ジュネスへの道(渋谷駅から公園通りを登って!)
【Ep.1 異世界への扉〜ジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラ】
私がCUMCに在籍した1980年頃は鈴木静一先生がお亡くなりになったばかりで指導者がいない時代でした。
そんな中、先輩からプロの指揮者が振る楽団に参加できることを教えてもらったのです。それがジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラでした。参加メンバーはオーディションで選抜され、100人で演奏する。なんだか手強いオケだなあという印象があったものの、プロの指揮者の下で演奏できるという非常に美味しい企画でした。
【Ep.2 ジュネスとは若者のこと】
ジュネスの正式名称はJeunesses Musicales du Japon (ジュネス・ミュジカル・ドゥ・ジャポン):青少年音楽日本連合といい、ユネスコ傘下のFIJM:青少年音楽国際連合の日本支部として1961年に発足(後援は文化庁、NHK等)、2001年7月に活動を停止しました。
会員制で年齢が30歳以下のメンバーで構成され、団体・個人合わせて約5,000人が登録されていました。JMJの活動はいろいろありますが、私が関わったのは青少年音楽祭とジュネス委員でした。
【Ep.3 青少年音楽祭】
音楽祭は毎年7月の第1日曜日に開催されます。会場はNHKホールで、教育テレビとNHK FMで放送されます。
演奏会は3部制でマンドリン、合唱、管弦楽の3部門にステージが割り当てられます。
メンバーは団体会員、個人会員の中からオーディションで選ばれます。
マンドリン部門は団体会員に登録した12の大学(早稲田、慶應、上智、農大、日女、東女、大妻、津田塾、文教、実践、共立、中央)と個人会員の合わせて約100名で構成されています。
あの紅白歌合戦と同じ舞台で演奏できるんです。そう思うとちょっと興奮したのを覚えています。また舞台がとても広く、マンドリンオーケストラが100名乗っても後方に合唱隊が100人乗れるほどの広さです(舞台写真参照してください)。私が初めて参加したのは、第45回青少年音楽祭でした。
【Ep.4音楽研究会ジョイントコンサート(第一の壁)】
ジュネスの本番舞台に乗るまでに、様々な難関がありました。
第一の壁は中央大学音楽研究会のジョイントコンサート。
中央大学音楽研究会では6月に、所属するサークルが集まってジョイントコンサートが開催されます。私の時代、マンドリン倶楽部で1年生から3年生までが中心メンバーになり、3年生指揮者、3年生トップでの合奏のデビューとなります。3年生はデビュー戦になりますから練習にも熱が入ります。ここで問題が… ジュネスの本番とジョイントの本番が近いので、練習日程がほとんど重ってしまうんですね。
「ジュネスの音楽祭のために練習を休みます」とは非常に言いづらい雰囲気でした。ジュネスの方も10回の練習には全て参加することという厳しい条件がついておりました。そのため部員が青少年音楽祭への参加するのは厳しい状況でした。
私も諦めかけましたが…
【Ep.5 新たなる希望(ジュネス委員に!)】
大学3年生になると、倶楽部の役員の任が回ってきます。
対外的な役職には全マン委員などがありますが、その中にジュネス委員があったのです。(やった!) この役職を逃してはならない!と立候補して無事ジュネス委員の役目を引き受けることができました。これで音楽祭への参加の希望が見えてきたのです。
ジュネス委員はマンドリン、合唱、管弦楽の3部門から委員が選出され、毎月1回(だったと思う)、演奏会前は月数回 NHKの会議室またはスタジオを借りて演奏会の企画会議を行います。指揮者をどなたにお願いするか、選曲をどうするか、オーディションの準備、合唱や管弦楽部門との調整 その他諸々、NHK担当部署にお伺いを立てつつジュネス委員の学生たちが全て運営します。会議が終わるといつもみんなでNHKの社員食堂へ行き遅い夕食をとります。(NHKの社食ですから有名人がいっぱい。)
【Ep.6 マンドローネの脅威(第二の壁)】
青少年音楽祭に向けて、ジュネス委員たちはそれぞれ役割を与えられます。私の担当は楽器係。マンドローネを10本調達することがミッションでした。収集期間が2ヶ月だったと記憶しているので10本揃えるのは結構ハードです。母校、明治大学、十文字中高、など都内あちこちに出かけて借り回った記憶があります。なぜ10本必要だったかは覚えていませんが、ベースパートの代わりにローネパートを作ったのです。ですからオケにベースがありません。これは珍しい編成ですね。舞台でローネが10本並ぶ様子は壮観です。(威圧感もあったりしますが…)
【Ep.7 オーディション(第三の壁)】
音楽祭には参加資格があります。30歳以下で10回の練習に全部参加出来ること。オーディションは渋谷のNHKのスタジオで行われます。この時(第45回青少年音楽祭)では、マンドリンの審査員は遠藤隆己先生でした。私は委員なので運営もしますが演奏にも参加します。マンドラパートは採用枠14名。課題は本番で演奏する曲の中からランダムに指定された箇所を弾くというもの(試練!)です。オーディションを受ける皆さんは、課題の2曲を完璧に弾ける状態で受けますので侮れません。私はというと、オーディションを受けるなど生まれて初めてだったせいか、緊張して何をどう弾いたかよく覚えていませんでした。
課題を弾き終わった後、審査員の遠藤先生から「綺麗な音色ですね。どこの楽器ですか?」「落合です!」…「えーと弾いてもらったところは3拍子ですよ(苦笑)」気が付きました、3拍子を4拍子で弾いてしまった!
【Ep.8 初練習…プロの軌跡】
練習はゴールデンウィーク明けから毎週日曜日。
大学のジョイントコンサートの練習を休んでいることに後ろめたさを感じつつ、全マン以外の他大学の学生とも交流できて楽しい日々を過ごしていました。
オケのメンバーはオーディションを通過してきたわけですから、個人練習は完璧で初日からフルスロットルです。あと2回の練習で調整すれば本番OKと言った仕上がり具合です。しかし私は、し…指揮が分からない! プロの棒についていけない! 学生指揮しか知らない私にとっては難解な棒の軌跡!
そう言えば演奏会で使用するパート譜は、NHKがプロの写譜屋さんに頼んでいるのです。手書きの達筆ですごく綺麗な楽譜です。
【Ep.9 指揮者の国分誠先生…今でも覚えているお言葉】
「ハンガリアの黄昏 (D.べルーティ)」はマンドリンソロとのコンチェルトです。曲中にソロと学生のコンサートマスターが掛け合いで弾くところがあるのですが、明らかに表現力に差があるんですね。ゲームで言うと経験値が格段に違う。対戦したら瞬殺レベルです。
国分先生「(コンマスに)君はもっと恋愛をいっぱいしなさい。」情熱的な曲だから情熱的に弾かないといけないのでしょうね。
「初夏の歌 (帰山栄治)」では、学生が曲のフレーズをうまく表現できないときは歌わされます。
国分先生「楽器を置いてみんなで歌ってみよう!」
国分先生「それじゃぁマンドリンで弾いてもダメだな!もう一回!」
100人での大合唱。何度も歌わされた記憶があります。
先生が眉毛でキューを出すからついてきてね、という場面も。
とにかく練習の何もかもがカルチャーショックでした。
【Ep.9 ソリストも暗譜なのだから(第四の壁)】
何事も試練がつきものでそれを乗り越えるから感動を味わうことができるわけです。
ここで新たなる壁が立ちはだかったのです。一番高い壁だったりして… 舞台の写真を見て何か違和感を感じた方はいらっしゃるでしょうか。
国分先生「ソリストも暗譜しているのだから君たちも暗譜で弾きましょう。」
…冗談ですよね。この国分先生のありがたいお言葉に唖然。
はじめは半信半疑だったのですが、国分先生も暗譜です。もう後には引けない。
「ハンガリアの黄昏」は拍子が一定なので問題ないのですが、難関は「初夏の歌」。変拍子でパートの音の入りも複雑。曲のテーマが初夏なのでランダムに落ちる落雷を表現した箇所もあります。この曲…オーディションで3拍子を4拍子で弾いてしまった苦い経験のある曲だし。また、いつもは目の前にあるはずの譜面台が無いというのも不安です。
【Ep.10 夏の宴】
さて、幾つもの壁を乗り越えてやっと本番です。もう逃げも隠れもできません。暗譜で一発勝負です。当日は3部門300人近くがNHKホールに集まるので、息つく暇もないほど忙しい演奏会でした。それでも舞台の上で、放送用のカメラがどこにあるかはチェック!
心に残った国分先生の温かいお言葉です。
「楽譜がなくても大丈夫。私がちゃんと指示を出すから思い切り弾きなさい。」
(とかだったかな)
それではお送りします!
D.べルーティ作曲:ハンガリアの黄昏、帰山栄治作曲:初夏の歌、
指揮は国分 誠! マンドリン独奏は榊原 喜三! 演奏はジュネス・ミュジカル・マンドリンオーケストラ!
さあ! 舞台へGO!
(2024.9.6 寄稿)