に戦時中のことなどは文献を見てもなかなか出てこないので、例えば戦争映画の音楽にも携わっていたということで、どういった想いで戦争というものを見ていたのかということも気になります。純粋に作曲家の仕事として作っていたという面もあると思うのですけれど、その当時の日本の状況というものをどう捉えておられたのか、と。

 ああ、そうです! 私がなぜここまで鈴木静一作品の虜になったかというと、大学で日本史学を専攻していたのが大きいのです。鈴木静一作品の題材には「歴史物」が多いじゃないですか。曲想にもロマンを感じるものがあり、歴史を感じ取れる作品が多いということで、そこに何かシンパシーを感じたという面が強かったです。歴史と音楽とマンドリンを繋げているのがおもしろいな、と。
 私が日本史学専攻ではなかったら、そこまで鈴木静一作品に魅力を感じていたかというと、微妙だったかもしれません。それだけ、鈴木先生の歴史を題材とした作品に魅力を感じておりました。

(2023年8月24日 取材)