押しに負けて、人生が決まった!?
- 鳥居さんがマンドリンと出会ったきっかけからお聞かせください -
中央大学附属高等学校に入学しまして、マンドリン倶楽部(当時の音楽部)に入部したのが具体的なマンドリンとの出会いでした。
これは入部した後に気付いたのですが、たまたま自宅に中大附属の第25回定期演奏会C Dがあったようでした。私の兄も中大附属出身でしたので、付き合いで定期演奏会に行ったときに購入してきたのだと思います。ただ、入部前に私がそのC Dを聴いていたことはなかったと思います。ですので、具体的にマンドリンという楽器や音を認識したのは高校1年の5月くらいのことであったと思います。
- 入部のきっかけはあったのでしょうか? -
実際のところは、先輩に勧誘されて連れてこられたという感じですね。
どちらかというと本当は、ホルンを吹きたかったのですよ。タイミングが違っていたら、きっと吹奏楽部に入部していたのではないかと思うのですが。
音楽を聴くこと自体は嫌いではありませんでしたが、中学までは専門的に楽器に触れることはなく、音楽の授業程度でした。中学校では卓球部に所属しておりましたが、あまりやる気のない部員でした。
高校の運動部は自分の体力レベルではキツいだろうし、音楽系の部活もアリかな、ホルンの響きというのがどうも肌に合っていたらしく、なんとなくやってみたいな…と考えているうちに、教室で昼食をとっていた時に当時2年生の先輩がやってきて「君、暇そうだったらちょっと来ない?」という勢いに負けて、フラフラとついていったという感じでした。
図書館の地下1階にピロティと呼ばれる広いスペースがありまして、そこで昼練習をしているところに連れて行かれました。そこで初めて「ああ、弦楽器なのか」と間近でマンドリンを目にしたのでした。最初の印象としては「軽くて小さいな」「弦楽器だから、肺活量がなくても大丈夫だな」という、極めて現実的なことでした。
- ホルンを選んでいたら、肺活量のことは大変でしたよね -
そう! しかも実は、管楽器でも音を出すのが一番難しいんでしょう? 後々、ウインドオーケストラのマンドリンエキストラとして舞台に乗ったことがあるのですが、ホルンの方が一番叩かれていましたね(笑)。こちらはテレビやラジオから流れてくるプロの音でしか知らなかったわけだから、「ああ、ホルンというのはこんなものなのだな」と思っていたのですが、「アマチュアのホルン奏者というのはこんなに大変なんだ!」ということを認識しました。
- 失礼ながら、今では鳥居さんがホルンを吹いているイメージがとても持てないです(笑) -
そうでしょう? あの時の自分の選択は、神懸っていた(笑)と思いますよ。
今言うと失礼なことですけれど、必ずしもメジャーなものではないマンドリンという楽器をやってみるのも、他人と違ったことをするという意味でアリかな、とその時は思いまして。
そして、マンドリン系楽器にもマンドラやマンドロンチェロなどいくつかパートがあるということでしたが、「重くて大きくて、運び辛そうだな」という大変に不純な理由でマンドリンを選びました。
- それでは、マンドリンを選んだことに特にこだわりがあったということでは無かったのですね -
はい、全くナシでした。まあ、そういう人の方が多いのではないでしょうか。こだわりがあって選んだ方には失礼ですが、少なくとも私にとっては音楽をするための楽器の中で、たまたま出会ったのがマンドリンであったという感じでした。
- 大学でもマンドリンを続けようと思った理由などはありましたか? -
無い、というのが正直なところでしょうか。自然と、続けるんだろうな、というような。附属高校から始めて大学で続けた方のうち、多くがそうだったのではないかと思うのです。
もちろん、マンドリン以外のものに興味を持つとか、「こんな先輩達や音楽とは関わりたくない!」と思うことがあっても良いわけですが。私はそこまで嫌いになることはなく、むしろ好きだったわけですね。高校3年間で、他人より好きになる程度には打ち込みましたし、自分で言うのもなんですが他人より楽しんで弾ける程度の技術は身に着けることができたかな、とは思ってはいました。
- それでは、高校生活の3年間が鳥居さんにとっては大きかったですか -
大きかったというより、原点ですかね。そこで、人生が半分くらい決まったようなものでした(笑)。
歴史的な人数縮小期に
- ちなみに当時の中大附属は男子校でしたね -
はい、男子のみ1学年500人の頃でした。
- そうすると大学は共学ですので当然女子学生もいるわけですが、当時の人数比はどうだったのでしょうか -
学年にもよるので難しいのですが… 全体としては男子が多かったです。何故かというと、中大附属から内部進学してくる比率も多かったので、マンドリン倶楽部に入部する経験者というと、まず中大附属の男子学生、となりますね。
- 他の高校でマンドリンを経験して入部された方や、大学で始められた方はいらっしゃいましたか? -
はい、いました。先輩方には前橋女子、川越東、浦和第一女子などいらっしゃいましたし、大学で始められた方もいました。ただもちろん、中大附属からという比率も多かったです。
私の代はそもそも、人数が最終的に少なかったのです。卒業した時は5人でしたが、一番減った時は3人にまでなりました。珍しいパターンだと思うのですが3年生の時に、短大から中央大学に編入学した方で新たに3人入部して頂いたのです。
- そういうことがあったのですか? 最近では聞いたことがないですね! -
そうでしょう? 短大自体が、既に少ないですからね。それも内2人は未経験からで、その2人とも卒業まで2年間続けて頂きました。それでももちろん学年ではとても全パートを揃えることができませんでしたし、少なかったですね。
- それは厳しいですね。先輩後輩の人数も少なかったのですか? -
そんなことはないです… と言いたいところなのですが、2年上の代は最終的に1人でした。私達の代も少なかったことがあり、当時はCUMCの歴史的にも人数が最も縮小していた頃だったのではないかと思います。
- 鳥居さんが高校生の頃にご覧になったCUMCは、もっと人数が多かったということですかね -
そうですね。ですから、私も大学で入部したらこれくらいの人数で大規模にやるんだろうな、と勝手にイメージは膨らましていましたね。
- 実際に入部してみたら人数の少ない状況だったと… こんなことを申してはなんですが、廃部の危機などは感じていらっしゃいましたか? -
はい。実際に皆、意識はしておりましたし、そういう話もしておりました。
- そうでしたか… そう考えると、現在CUMCが継続しているということは鳥居さんにとっては… -
おかしな話ですけれど、現在の現役の方々に対して、逆に私自身は極端には危機感を感じてないというか(苦笑)。これだけ人数の少なかった代でも続いたので、皆さんもこれから頑張れば大丈夫ですよ! と言うと、とても無責任な発言だと思うのですけれどね。
- そうですね。人数規模だけで言えば、現在以上に厳しい時期だと言えますね -
この話、長くなってもよろしいんですかね… 私が大学2年・春のパンフレットをお持ちしておりますが、ご覧になりますか? ステージメンバー、だいぶキュッとコンパクトになっているでしょう?
- ああ、キュッとしてますし… 首席奏者のほとんどが下級生で、2プルト・3プルトが組めないパートばかりですね -
ちなみにこのパンフレットも部員数が少ないことから出費を節約するために、紙だけを購入して自前のプリンターで印刷しているのです。
第76回定期演奏会パンフレット
- 曲目を拝見しますと、それでも第2部はそれなりに人数が必要そうなプログラムですね -
そうですね、よくやりましたよね。「組曲「樺太の旅より」」は、それでも鈴木静一作品の中でもエキストラの必要人数が少なく、なおかつ難易度が極端に高いものを避けて、という方針で選ばれたはずです。吉水秀徳の「2つの動機」も、どうにかできるかな、と。
- それでもエキストラを加えて、楽譜通り演奏したのですね。この人数で、現在のCUMCが選曲したら… -
怒られますよね(笑)。ただ、演奏自体の評判は意外に高かったですね。当時、部員全体の必死感もあったのかと思います。
演奏会会場は府中の森芸術劇場ウィーンホールです。併設するどりーむホールではなくウィーンホールですので、武蔵野市民文化会館の小ホールと同じくらいのサイズ感です。
これも以前の人数規模でしたらウィーンホールなどは使用しなかったでしょうし、私が入部する前後くらいから人数が少なくなった影響で、むしろウィーンホールでも丁度良いという判断になったのでしょう。ウィーンホールの豊かな残響を味方にできたのも、結果的には大きかったと思います。
60周年記念、当時のOBとの距離感
- 第77回定期演奏会(創部60周年記念演奏会)を鳥居さんは2年生の時に経験されているのですね -
こちらも当時のプログラムをお持ちしておりますが、第2部をOB・OG合同記念ステージという形としております。前半の第1部は、学生+一部OB・OGによるステージです。
ご覧の通り、本当にたくさんのOB・OGにご出演を頂きました。合同ステージはパートにもよりますが、6割~8割がOB・OGですね。
第77回定期演奏会(創部60周年記念演奏会) OB・OG合同ステージ
- これは、当時の部員数が少なかったから、という意図もあったのでしょうか? -
この当時、自分の口から言うのもなんですが、OB・OGとの距離感が短かく、比較的仲が良かったように思います。
私の話をしますと、1年生の秋頃にOBの方から「平山城址公園でサッカーをするから来ないか?」という感じで声をかけられまして。いざ行ってみたら、学生は自分一人で他は全員OBなんですが。「なんだ、この集まりは?」と思いながらも、そのままサッカーしたり、食事を奢ってもらったりしました。年代の近いOBで、顔や名前は存じている方ばかりでしたからね。
何故存じ上げているかということについて一応説明が必要かもしれませんが、当時の中大附属ではOBにコーチとして指導をして頂く体制でした。その年の大学3年生の指揮者的な立場の方が中心になり、もちろんその他のパートや学年の方にも手伝って頂いて、中大附属に教えに来るというスタイルでした。
ですから高校当時の私も、大学ではこういう方が活動されているのだなということは認識しておりました。また大学になると、OB・OGの方がよく合宿に遊びに来てくれるじゃないですか、コーチという立場ではなく。そこで一層交流を深め、間近で演奏を聴くことで、「こんなすごい方・こんな面白い方だったのか!」と距離感を縮めさせて頂く機会になりましたね。
- OB・OGの方からしても、現役生が非常に少ない中で、少しでも何かしたいという気持ちがあったのではないでしょうか -
恐らく、そういう想いはお持ちだったと思いますよ。責任感といったものもあったかもしれませんしね。
それは私の立場でも切実に感じますので、今も仕事として行っております「新入生勧誘セミナー」などには力が入ります。当時も、下の学年を教え育てるということについて、個人的には頑張ったつもりではおります。後輩達もお陰様でそれなりの人数が続けてくれましたが、3年下の学年についてはあまり力になれなかったという心残りはあります。
80回記念、コーチ体制の変更
- 4年生の時にも、再び記念演奏会を開催しておりますね -
開催しないといけないという決まりはないんですけれどね(笑)。ただ、そういう雰囲気もありますし… 自分達が4年生の時に第80回を迎えるということは、当然意識しましたね。
- この時も創部60周年記念と同様に、第1部を現役ステージ・第2部を合同ステージという形式だったのでしょうか -
この回は、少々特殊な形をとっておりますね。
1曲目・オープニングの「大学祝典曲「栄光への道」」は合同演奏なのです。そして学生+一部のOB・OGにて、2曲目・吉水秀徳「プレリュード3」、3曲目・藤掛廣幸「星空のコンチェルト」です。そして「星空のコンチェルト」については当時のコンダクタートレーナーである柄本卓也先輩(平成8年(1996年)卒)に指揮をして頂きました。
第2部については鈴木静一「楽詩「雪の造型」」、「交響譚詩「火の山」」2曲とも合同演奏の形をとっております。指揮は、常任指揮者であった前野一隆先輩(平成2年(1990年)卒)、コンサートマスターは音楽技術顧問のプロマンドリニスト・青山忠先輩(昭和57年(1982)年卒)です。
第80回記念定期演奏会~鈴木静一先生生誕百年記念~ OB・OG合同ステージ
- トレーナー、常任指揮者、音楽技術顧問… 失礼ながら、私には聞き慣れない役職ですね -
そうですね、ここも説明が必要ですね。ちょうどこの前年の秋から、コーチ体制が変わったということがありました。それまでは総合コーチに桐朋学園大学講師の合田香先生、技術コーチに青山先生、アシスタントコーチに前野先輩という体制で10年近く続けて頂いていたのです。
大きく変わった点としては、合田先生が音楽監督という役職になり、先ほど申し上げた音楽技術顧問・青山先生、常任指揮者・前野先輩、ここに新たにコンダクタートレーナー・柄本先輩と、テクニカルトレーナー・酒折文武先輩(平成10年(1998年)卒)が加わって頂きました。
これまでは、学生が決定したプログラムやイベントについて音楽的にコーチングするという形でした。音楽監督に就任頂くことで、選曲等も含めた音楽的な面での運営全般に関して直接的に指導して頂くという形になりました。具体的には選曲のバランスであるとか、この人数・このホールでどういったプログラムに並べるべきであるか、各楽曲について首席奏者に誰が就くか、といったことを音楽的な見地から指示をして頂くということです。
合田先生をはじめとするコーチの方々に、CUMCの倶楽部活動へより深く手を入れて頂くことで、活動内容を音楽的に高めていく、ということです。これは管弦楽や吹奏楽の世界では、むしろ一般的なスタイルかと思います。そういった方針にしたのが、2000年の秋シーズンからなのです。
- 鳥居さんの代は人数が少なかったこともあり、指揮者を立てなかったのですよね。例えば常任指揮者というものを設けたのは、そういう経緯もあってということでしょうか -
恐らく、そういったことも総合的に考えていらっしゃったのでしょうね。
- 以降の定期演奏会は、常任指揮者が必ず指揮をしたということでしょうか -
以降は各学年に指揮者がいたこともあり、実態は必ずしもそうではなかったです。常任指揮者が指揮をするという選択肢もある、ということでしょうか。クラシックのコンサートとしてお客様に演奏をお聴き頂く上で、どういった人選が適切かということも都度判断するということですかね。
例えば私達の代で言えば、指揮者を立てられない・指揮者を立てない方が望ましい、という状況であってもお客様に満足して演奏会をお聴き頂くためには、学生以外から指揮者を立てるという提案も必要だよね、という判断があったわけです。
- すると、この体制になってからは演奏会の取り組み方に大きな変化があったということでしょうか -
大きな変化があったかというと、なかなか一言で説明するのが難しいのですが…
一つには、私達の代の人数的な意味での不甲斐なさもあったのだと思います。そうなりますと、下の学年から抜擢しないと厳しいのではないか、そうは言っても学年の上下といった人間関係に配慮するべきではないか、というようなことを学生同士の中で判断・決定することに難しさはありますよね。
そういった点について、我々の気持ちを汲んで頂いたところもあったのではないかと思います。外部の専門的な知識を持つ第三者から提案を示して頂くことが、当時の状況としてはCUMCとコーチの双方にとって理にかなった形だったと理解しております。
- このような指導体制の変遷は、現在CUMCに所属する学生にとっても参考になるかもしれないですね -
現在の指導体制が最初から当たり前のものではなく、実はこういった変化を経て今の体制になっているということについては、もしかしたら参考になるかもしれませんね。
二度の”記念”を経験して
本当にOB・OGやコーチなど、人に支えられ続けてきたのが私達だと感じております。私達の人数の少なさや技術の拙さについてカバーするために、口の悪い言い方で正直に申し上げるなら「利用をさせて頂いた」という想いもありました。
ただ、そこにはもちろん尊敬や敬意もありましたし、親切なお気持ちを頂戴したからには無下にすることなく活かすことが最大の恩返しである、と少なくとも当時の私は考えておりました。
第80回に関しましては、CUMCの音楽性において大事な部分を築いて頂いた鈴木静一先生の生誕百年を2001年に迎えるということで、メモリアルの意味合いを込めた演奏会にするのも良いのではないかと考えました。そういったことで、鈴木静一作品を3曲も並べてしまいました。アンコールの「祝宴」も含めると4曲ですね。
- 実はプログラム全曲が邦人作品というのも、すごいですね! -
さすがに、やり過ぎですね(笑)。一回くらいやってみても良いのでは? と考えたのですが、今思えばちょっとコッテリし過ぎですかね。
この選曲に関しても、音楽監督の指導がかなり入るようになりました。この曲で良いのか? この組み合わせで良いのか? といったことを話し合わせて頂きました。
本当は「音楽物語「朱雀門」」などもやりたかったのですが、ナレーションを入れるとどうしてもナレーションがメインになってしまい、音楽性をトレーニングすることを考えるとこの時期には相応しくないだろうという判断がありました。
その他にも曲の並べ方であるとか、敢えて学生ステージの指揮者にコンダクタートレーナーを選択するといった、CUMCの過去の演奏会に捉われないトリッキーな仕掛けを演出して頂きました。
- こちらに、2000年当時に鳥居さんがお作りになった第80回の企画案をお見せ頂いておりますが、当時からこういったものをまとめるのがお好きだったのですね -
当時、暇だったんでしょうね(笑)。まあ、好きは好きだったということでしょう。これだけまとめても腰が重くて、具体的な打ち合わせは前年の12月末からようやく、という辺りがもうダメですよね(笑)。
- 当時、21歳くらいでしょうか? その頃から鳥居さんは鳥居さんだったのだ! と、こちらのレジュメを拝見して感じました -
うーん… そう言われるとそうだな、と思います。昔から、こんなことばかりをやっていましたね。
- 実際のところ、記念演奏会の開催は大変でしたか? -
率直に申し上げますと、私自身はあまり大変だとは感じませんでした。後輩の方がむしろ大変に感じていたかもしれません。2年前に60周年の開催経験があったということもありますし、OB・OGと一緒にやるということも特別に違和感はありませんでした。コーチ・OB・OGからも積極的に支えて頂けるという印象があったので、皆さんのお力を借りて楽しませて頂いたことの方が辛さよりも記憶に残っております。
むしろ、その年の秋の方が厳しかった印象があります。学生主体の限られた人員で開催しなければいけないということもありましたし、当時はいわゆる「氷河期世代」で就職が厳しかった時期でもありました。就職活動で気持ちがすり減ったまま新歓活動についてもあまり力になれず、演奏面でも指揮者を立てられなかったという半端な責任感があって空回りすることが多かったように思います。
合同ステージの感触を多く知っているが故のやりづらさ、というのも、もしかしたらあったのかもしれません。
- ご卒業されてからの音楽活動はいかがでしょうか -
卒業してすぐに「クリスタルマンドリンアンサンブル」に所属して、2020年まで出演しております。また卒業の翌年に「ポルタビアンカマンドリーノ」が結成され、発足から2019年まで出演しております。他に「マンドリーノ東京」での出演、また近い世代で集まって高齢者施設や地域イベントでのアンサンブル活動を行っていた時期もあります。
必要な時に、役に立てる場に
- OBとなっても演奏活動を続けておられる一方で、現在はマンドリン専門店に勤務されておりますが、マンドリンをお仕事にされたいという想いがあったのでしょうか -
転職して現在の勤務先に就職しているので、卒業してすぐにそういう想いがあったわけではないのですが。
マンドリンというものが、私の情操的なものを大きく育ててくれたと思っております。内なる感情を引き出し表現するといったことは、音楽から学んだことも非常に多いです。そういったことを様々な方に体験・共有して頂く、それを仕事にしていくという生き方も良いのではないか、と。恩返しという言い方は大袈裟かもしれませんが、そういった想いを持って「マンドリン・クラシックギター専門店 株式会社イケガク」に現在も勤務しております。
- 現在のCUMCも、部員の減少や法学部キャンパスの移転等により厳しい状況に直面しております。時代の違いこそあれ、やはりCUMCの厳しい時期を共有している鳥居さんから、現在のCUMCへ投げ掛けたい言葉はございますでしょうか -
いや、もう、ありのまま活動して頂ければよろしいと思いますが…
実際、学業と両立しながらどこまで活動にエネルギーを使うかというのは、私達の時代とは違うので、難しいことがあると思うのです。私は今も父親から、「中央大学法学部”音楽学科”を卒業しやがった」と言われますから(笑)。
皆さんそれぞれ自分達の「こうしたい」「ああしたい」という、あるべき姿があって、その生活の中に音楽がいてくれれば良いな、と思います。それがマンドリンという楽器を使用した合奏であれば、より良いですね、と。
極端な話をするなら、もしかしたら5年後・10年後のCUMCは、現在のようなマンドリンオーケストラによる合奏で定期演奏会を開催している団体ではないかもしれません。私達の時代も、コンサートの形が変化したように。例えば衣装などが変化しているのも、それは時代の変化ということで理解しております。今の時代時代に応じた形で楽しんでいってもらえば良いかと思います。
「伝統」というものは物事をスタートする時に基盤になってくれる有難いものですが、必ずしもそれにずっと捉われなくても良いのではないかと思っています。
- 時代に即したCUMCの在り方というものを模索して、私達OB・OGとしてはそれをできる限りサポートしていくということですね -
そうですね。その中で、何か頼りたいということがあれば何とかするよ、と。目上の人達というのは、頼られることに意外と弱いんですよね。「そうか? しょうがねぇなぁ(笑)」という感じで。
実は、これだけOB・OGと繋がりのあるマンドリンの学生団体というのも、現在では稀少なんですよね。それは決して悪いものではなく、大きなものだと思うのです。そこは私も含めたOB・OGの方も分をわきまえるべきですが、とは言え、何か力になれる時に力を発揮できるようなところに居たいとは思います。
(2023年8月24日 取材)