女の子にモテたいギター青年の話
- 高橋先輩の、音楽との出会い・マンドリンとの出会いをお聞きできますでしょうか -
中央大学附属高等学校に入学する前までは、音楽に関してはまったく経験がありませんでした。運動部の盛んな高校でしたから、中学からの野球を続けるのも難しいと思い、高校では何をするかと考えていたのですけれど。
これから女の子にモテるには「ギターを弾けなければダメだ」と思って、そうしたら新歓で倶楽部の先輩が「エレキギターを弾ける」というデモンストレーションをしておりましたので、ギターを教えてくれるということが動機で入部しました。入部してしばらく経ったら、それがマンドリンの伴奏パートだったことがわかったのですけれど(笑)。いずれにしても当時はビートルズやフォークソングが流行していた頃でしたので、とりあえずガットギターを弾こうということでそのまま3年間を過ごしました。
ちょうど私の2年上、指揮者としては石井昭先輩が準備してくださったお陰で、中大附属の第1回定期演奏会に出演する幸運にも恵まれました。
人生を左右した、鈴木先生との出会い
大学に入学しましたら、神田神保町校舎の中庭で新入生勧誘のイベントを行われておりまして、同期や先輩の顔も知っておりましたから、やっぱり大学でもマンドリンをやるのかな、という流れで5月上旬頃にCUMCに入部しました。
5月下旬に第14回定期演奏会の開催準備がされており、ギターの先輩から楽譜をごそっと渡され「2週間で音を拾ってこい!」と言われ、当時の後楽園の練習場に参加しました。ちょうどその時、人生を左右した衝撃的な出会いですね、鈴木静一先生が初めて後楽園の練習場に来られたのです。定期演奏会に向けて練習中の「スペイン第二組曲」を指導してくださいました。
鈴木先生の曲は「山の印象」を高校で演奏したことがありましたし、「スペイン第二組曲」も景色を彷彿させる良い曲だなと思っておりました。ただ、作曲家がご自身の作品に思い入れを込めて、目の前で指揮をして頂けるわけですよ。その現場に居合わせたことに衝撃を受けました。それが、鈴木先生との初めての出会いです。
マンドロンチェロへのコンバート
春の定期演奏会はギターで参加して、その後 新入生歓迎合宿というものが夏頃から始まり、秋の定期演奏会に向けて準備が進むのですが… とにかく100人以上の倶楽部でしたし、同期が最初は40人くらいいたものですから、管楽器もベースも、またギターも人数が溢れておりました。そこで、バランスよく各パート人数を調整しなければならない、と。
夏の新入生歓迎合宿に私はギターを持って参加したのですけれど、合宿所に到着したらマンドロンチェロが待ち構えており(!) 、私とフルートで入部した駒崎明君の2人が、4年生の指示によりマンドロンチェロへのコンバートとなりました。私達も含めて新入生それぞれやりたい楽器というのはあったと思いますが、オーケストラとして3年後までを想定をしてバランスよく続くように、うまく割り振られたということですね。なかなか今では考えられないコンバートかもしれませんが(笑)。
- 逆に部員数が足りないためにコンバートを行うということは現在もありますが、フルートからマンドロンチェロへのコンバートというのは衝撃的ですね! -
そうですよね(笑)。それでもやっぱり、自分はこの楽器を続けたくて入部したのだ! というささやかな抵抗感がありまして、練習の休憩時間にギターで得意のフレーズを掻き鳴らしていたということも覚えております(笑)。
学園紛争、定期演奏会の中止
大学2年次の春に第16回定期演奏会が予定されておりましたが、この頃が学園紛争の一番激しかった時期でした。学内・学外に限らず、文化団体において発表会や演奏会の中止が相次いでおりました。
我々の演奏会に向けての練習も、相当に曲の完成間近までに至っていたのですが、状況が許さず泣く泣く第16回定期演奏会は中止にしようと上級生が決定されました。その時に練習していた曲は、現代でしたら録音やビデオ録画をして遺していたのでしょうけれど、結局持ち越しすることもなくお蔵入りとなりました。
鈴木静一先生のご指導と関わり
私と鈴木作品の関わり合いとしては、大学1年の春に「スペイン第二組曲」、秋の第15回では東京初演であったと思いますが「スペイン第三組曲」、第16回中止の後の第17回は「樺太の旅より」、第18回は「雪の造型」、第19回は「受難のミサ」「北夷」「ルーマニア狂詩曲第1番」を演奏しました。
第20回は関西大学との合同演奏の時期に重なり140~150人のメンバーでしたので、鈴木先生から「シルクロードを演奏したらどうだ」というご提案もありましたので演奏させて頂きました。私が卒業の第21回は少々盛り込み過ぎたのですが、第2部に「人魚」と第3部に「失われた都」「火の山」、アンコールに「細川ガラシャ」という、鈴木先生も食傷気味だったのではないか(笑)というプログラムをさせて頂きました。そういうことですので、中止となった第16回を除きまして全ての演奏会で鈴木先生の作品を取り上げさせて頂きました。
その都度、鈴木先生は岩井の合宿にもお越し頂きましたし、富坂の練習場にも来て下さったので、先生の考え方や音楽に対するスタンスというものを学生の立場なりに勉強させて頂くことができました。
先生のご指導のやり方というのは、音量やテンポ、アーティキュレーションの指示というものについては、ほとんどおっしゃることがありませんでした。フレーズを合わせる息の取り方であるとか、どちらかというと指揮者やパートトップに対するアドバイスというのが、少なくともCUMCの指導ではメインでした。スコアに記載されていることでも、例えば音量やテンポ等についてはオーケストラに任される部分があると思いますが、「そこはこう思います」と先生にお話しをさせて頂き、スコアの記載と異なる表現をしても先生は怒られませんし、ご不満そうなことをおっしゃられたことは少なくとも私の記憶にはないですね。その点はとても自由にさせて頂きました。
- 作曲者にとっては自分のテンポ感やイメージがおありだと思うのですが、あまりそういうことはおっしゃられなかったのですね -
そうですね。例えば人気曲の「火の山」や「失われた都」を他団体が演奏された録音を聴いても、先生がご指導されているにも関わらず全然違うものが出来上がっているというのを耳にしましたし、私達もその点をあまり細かく言われたことは無いです。
ただ例えば、「このフレーズはマンドラが歌ってほしい」というところで消極的に弾いていると、楽器をむんずと取り上げて、マンドラパートの前で先生がグワーッと弾いていらっしゃるという光景は見ましたね。チェロもずいぶん「こう弾かなくてはダメだ」ということは言われました。それは、気持ちをどう表現するかというところが足りなかったりすると、アドバイスをされるということでした。
ですからご不満が無い場合ですと、夕方に練習場へ来て下さってから練習時間が2時間くらいだったでしょうか、もちろんこちらから質問すれば応えて頂けましたが、あまり先生からお話されることはありませんでした。
ただ、「北夷」の練習だったでしょうか、先生も我慢ならなかったのでしょう。「そうじゃないんだ」と指揮棒をむんずと取り上げて指揮台に昇り、指揮をされたというのはありました。先生の指揮というのがまた麻雀牌をかき混ぜる「理牌」のような指揮なので、当時の学生は麻雀が好きでしたから、先生が指揮をされるとどうしてもクスクス笑っちゃうんでね。その点が苦労しましたね(笑)。
当時の練習場には当然ながら冷暖房がありませんから、冬などは寒いのですよ。タクシーでお越しになられた先生をお迎えすると、マフラーとトレンチコートをお召しのまま音研の練習場に入ってこられて。ご用意させて頂いた椅子にお座りになると、当時の日本人がほとんど吸わなかったドイツ製の「シガー」にすぐ火を点けられるのです。当時の学生が吸っていたセブンスターなどの薫りとはまったく違うので、練習場が先生の薫りに一変するという思い出がありました。
- 先生の肖像写真を拝見すると、パイプを手や口にされているものをよくお見かけしますね -
そうですね、大変お好きでした。私は役職としてマネージャーを担当しておりましたので、先生がお越しになられるときは到着時間にお待ちをして、タクシーでお越しになられたら練習場にお連れをして、練習が終わったらタクシーを拾ってお送りするということをしておりました。
岩井・前芝荘の合宿の時には泊りがけで来て下さいましたから、もう朝から晩までじっくりご指導をして頂き、もちろん鈴木先生作曲・編曲以外の曲も含めて屈託なくアドバイスして下さいました。
これは笑い話になりますけれど、先生にご入浴して頂くに当たって、学生が入った後の残り湯では失礼なので、先生のご入浴時間は15時と決めていたのですよ。15時になると「お風呂が沸いてますから…」ということでご案内するのですが、先生がお一人で入浴して頂くのも失礼かと思いまして、コンサートマスターの瀬村則夫がお風呂をご一緒させて頂いて(笑)。お背中を流したのかどうか知りませんけれど(笑)、そんなこともコンマスの大事な仕事としておりました。
ポピュラーステージを廃止する決断
私達が4年になるまで、定期演奏会のプログラムは
第1部:オリジナル曲
第2部:ポピュラー曲
第3部:クラシック編曲
という流れでした。つまり、第1部の最後に鈴木先生の曲を入れるというのが当時の考え方でした。そして第3部には、4年生の指揮者が何年も準備期間をかけて用意した編曲を演奏するということなのです。
ただ、だんだんと鈴木先生との関わりが強くなってきますと、やはり鈴木先生の曲で第3部のステージを締めたいという流れが出てきました。
また、クラシックの大曲を編曲・演奏することの負担が大きいにも関わらず、管弦楽曲の和声をマンドリンオーケストラで表現することがそもそも難しく、それでお客様は本当に満足して頂けるのか? 「よくやった」という拍手は頂けるかもしれませんが、音楽的にどうなのか? という気持ちはだんだんと強くなってきました。
そして私達が4年生になってから、第2部のポピュラー曲をプログラムから削る決断をしました。
ポピュラー曲を削るということは、ただ単に演奏しないということ以外にも意味があったのです。それは、特に秋の演奏会では卒業する4年生を一人ずつ順番にプロフィールを紹介するというイベントがあり、それをポピュラー曲のステージで行っていたのです。OB・OGや部員家族の方はそれで大満足なのですけれど、やはりコンサートとして不特定多数の方をお呼びしている以上、身内向きのイベントからはそろそろ卒業してもよいのではないかという気持ちが立ったのです。
それ以降は当たり前の形となったのですが、やはり当時の先輩方には「なぜ廃止したのだ、楽しみにしていたのに」という苦言は頂きましたね。
「全マン連」演奏会と、CUMCとの関わり
それまでも鈴木先生には、その都度指導料をお支払いしながら指導を仰いでいたのですが、私達が4年生になって、「もう、これから鈴木先生の曲を演奏しない演奏会は無いだろう」と思いましたし、正式に技術指導に携わって頂きたいとお願いをした経緯であったと記憶しております。
それが実は「全日本学生マンドリン連盟(全マン連)」の演奏会とも関わってくるのですが、それにも触れて宜しいでしょうか?
- もちろん、お願いいたします -
当時、「定期演奏会」と銘打って開催しているのは、まだまだ全大学というわけではなかったのですよ。A大学とB大学が集まって「ジョイントコンサート」を開催するというのが定期イベントである、という大学も多かったのです。そういった当時には、年2回開催される全マン連の演奏会というのが一大行事に位置付けられておりました。
実はこれには、コンサート以外の意味合いもあったのです。現在では楽譜の入手については楽器店で何でも手に入るようになりましたが、当時は今のインターネット時代とは雲泥の差でした。名古屋や大阪に手紙で注文するようなこともありました。
そのような環境でしたので、慶應・早稲田・明治といったクラブが楽譜の配給元としての役割を担っていた面もあるのです。特にCUMCから見ると、慶應の所有している蔵譜・蔵書というのは非常に魅力的でした。当時のCUMCでもラヴィトラーノ、マチョッキ程度の楽曲は何とか所蔵していたのですが、「ボッタキアリ? ファルボ? 何だ、それは?」という程度だったのです。CUMCだけでなく、関東の大学にとっても同様だったでしょう。
これ以外に、ジュネス(青少年日本音楽連合)による青少年音楽祭がNHKホールで毎年開催されておりました。私も2年・3年次に出演しましたが、当時は服部正先生がNHKと強いパイプを持っていたこともあり、ジュネスミュジカルマンドリンオーケストラ、あるいは青い鳥オーケストラと称した合奏団の運営については慶應が主体となって段取りをして頂いておりました。その時に、良い曲を取り上げてくれるのですね。「交響的前奏曲(U.ボッタキアリ)」など、初めてジュネスで取り上げて頂いた時に「こんな良い曲があるんだ…」と思いましたよ。
- 確かに、第20回定期演奏会の第1曲は「交響的前奏曲」でしたね -
そうなんです。頑張ってバンカラCUMCでも演奏しましたけれど、やはり慶應の交響的前奏曲は何というか、響きが違いましたね。当時の慶應同期には、うまい指揮者とうまいコンマスもいましたからね。
鈴木静一ブロック・クーデター計画!
ここでようやく、鈴木先生のことに繋がるのです。
1968年に東京で開催された全マン連コンサート、これは3日間に渡って開催されました。その際のブロック分けが「京都チーム」「大阪チーム」「神戸チーム」「中国チーム」「西日本チーム」となっている中で、関東だけが「明治チーム」「早稲田チーム」「慶應チーム」「日大チーム」と大学名を称したブロックとなっているのです。この時、CUMCは日大チームに参加して「ギリシャ風狂詩曲」「ミレーナ」「アイネクライネナハトムジーク第1楽章」を演奏しました。他ブロックの演奏曲をご覧頂いても、ヴェルキ、メッツァカーポなど…鈴木先生の曲は演奏されていないのです。
1968年という時代、まさにCUMCが鈴木先生の曲を初めて定期演奏会で演奏した時期ですし、他の大学でも取り上げられるようになった頃ですが、それでもこの時はまだ合同演奏曲には上がることが無かったのです。
これが終わってから、各大学が鈴木先生の曲を積極的に取り上げるようになり、全マン連でも「鈴木先生の曲を演奏したい」という声が関東でワーッと高まってきたのです。
ただ、早稲田・慶應・明治・日大というチーム名が付いていると、どうにも鈴木先生の曲を演奏するという雰囲気は作りにくいわけなのです。なぜなら、早稲田には赤城淳先生、慶應には服部先生、明治は古賀政男先生、日大は明治の流れを汲む宮田俊一郎先生と、各指導者・作曲家が健在の状況にあっては、各幹事校としてもどうしても取り上げにくいのです。
ところが関西ではポツポツと鈴木先生の曲を自校の定演で取り上げるようになり、これは関西のチームに先を越されてしまいそうだぞ、という空気を感じていました。このまま早稲田・慶應・明治チームを看板にしていると、鈴木先生の曲を演奏できる見込みが立たないので…もうクーデターを起こそう! と。
- クーデター!(驚) -
はい、早稲田・慶應・明治に内緒で。それが、1970年の名古屋開催でのことです。
この開催前に、演奏曲を決めるために各校の全マン委員が集まって「ワークキャンプ」が例年通り実施されました。そこで、当時すでにメジャー校であった日本女子大や東京女子大、また当時はまだ新興的な立ち位置であった中央大、工学院大、東京農業大などの声を集め、「このままでは早慶明で決まりそうだから、クーデターを起こすしかない!」という流れを作って、とある大学に「鈴木先生の曲を取り上げたい」と発言をしてもらったのです。そうしたら各大学からも「やりたい」という声が上がり、鈴木静一チームを作ろうかという流れにもなりそうでした。ただ、さすがに「早稲田・慶應・明治・日大・鈴木静一」というチームではおかしいでしょう。
そこは早慶明の同期達も大人でしたので、「関東Aチーム、Bチーム、Cチームとしましょう」という解決に至ったのです。結果的には喧嘩することなく、時代の流れを共有することができました。
早稲田の同期だった稲原祐司君とは「関東高等学校マンドリンクラブの集い」の頃から知っており、彼が大人の対応をして頂ける方でしたので、同じチームでやろうということになりました。「メリアの平原にて」は早稲田の指揮者が、「細川ガラシャ」は中央の藤本匡孝が指揮を振るということで円満解決したのです。無血クーデター(笑)にて、平和解決となりました。
そのまま「早稲田=クラシック」「慶應=オリジナル」「明治=ポピュラー」ということが延々と続いたら、各地のブロックから見たら「関東ブロックは、いつまで時代遅れなことをしているのだ」と思われてしまうことでしょう。そんな、時代の変わり目を体験していました。これ以降、鈴木先生の曲を取り上げたいという雰囲気が各大学でさらに高まるようになりましたね。
地方大学から関西・関東へ、鈴木作品 伝播の理由
この名古屋開催の全マン連演奏会に参加した時、学生がとてもホテルなどに泊まれる時代ではありませんでした。大きなお寺の本堂に布団だけを用意して頂きまして、女子と男子を衝立で分けるだけの雑魚寝状態でしたが、演奏会前日にも関わらず、もう延々と宴会をして盛り上がりました(笑)。
その時に共立女子大のマンドラを演奏していたのが宮田多恵子さんで、その二つ下の妹がプロマンドリニストとなった宮田蝶子さんですね。各大学がそれぞれ指導者を持っていた時代ですから、家内の卒業校である大妻女子大も山口吉雄先生に指導を受けておりましたし。CUMCはまだ指導者を持っていなかった時期でしたので、私が4年生の時に鈴木先生にお願いしたのです。
同じく鈴木先生に指導を受けていた日本女子大では人数や財政が豊かだったこともあり、よく初演を取り上げておりました。CUMCは残念ながら財政に恵まれておらず委嘱初演が難しかったため、「日本女子大にて新曲を演奏するから、君達も来なさい」と鈴木先生にお声がけをして頂き、目白の豊明講堂によく伺わせて頂きましたね。
鈴木先生はご存じのように、映画界で長くお仕事をされておりました。ある時期にリタイアされて、ご自分の情熱を残していたマンドリン界に復帰されましたが、先述の通り主要な各大学には既に指導者が定まっていることもあり、なかなか発表の場が無かったのですよ。かなり思い悩んでおられたようですね。
そのうちに九州大や北海道大にて委嘱されることがあり、日本各地で段々と演奏されるようになりますと、当初は落ち込んでおられた先生のお気持ちが随分前向きになっていかれたことを、私も傍で拝見して感じておりました。ですから先生はCUMCのみを目にかけて頂いていたわけではなく、関東で言えば東京女子大、日本女子大、工学院など、重鎮的な指導者を当時持たなかった大学にも熱心にご指導くださいました。
関東以上に、九州・大阪・名古屋などが熱心であったということで、先生はよく出張に行かれておりましたね。
- 確かに作品の初演演奏についても、北海道大、九州大、愛知学院大など各地でされておりましたね -
そうですね。そして指導に行かれた先々で新たな曲想を得て、それを主題とした作品を作曲されてますね。ですからあの短い期間に、あれだけの曲をよくお書きになられたなと思いますね。あの当時のエネルギーには改めて驚きます。
鈴木先生 作曲・指導現場の風景
先生のご自宅は閑静でお庭の広い住宅でしたが、作業場となった書斎というのは本当に手狭なお部屋でした。大作曲家の現場というとグランドピアノが置かれた応接間に…という勝手なイメージがありますが、小さな机とアップライトピアノの狭間で書き物をされているというご様子でした。
先生の編曲作業というのは、オーケストラの楽譜をピアノに落とし込んで、そこからマンドリン用の和声に展開していくという、大変に理にかなったスタイルであったと思います。
ご自宅にお邪魔をさせて頂きますと、先生が甘いものをお好きだったこともあり、奥様から紅茶とショートケーキをお出し頂けることがありました。せいぜい文明堂のカステラくらいしか知らなかった当時の私達にとっては、大変なご馳走でしたね。
同期の藤本君や、1年下の竹本二康君(昭和48年/1973年卒)は指揮者として頻繁に出入りをしておりましたので、もっと深く先生の素顔を知っているでしょうね。藤本君や竹本君、その下の吉垣孝君(昭和50年/1975年卒)や飯塚幹夫君(昭和51年/1976年卒)は、先生から本当に可愛がられたと思います。
それぞれコムラードマンドリンアンサンブルの指揮者としても指導を受けておりましたが、藤本君の頃に比べると、吉垣君や飯塚君への対応は優しさがまったく違うようでしたね。言葉遣い一つを取っても、諭すように伝えておりました。藤本君には結構きつく言っていた気がしましたね(笑)。藤本君が積極的な男で、先生に対してもハッキリと物を申し上げておりましたので、先生の方も良い意味で遠慮が無かったのでしょう。
コムラードマンドリンアンサンブルの創設
コムラードマンドリンアンサンブルの立ち上げに関しても触れさせて頂きます。私達も高校・大学と十分に活動したのですが、学生時代に果たして100%の演奏ができたのか? という疑問や余力が、少なくとも当時の私にはあったように思うのです。
大学を卒業して1年くらい、慶應OBの山口寛さんが創設した三菱グループ主催のマンドリンクラブに参加しておりました。15名くらいの団体で月2回程度、三菱商事の地下にて簡単な曲を練習しておりました。山口さんが「弾き足りないようで、暇なら来いよ」ということで、藤本君、北村真一郎君、私などが三菱商事のメンバーに混ぜてもらっていたのです。
そのうちに、もっと大きな曲を演奏したいという気持ちが起きてきたのですが、しかしながら当時の関東において「出身校・就業先の制限がなく、誰でも参加できるマンドリンオーケストラ」というものがほとんど無かったのですよ。
- そうなのですか! -
そうなんです。都庁や企業が主催する団体、あとは先生が指導するサークルでした。それで悩んでおりましたら鈴木先生との雑談の中で「それなら君達が創ってみたらどうだ」というお言葉を頂きまして、それが卒業2目に創設した「コムラードマンドリンアンサンブル」なのです。
それでも、メンバーは集まるだろうか、練習場は用意できるだろうか… など悩んでおりましたが、その後も鈴木先生からアドバイスやご指示を頂いていたように記憶しております。
ですから出身大学に関係なく、中には高校でマンドリンを経験されていたという方も参加されておりました。また人数確保のため、CUMCの現役生にも参加をお願いしましたね。
無事に創設したのは良いのですが、社会人2~4年目というのは仕事も大変な時期ですよね。残業・休日出勤で練習に行きたくても行けない日々なわけです。なんとか「飯塚君が卒業するまでは持ちこたえよう! 彼が入ってくれば、当分は安泰だ!」というのが、当時の正直な気持ちでした。その飯塚君が、今日に至るまでにずっと引っ張ってくれましたからね。その後に中核になってくれるメンバーが生まれて、今まで続いてきているのですから、すごいことですよ。
- 社会人団体で50年も続いている団体というのは極めて少ないですよね -
その過程も、山谷がありましたけれどね。転勤で主要なパートトップが不在となった時期や、飯塚君自身も大変な時期があったようです。小野智明君(昭和56年/1981年卒)と高草木典葦君(昭和61年/1986年卒)が復帰してくれて、だいぶ落ち着きましたね。創立メンバーであった私や藤本・瀬村、江澤克文先輩(昭和44年/1969年卒)も第6回までに退団してしまったというのに、こんなにもコムラードが長く続くとは、まさか鈴木先生も思っていらっしゃらなかったと思いますよ。
激動の時代を経て、音楽に今思うこと
私自身がその渦中にいたから感じるのかもしれませんが、まさに激動の時代を生きていましたね。
- 本当に大変な時代の中にあって、先輩方ご自身も様々な改革改変をなされてきたということだと思います -
それがCUMCにとって良かったのかどうか… コンサートの形態を変更した時には、恨まれたところもありましたね。
- 何かを変えるというのは、それを快く思わない方も必ずいらっしゃいますからね。それも含めて、一つの歴史であると思います -
私も若い頃は「良い演奏をすればお客様は集まる」と思っておりました。最近思うのは、お客様というのは団体によっても層が変わりますし、必ずしも「マンドリン命!」というお客様ばかりではないんですね。楽しんでくれる方がいる限り、音楽に価値が生まれる、と。上手い・下手だけでは語れないことがあるな、と思うことがあります。
鈴木先生 埋葬の地を探して
今から21年前、コムラード第30回記念演奏会の際に私や駒崎君をはじめ、同期が集まって出演したのです。その時に「鈴木先生のお墓参りをしよう」ということになりまして、埋葬されているはずのお寺を訪問したところ、驚きました。鈴木家のお墓はあるのですが、鈴木先生の御遺骨は埋葬されていないとお寺の方が仰るのです。その時はどこに改葬されていたかもわからず、当日のお墓参りは諦めることとなりました。それからずっと、先生のお墓を探すこともできないままでした。
今年の鈴木静一展を開催する前に、私も時間が作れるようになりましたので、先生のお墓を再び探そうという気持ちが起きました。先生と親交の深かった清水奈津子さん(昭和50年/1975年卒)に伺ってもご存じないということでしたが、先生のご遺族の連絡先であれば何とかわかるということでしたので、ダメもとで連絡を差し上げましたところ、なんと先生の姪に当たる江連恵美子さんと連絡を取らせて頂くことができました。
突然のご連絡を差し上げたお詫びと、先生の作品を取り上げて2年に一度開催しているコンサートへのご招待を申し出ましたところ、大変にお喜びを頂きました。その後、せっかくのコンサートですので「叔母(鈴木英子)とは同じようにできませんが…1」と仰いながらも、お花をご用意頂けるということで。私達としては恐縮なことでお断りをしたのですが、江連さんもたってのご希望ということで、それ以上お断りをするのは失礼かと思いましてお願いさせて頂くこととなりました。
当日は大変立派なお花を2基もお送り頂きまして、ロビーに飾らせて頂きました。会場セキュリティの都合により、本番は舞台から客席に降りることができませんでしたので、残念ながら当日は直接お礼を申し上げることができなかったのです。そこで楽団長の小穴雄一さんから御礼状を差し上げましたところ、すぐに丁寧なご返信を頂戴しました。
江連さんは、鈴木英子さんの妹のお子様に当たるということで、鈴木先生と直接の血縁は無いのですが、私達が唯一存じ上げるご遺族ということですので、私は今後もそういったお付き合いは続けていこうと考えております。
そして演奏会の開催前に江連さんからお聞きして、ようやく墓地に参りました。広い墓地で探すのが大変でしたが、キリスト教式のお墓でしたね。
江連家のお墓となっておりましたが、1番目に鈴木静一先生、奥様が「鈴木英」として4番目に記されておりました。ちょうど桜の開花する前でしたかね、小高い斜面から望む、良い墓地でした。何人かには墓地の住所を教えて欲しいと聞かれまして、「あんまり大勢で騒がないように」と釘を刺しておきましたが、ひっそりと手を合わせてゆかれたようです。
時代の大きな渦中に巡り合えて
お亡くなりになって43年も経つというのに、先生のお名前を冠した演奏会を各地で開催して頂けるというのは、先生も幸せでしょうね。嫌いな方は、「映画のBGMみたいですね」とおっしゃる向きもありますが、そういったものに反論しても仕方がないですしね。
- それも含めて、ひとつの魅力・特徴と言ってよいと思います -
そうですよね。そして私が好きなのは、マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギターと、その楽器の一番良い音の鳴る音域を把握されているんですよね。各曲に必ず「ここ!」という場面が出てくるじゃないですか。あれがやっぱり上手いですよね。
- そうですね。演奏者として気持ち良いポイントをわかってらっしゃいます -
ここで鳴らしたい! という時に、本当に鳴ってくれる音を書いて頂いているんですよね。失礼ながら、「この作曲家は、マンドリンのことをわかっているのか?」と感じる楽曲に出会うこともありますが、そういたものとは一線を画していますね。
これは私の完全な独断と偏見ですが。
先輩方から脈々と伝えて頂いたものを、僭越ながら私達から飯塚君の頃まで(1971~1975年)にギアを一速入れ直したかなという風に思っております。その後に中村亨君(昭和55年/1980年卒)、田中零君(昭和56年/1981年卒)が現れて、ここでまた一段上がったと思っております。
私の巡り合いを総括いたしますと、CUMCと鈴木先生の接点が生まれたという大変恵まれた時期に、ちょうど1年生で入学することができたと思います。そして、先生との繋がりが1年ごとに強くなる現場に居ることができました。また、日本中が鈴木先生の曲を演奏したいという大きな波が生まれ、それが全マン連に変化をもたらしたという渦中に居た、ということですね。
(2023年10月22日 取材)
- 鈴木英子さんより、没後15年記念演奏会にて「ボールペン」を、生誕100年記念演奏会にて「盾」を、それぞれ出演者全員に寄贈頂いております。 ↩︎